ダラダラと汗が流れてるのが気持ち悪いです。なんて、冷静なのは余裕がある証拠でしょうか。いえ、ないよ。全然。
「ねえ、ヨリは本気にしてなかったけど、ボクは最初から本気だった。でも、ケンがヨリのペースに合わせてやれっていうから我慢してたんだ。いい加減、ご褒美があっても良いと思わない?」
言いながらトンっと押された。暴力じゃないけど、暴力ではないの。頭が働かない。体もフラフラ。眠気が。睡魔が。まずい、起きろ、耐えろ、根性だせ。
「ヨリはいつまでも年下だからって、男として見ようとしなかった。そのくせ意識させようとしたら逃げるんだ。卑怯だと思わない?」
いえ全然、全く。むしろ正当防衛だと。心の中で猛反論してやる。
「逃げるくせに肝心な所で無防備になる。警戒しながらも言えば付いて来る。期待するなって方が無理でしょ」
無防備なんて言葉良く知ってるな。お前本当にフランス国籍か。流暢な日本語でおかしなアクセントさえなければ完璧だよね。すごいね二ヶ国語。でも、そろそろあたしの首が限界かな。むちうちになりそうな体勢だから、ちょっと避けてほしい。
「ア・・・レク、あの」
やーなにこの細い声。誰。あ、あたしか。女なあたしかー。うわっ、キモッ。酔っ払ってるせいか。ちゃかしてやりたいのに、声が枯れてるよ。酒やけしてるよ。明日、声出るかな。
「人の気も知らないで平気でいるし、全く意識してないのかと思えば今みたいに急に部屋の中を探したり・・・もう限界なんだ」
ぎゅっと眉間を寄せてるアレクは彫刻じみてるくせに人間くさい。なんだ、ギリシャ神話に出てくるアポロンみたいだ。理性的で冷酷、神でありながら執着心の強い神をあたしはアレクに見てる。逃げるのが簡単じゃないことぐらい分かってた。
「だから、今日は」
「待った!!」
大声で叫んだあたしをきょとんと見てる。色気なんて無いからね。大声なんて久しぶりに出したよ、社会人。内勤務。声を張り上げる機会なんて、もう滅多にないってのに。
「ア、アレクの本気は分かった。十分、理解した。頭の隅で」
「隅で?」
いやそこじゃないから。むしろ、そこはついでの心の内だから。
「ちゃんと分かったから。だから、ちゃんと考えるから」
逃げて逃げまくってた人間の台詞じゃないよね、けど信じて。逃げまくったあとは、大概の事もちゃんと受け止めてきてるあたしだから。それ、利佳子が太鼓判押してくれてるから。
「ちゃんと考えるって何を? 結論なんてもう出てるはずだ。生殺しのままこれ以上は待て無い。嫌なら今答えて」
「今すぐなんて無理に決まってるでしょ!!」
「なら聞かない」
ちょっ、待て! 待て待て待て。落ち着け、アレク。ついでにあたし。お前さんの本気なんて、今始めて知ったんだ。そういうことにしておけ。だから待って。
「ヨリはずるい。嫌なら本気で逃げれば良いのに、この関係を壊したくないからボクの気持ちも否定する。本気で逃げないのに手を出すなってひどいのはどっちだろうね? 今まではヨリが良いならって思ってたけど、今日は許さないから」
どう足掻いても冗談にしてくれなさそうな雰囲気だ。しかもベッドに縫い付けられたようになってるから、睡魔に常時襲われちゃってる。二人同時はちょっと無理かな。無理だよ、絶対。真剣な場面なんで努めて必死に目を見開いてるんだけど、細い目だからね。そんなに怖くはないと思うんだ。何か、何か喋ろう。
「今までは、その・・・・・・ごめん。確かにアレクがいう通りだよ。逃げてた。でも、アレクがちゃんと本気で、す・・・好きだって言うならあたしもちゃんと返事したい。なし崩しにするんじゃなくて。ちゃんと自分の気持ちも応えられるだけになってるんだって、そう自信が出来てから。ちゃんと考えて返事す」
「だめ」
何で!! あたしのこの真剣な返答を却下しやがるわけですか。無理だとか嫌だとか言ってるわけじゃあるまいし。
「応えられるだけって何? 気持ちを測ることなんて出来ないだろ」
