情けなさが全身を覆っているような惨めさに涙が出そうだ。どんだけ涙ぐもうと零れないのを知っているからしないけど。
「あら、珍しい人がいる」
その声にぐっと噛み締めた奥歯をほどいて振り返ると、カラスの濡羽色と評するにふさわしい黒髪の美女がいる。美女だ美女。美人とかじゃなく。
「で、何だってここにいるのよ?」
「美女なのに甘くない・・・」
美女らしくゆったりと笑んでみせるべきだという主張は、ギンっと飛ばされた眼差しに口の中で萎んだ。美女ゆえにたっぱがあるから見下ろされるだけでも怖いのに。
「な・ん・で・いるのよ? あんた、嫌いでしょうがここ」
そう、確かに嫌いだ。空調設備が全くない地下倉庫なんて。咳出てくるし。鼻はむずむずするし。けど、ここ以外に行き場所がなかったからしょうがない。
「まあ、なんとなく分かるけどね。相変わらず、泣くの下手ね。あんた」
「っ・・・うっさい」
小声で言ったのに電気をつけても薄暗い静かな場所じゃ、はっきりばっちり聞こえるに決まってるけど。それにしたって怖いじゃないか、その顔は。
「はん。優しい利佳子様が心配して探してまで声をかけて上げたってのにその言い草? へーほー」
ぐっ・・・優しい美女になり損ねてるのがあたしのせいみたいじゃないか!!
「ほら、そんな顔しないで言ってみなさいな。せっかく美味いディナーに誘ってやろうと思ったのに。あんたんとこに行っても空席だったから、携帯にかけても繋がらないんだもの。まさかと思って来てみたら案の定じゃない。こんなとこまで逃げ込んで来た原因は何よ、え?」
苦笑しつつ、あたしの頭にポンっと手を置いて顔を覗き込まれる。さすがに黙ったままじゃ埒が明かないだろうと仕方なしに話すことにした。
「田崎が・・・」
「田崎? あのひよっこが?」
ひよっことはひどい言われようだ。確かに年下だけど成人はとっくに済ませてる男だぞ。そんなかわいらしいもんじゃない。
「田崎が相川君を連れて来て食事に行きませんかって誘われて。相川君とは久しぶりだったし、田崎が奢ってくれるっていうから。まあ、お昼ぐらい減るもんじゃないと思って付いて行ったんだけど。それは良いんだけど・・・」
「あ〜〜〜、みなまで言うな。何となく分かったわ」
さすがだ、姉御だ、大将だ!! 言葉少なめ、ぼかしまくりでも分かってくれるなんて!
「田崎と相川っていったら、外商専門の連中でも上位に組み込んでる連中じゃない。外人苦手な癖に良くついて行こうなんて思ったわね」
だってまさかいるなんて思わないじゃないか。お昼の定食屋に。鯖の味噌煮が美味いと評判の店に。
「で、また田崎に嵌められて会っちゃった?」
『また』とか言うんだ。言っちゃうんだ。ううっ、傷に思いっきり塩塗られた。さめざめと泣きまねをしたあたしに、冷たい視線だけで辞めさせると呆れたように『はぁ』と思いっきり溜息をついた。
「アレクと仲良くなりたがらないのって、あんたぐらいなもんよ」
からかう田崎もどうかと思うけど、あんたも困った子ねと苦笑された。その様子が何だかショックだ。どっちの味方か曖昧になってきてやいませんか。
そりゃ確かに。外商部門って言ったらデパートの中でも花形だ。VIPだって当たり前に相手するし、外人さんだって関係なく相手する。それでも英語とフランス語が流暢に話せる田崎は稀少で、フランス大使館の人たちが懇意にするのも分かる。しかし。しかしだ!!
