1976年公開作品。監督:深作欣二。脚本:高田宏治。
「北陸の帝王」の異名を取り北陸一帯に勢力を振るった川内組組長・川内弘をモデルにした実録作品。川内本人がこの映画の撮影を全面的にバックアップしており、ラストの雪中生き埋めシーンの撮影時にジープの運転を誤まり瀕死の重傷を負った渡瀬恒彦を、雪の降る中川内組組員が車を飛ばして病院まで運んだことが有名。どのシーンかは特定できないが、モブシーンに川内組長本人が映っているカットもあるようだ。
この映画公開の翌年、三国事件が起こり川内は射殺されてしまう。いわば実録ヤクザ映画によって現実の抗争が引き起こされた形であり、深作欣二も高田宏治も著書の中で非常な衝撃を受けたと語っている。この映画を最後に深作欣二が実録路線を離れ、SF映画や時代劇映画へと向かっていったのはこのことと無関係ではないだろう。
渡瀬恒彦は抜群の運転技術を持つことで知られ、深作監督の『新仁義なき戦い 組長の首』、中島貞夫監督の『狂った野獣』などでそのドライビングテクニックを披露していた。この『北陸代理戦争』でも竹井義光を演じ小林念持らの頭を爆ぜさせるシーンではジープを自分で運転していたのだが、さすがに雪中という悪条件のためが車が横転し瀕死の重傷を負ってしまう。
深作は渡瀬の代役として若松孝二を考えていたのだが、若松のスケジュールなどからこの話は流れてしまった。結局代役は伊吹五郎が勤めたのだがすでに予告編は制作されていたため、本編には出演しない渡瀬が登場している。ラストの生き埋めシーンには渡瀬が運転していた時のフィルムも流用されているため、そのシーンにいるはずの成田三樹夫が写っていないカットがあるなど面白いことになっている。
川内弘は福井県三国を根拠とするやくざで、映画のように上部組織・菅谷組の代紋を利用して勢力を広げていた。かつての親分を相談役として従がえ、芦原温泉や三国競艇利権などを手に入れて北陸のみならず東北・中京・東海・九州などへ侵出し隆盛を誇った。だが映画後半の兄貴分と対立するエピソードも現実のものであり、この映画撮影時に現在進行形のものだった。映画の最後で、川田は盃を交わした兄貴分である浅田組幹部・岡野へ戦いを挑み北陸から撤退させる。モデルである川内弘も山口組若頭補佐・菅谷政雄(通称・ボンノ)の舎弟(山口組三次団体)であり菅谷組内最大組織だったが、若頭補佐を解任されるなど勢力に翳りが見えた菅谷を見限り、若頭・山本健一に接近して山口組三代目・田岡一雄の若衆となり山口組本家直参(山口系二次団体)への昇格を狙っていた。
それまでにも川内組系後藤組(後藤忠政組長)と菅谷組系天心会の小競り合いにより菅谷組と川内組の関係は悪化しており、菅谷と川内の間を取持つべく菅谷の舎弟である「最後の博徒」こと波谷組組長・波谷守之が奔走していたが、『北陸代理戦争』の公開により確執は決定的なものとなった。三次団体でしかない川内組のPR映画であること、撮影中に山口組・田岡一雄組長の長男である東映プロデューサー・田岡満を接待したこと、作中で川田が山口組をモデルとした浅田組と露骨な盃外交を繰り広げたこと、菅谷が福井に出展したキャバレーを川内が潰した事件がエピソードとして盛り込まれていたこと、菅谷をモデルとした岡野が川田に裏切られるシーンを見聞したこと、などにより川内打つべしとの空気が高まり、1977年1月24日、菅谷は川内を破門したのである。
菅谷は以前川内に破門されていた坪川三彦を支援して共進会を組織させ、川内の縄張りへと進出させる。一方、山口組幹部は川内を応援するため共進会へ強硬な姿勢を取り菅谷組へ圧力をかけるという、一次団体が三次団体を応援し、二次団体が四次団体を応援するという代理戦争的な構図が出来上がった。
最終的には映画公開の翌1977年4月13日、作中で川田登が刺客に襲撃されるシーンのロケ地であった福井県三国町の喫茶店ハワイにて、川内弘は菅谷組・共進会で組織された襲撃部隊の銃弾に倒れた。これが三国事件である。襲撃部隊の中に菅谷組組員と親しかったことから参加した波谷組組員がいたことから、警察は波谷守之を三国事件の首謀者として冤罪により逮捕してしまう。波谷は最終的には無罪を勝ち取るが、その間に三国事件の譴責として山口組から破門された菅谷組は衰退の末解散し、菅谷政雄も病死している。
1962年、全国制覇を目指す山口組は北陸を着々と侵攻していた。その最中に金沢の名門テキヤ・中沢組に内紛が起こり数派に分裂するという騒動が起こると、柳川組・小西組といった山口組系組織は中沢組の各分家を舎弟として取り込み北陸へ浸透して行った。後に柳川組二代目となる谷川康太郎率いる「殺しの軍団」柳川組北陸支部はそれだけでは飽き足らず、有力な分家を率いていた中村直秀を襲撃し、中村組を解散させて縄張りを奪った上で金沢から追放処分にしてしまった。
だがこの中村は広島の大親分、岡組・岡敏夫組長の遠縁に当たる人間であり、岡組長を頼って広島に落ち延びる。岡組長は柳川組組長・柳川次郎が山口組若頭・地道行雄の舎弟であることから地道を避け、もう一方の山口組内派閥の主である安原政雄にこの事件の調停を依頼した。調停役は実力者であるボンノこと菅谷政雄にお鉢が回り、菅谷は中村を舎弟にした上で柳川次郎と交渉し、さらには金沢へと出向き谷口とも交渉を重ねた。
最終的には田岡一雄がわざわざ北陸まで出向いて関係者から事情を聴取し、結局中村は北陸に復帰し縄張りは元に戻ることになった。だがこの一件は地方組織を併呑し拡大を続ける山口組への不信感を岡親分に植え付け、いわば広島モンロー主義にさせるには充分であったようで、後の仁義なき戦いと呼ばれる広島抗争の遠因ともなったといわれている。
1963年夏、この一連の交渉で金沢を訪れた菅谷は中村から出所したばかりの川内弘を紹介され、川内を舎弟とした。この柳川組の北陸侵攻、ボンノの介入、川内の出所、ボンノが川内を舎弟にするといった一連のエピソードが膨らんで『北陸代理戦争』中盤のストーリーの下敷きにされている。
【役名】 | 【役者】 | 【モデル名】 |
川田登 | 松方弘樹 | 川内弘 |
■浅田組 | ■山口組 | |
岡野信安 | 遠藤太津朗 | 菅野政雄 |
金井八郎 | 千葉真一 | 柳川次郎 |