そっと頬に触れてくるアレクの手が気持ち良いのは冷たいからか。酔いも冷めてるんだが、眠さで熱くなってるんだろうな。って人事みたいに見ていたら、アレクが口の端を持ち上げながら笑った。すごく嫌な予感がする。不吉と言ってもいい。
「それに自信が出来たらって言ったよね。それってヨリもボクの事好きだってことでしょ。ヨリが同じ気持ちでいてくれてるのに、待てるわけないだろ。好きだって気持ち、それ以上に何を考える必要がある?」
王子様スマイルに甘い甘い言葉で、たぶん姫と呼ばれるくらいの子なら笑顔たっぷりに抱きつき返すんだろうけど、それが向ってくる先が自分だってことにびっくりだ。驚いても良いよね。
「ヨリが好きだ。本気なんだ。どれくらい言ったら信じてくれる? 不安がなくなる? 幾らでも言うよ」
信じてるよ、全くもって不安なんて無いから。不安なのはこのまま寝ちゃいそうだからですよ、分かれ。分かってください。限界だ、限界。さっきから限界って何度思ったかな、でも今まさに限界。だって瞼が落っこちてきてるからね。
ずっとシリアスなシーンだったから、耐え切れなかったんですよ。いつもは適度に合いの手を入れつつも、空気を軽くすることに命かけてるから。ハイテンションな女優やってっから。だから、このどシリアスなシーンで、しかも最大の佳境にして寝てしまったとしても、あたしに悪気はない。はず。
ええ、正直に言おう。あの瞬間にして、あたしは夢の国の旅行者となってしまった、らしいね。というのも、今まさに目が覚めた直後で、あたしは見覚えのある天井と壁にかけられてる時計を見て青ざめてる真っ最中。血の気がないってクラクラするもんだね。
アレクがいないってのが唯一の救いか、助けか。よし、このまま会社に行こう。何だか時計の針が不穏な方向向いてるけど、気にしない気にしない。ちょっと事故に巻き込まれて連絡が出来なかったんですとか言ってしまえ。あっ、でも誰かに口裏を合わせてもらったほうが良いのか。警察とかに連絡されたら一発でバレルよな。
やっぱり、正直に飲み過ぎましたと謝るか。そういや携帯が静かだ。もしかして利佳子が察知してくれて。課長に言い訳・・・してくれるわけないか。知らないもんな、ここにいるの。
ガチャっと戸が開いてびっくりした。いきなりかよ、ノックぐらいしろよ。
「おはよう、起きた? 昨日はいきなり寝るから驚いた。そんなに疲れてたんだ?」
まあ、家主だからね。そりゃノックなんてせずに入ってくるよね。でもさ、会う前に帰りたかったなああ。
「おはようございます。昨日はごめんなさい。ではさようなら」
一宿一飯の礼とは言うけども、日を改めてするべきだと思うんだ、大人のマナーとしては。カクカクとした首とか腕とか気にしない、気にしない。
「どこに行くつもりだ?」
冷っとする声だ。心臓に悪い。これは怒ってる、確実に。どれくらいに確実かというと、あたしが遅刻するのと同じぐらい。事後で事実だから確実。すごい現実で嫌すぎっ。
「今更逃げようなんて思ってないよね、ヨリ」
すっごい怖い、すっごい怖い。笑顔なのになんでこめかみ引きつってんの。ぐっと引き寄せられてすっぽり収まってるのは何故。
「昨日の続き・・・しようか?」
うえっ・・・なんかキャラ変わったんじゃないか。どうした、何か悪いものでも食ったか。あたしの事はお気になさらず。
「つ・・・続き? な、何かあったっけ? 昨日、寝ちゃったから」
「そうそう、人が必死に告白したっていうのに、ヨリ寝ちゃったからそのまま襲おうかと思った。でも」
そこで言葉を止めるな。襲おうかってダメだろ、人として。最低最悪な行為だ。分かってるのか。口にしないのは寝てた人間に言われたか無いだろうからね、うん。あたしの優しさだ。決して小心者だからじゃない。じぃっと見るな。つい目を逸らしたくなるじゃないか。我慢だ、絶えろ、忍べ。逸らしたら負けだ。
「ヨリ、好きだよ」
えっっと・・・顔が近づいてくるんですが。逃げるべきだよね。でも、遅いよね。負けでもいいから逃げようよ。あたし、何で目見開いて硬直してんの。
すっと触れるだけの、アレがソレで。急転直下に頭が混乱。支離滅裂。
「ヨリは?」