「けどまあ、私の夜理を泣かせたおしおきはしといてあげるから安心しなさい。ということで、ご飯食べにいこ! あんたは残業よりも飲んだほうが良いわ」
利佳子さんの痛い愛の鞭を背中にバンっと入れられた。本当、痛いんですが。恨めしく見そうになって彼女なりの慰めなんだと無理やり心を落ち着かせた。ネジが飛んじゃってるからね。今はね。落ち着かないと・・・暴言どこじゃ済まなそうだよ。
「ほら、行くよ」
大人しく従ってバッグを掴んだ。着替えを済ませてから来たから、裏口からこのまま出て行けば良いだけですものね。ええ。
利佳子さん、何でまだ帰ってないって分かったんだろう。今更に気がついた事を口にすると、今度は本当に呆れ返ったらしく目が点になってるよ。笑えるが笑ったら怒られるな。
「あんた、本当に信じられない! うちの勤怠システムを何だと思ってるの!? 七面倒なのに、一々社員カードを出入り口でかざしてるでしょうが、毎日毎日」
「あ、あーー。あれ。やっぱ出勤簿代わりだったんだ」
いやあ、あはは・・・なんて照れ笑いをしてみたんだけど、利佳子さんに頭を抑えて天を仰がれてしまった。だって、まさか旧体制的あたしらの店で、そんな画期的なシステムが採用されてるとは思ってなかったんだ。
本当のこと言えば、興味の無い事にはとことんなので、ぽこっとこうやって知らない事が出てきたりする。何でか分からないけど、たまにある不思議。
「良いわよ、どうせ今に始まったこっちゃないから。それよりもアレクとの事、聞かせなさいよ」
そう言って、利佳子さんが逞しくもズルズルとあたしを引き摺っていった。
駅近くの居酒屋はあたしも好きな店だ。チェーンじゃないのが良い! 焼酎も日本酒も美味いし、ちょっと値が張っても美味い和食が食べられる。食べるのは大好きだ。普段は夜に食べないけど。夜に食べるとカロリーもさることながら、やけに体が重くなるので控える事にしてる。
こじんまりとしている店が好きなのはあたしの趣味だけど、カウンターにつきたがるのは利佳子さんの趣味だ。
「アユの緑酢がけって他にないのよね〜〜! うーん、美味しい!!」
麦焼酎が入ったグラスを傾けながら摘む姿はおっさんに近いものを感じる。美女なのに。なんて美貌の無駄遣いだろう。これだったら・・・
「やあ、まさかここで会うなんて奇遇だね」
ぽんっと肩を叩かれる。ちょ・・・まてっ! なんでここにいる!!
「田崎!! あんた、何してんの。って、夜理」
利佳子に目の前で手をパタパタされて放心状態から舞い戻る。危ない危ない。気を飛ばしてる所じゃなかった。
「田崎、今日は接待って言ってなかったっけ?」
「ああ、あれ。向こうの予定が狂ったらしくて、急遽、中止です。だから、時間が空いてしまって、丁度予定がないっていう相川先輩と友人の三人で飲みに来たんですよ。それより、どうせなら一緒に飲みませんか?野郎ばっかでむさ苦しいんです」
「あら、田崎の奢りなら良いわよ」
にっこり微笑んで当然よねなんていう利佳子さん、鬼ですね。給料日前ですよ。しかも、あたしらもう結構飲み食いしてますけど。でも、外商の若きエースには関係ないみたいだ。だって、田崎は利佳子と張る笑顔を向けてる。
「ええ、もちろん。連れを呼んできますから、ちょっと待っていてください」
そう言ってケンが離れようとした隙に、利佳子からこそっと耳打ちされる。
「今日は、あんた帰って」
が、残念ながら全てを言い終わらないうちに、田崎の連れが探しに来てしまったみたいだった。利佳子さんが思いっきり失敗したって顔をするので、ついそちらを振り返ってしまったあたしは大馬鹿なんだろう。
「ケン、何して・・・ヨリさん!!」
諸悪の根源とばっちり目が合ってしまった。最悪とばかりに渋面を作ってみせたけど、奴にはなんのその。田崎の口がにやりと上がったのを端で見て、更に嫌な感じ。
「おっ、アレク。良かったな〜、夜理さんと利佳子さんが一緒に飲もうって」
いや、利佳子だけってことで。そう思っても、レトリバーのように首をコクコクと振ってる姿に何も言えなかった。友達ってアレクの事だったのか・・・今日はとことんついてない。
相川君も後からすぐにやってきて、仕切りなおして五人で飲むことになってしまった。さっきからアレクの視線が刺さって痛いのは気のせいか、せいだな、うん。
それにしても三人、いや四人並ぶと壮観な絵巻を見せられてる感じだ。決して見たくて見てるわけじゃない。
利佳子の美貌もさることながら、その彼氏相川君は柔和な糸目の割りに鼻筋が通っていて、愛嬌のある風貌。年下の営業の子が癒されるとか何とか言ってたっけね。田崎は年相応のやんちゃさが残っている顔だけど、ワイルドな魅力に変換されていて大きな目が迫力ある。体躯も良いからお姉さま方に人気なのも分かる、分かりやすい危ない男。定期で彼女を変えてるって話は本当らしい。
そんで、アレクは。アレクはなんと言うか分かりやすい説明がつかない色男だ。年下だけど猫科を思わせる色気ある目に薄い唇が堪らないと外商部門の方がおっしゃっていた。
中東系を思わせる艶のある黒髪はちょっと癖がある。どこに行ってもモテるだろうと思わせる容姿で、豹のように優雅な身のこなしの男って貴重よねともおっしゃってましたね。そういや。よっぽど、あんたの方が豹っぽいですよと言ってみたかったのを我慢したんだった。目が怖すぎて。
「へえ。じゃあ、アレクは田崎と同級生なんだ。だから、そんなに仲が良いのね」
仕事中はどんだけ仲が良い取引先の担当だろうと年下だろうと、仕事だからって敬語と敬称付けを忘れない利佳子が呼び捨てにしてる。いつの間に利佳子を懐柔したんだ。どうやら、本当にアウェイ。
「客の家って言われて、良く知ってる友達ん家だったから驚きましたよ。しかも、その時に夜理さんも一緒だったもんだから」
「やんごとない家柄の坊ちゃんだから、アレクとお友達でも不思議はないんだけど。それにしたって仲が良すぎるじゃない。人間不信気味の田崎にして不思議だったのよね」
利佳子、酒が入ってるって言っても、年下だって言っても失礼だぞ。やんごとないのも人間不信も事実だから否定はしないけど。ああ、ほら。相川君が笑いを堪えるに肩が震えてるじゃないか。田崎の苦虫噛み潰したような顔に溜飲は下がったけど。
「利佳子さんって酒癖悪いんですかね? 人間不信だなんて、可愛い後輩をいじめないで下さいよ。それに、やんごとないってほど大した家柄じゃないですよ。母方が皇家の傍系ってだけなんですから。俺ん家とアレクの家柄なんて比じゃないです」
いやいや、あんたの家って古くは江戸初期からある老舗呉服屋で、今じゃ全国どころか海外にも進出して成功を収めたTAZAKIじゃないですか。上質な生地に適度な品をもったリアルクローゼットと有名な。
「ご謙遜! TAZAKIと付き合えるなら一夜でも良いわってな女子がいっぱいいるじゃないのよ、ちくしょう。アレクの家がすごいのは認めるけど〜、あんただって中々よ。ねえ、相川。あ、相川もお坊ちゃんだったっけ」
くだをまく利佳子ってのも珍しいけど、相川君がいるせいだろうなあ。やっぱ、つきあってる人がいると友情なんて二の次、三の次なわけですか。相川君、苦笑してないで止めてあげなよ。酔っていていも記憶は残るから、次の日になったら自己嫌悪で機嫌悪くなるんだよ。あたしは止められないから、お願い。
「りっちゃん、それぐらいにしといたほうが良いよ。明日も仕事なんだしさ。それに僕はお坊ちゃんでもなんでもない庶民だよ。アレクの家柄がすごいのは僕も認めるけど」
そこでにやっと笑ったら、せっかく人が良さそうに見える糸目が台無しだと思うんだけどな、相川君。
アレクが苦笑するけど、否定してないのはやっぱりそれなりだからだろう。あたしは知らないから何とも。アレクが大使館の人間で貴族階級の家柄ってのは知ってるけど、あたしからしたら田崎も似たようなもんだ。そこらへんの話に興味ないからやってきた枝豆を摘みつつさつま揚げをつっつく。
「ヨリさん、こっちも美味しいよ」
そういや、さっきから自分の話題も出てるってのに、面白いほどあたしを凝視してはニコニコしてる馬鹿がいた。すっごく迷惑だ。落ち着いて食べられないのは不快だ。不必要だ。しかも、いつの間にかタメ口になってるってのはどういうこと。よし、ここは一つ忠言してやるべきだね。
...to be contenue