自分の体がびくっとなったのは気のせいじゃない。動揺すんな。いい年じゃないか、これくらい平気、平気・・・なわけないだろう。脳みそ沸騰中もいいとこ。
「答え、聞かせて?」
それはそれは優しい優しすぎるぐらいの声で。でも、さっきからアレクの腕が回ってる体が動かせない。優しくないんじゃないか、こいつ。しかも、なんかさっきよりも余計におそろしい笑顔なんだけど。の、咽喉が渇く。
「・・・・・・・・・っ」
チキンだとも。ガキだとも。ビビリなんだ。笑うなら陰で笑え。いや、やっぱ目前で笑って。
ボソボソとしたあたしの声を、それでもこいつはしっかりばっちり聞いたみたいだ。だって、険が取れた顔してる。更に腕の力も強くなってる。・・・窒息しろということか。
「あっ・・・じゃあ、まあそういうことで」
腕が緩んだのを見計らって逃げ出そうとしたんだけど。余計にぎゅうっと抱きつかれた。そのまんまベッドに逆行。良く無いな、君。あたしは会社へ行くんだ。
「仕事、あるんだ。離れろ、触るな、あっち行け」
どうしようもなく素直な。この口が茨の道を歩ませてるに違いない。何故って、アレクの顔が底意地悪いものに変わってる。いたずらっこな少年顔って、つまりいい性格ってことだよね。というか、何。昨日、ここに来るまでのこいつは、きちんと猫なり犬なり被ってたじゃないか。何故に急に止めちゃうかな、いいよそのままで。そのままのキミがいいよ。
「なに?」
ここまで来たら、わからな〜い、しらな〜いでトンズラしよう。そうしよう。ほら、こんなにイタイケ。目をいつも以上に瞬かせて見せても良い。なんだったら、首を傾げるなんてオプション付けてみようか。
「うん? せっかくヨリがいるし、今の内にちゃんと照明してあげようと思って」
「いや、会社行かないと。お仕事、お仕事。アレクもあるでしょ? 仕事。ちゃんと働かないとね、お給金は大事」
「おきゅうきん? 仕事は安心して良い。ケンに伝えたから、ちゃんとヨリは今日休むって。今頃は上司に説明が行ってると思う」
な・・・なんて事してくれんだ。あたしのささやかながらも大切な幸せが! 絶対、明日出勤したら利佳子に問い詰められる。面白がられる。いじられる。や、利佳子だけじゃなかった。あの部署の連中なら面白がって、それこそ毎日いじられるっ。
顔からさっと血の気が引いたあたしに比べて、艶々したアレクの顔が恨めしい。睡眠をたっぷり取ったあたしよりも色艶が良いってなに。天性のものなのか。努力は報われないのか。
「いたたっ」
ついアレクの頬をつねってしまっていた。いいや、アレクだし。それよりも。
「お腹空いた。腹減った。ご飯。何でも良いからパンが食べたい」
ただ飯ぐらい許される。なんたって一宿一飯ていうぐらいなんだから。きちんと搾取してやらねば。それが筋だろう。さっきから音が鳴りそうで。
「あー、はいはい。この雰囲気でヨリはボクよりもご飯なんだ」
せっかく良い雰囲気になったと思ったのに、とか言ってるアレクの脇をすり抜けて手ぐしで髪を梳かす。櫛とか持ってなさそうだし。親父アイテム出されても困るけど。
「ブランチになるけど用意させるから、シャワーだけでも浴びたら良い。着替えも頼んでおくから。出てきたら一緒に食べよう」
さらりと用意させるとか言ってますけど、腹立つな。いつまでも特権階級が存続すると思うなよ。でも、シャワーもご飯も頂こう。断るなんてしない。そんなもったいない遠慮いまさらだ。
「バケットとクロワッサン、どっちが良い?」
有耶無耶にしたパンが良いって我侭を、そうやって何でもない事のように拾ってくるアレクはたちが悪いんだろうな。こんなにさらっとした笑顔なのに、誰もがあこがれるような出自なのに、人も羨む才能なのに。
溜息も零れないぐらいに呆れてしまって笑えてきた。本当、なんでこんなのが良いんだろう。なんでこれで良いと思うんだろう。年下で性格が無国籍な我侭な小僧だってのに、あたしの趣味の悪さじゃないはずなのに。
「ほら、行こう」
しょうがないから手でも繋いでみるか。部屋を出たら思いっきり振り払ってやろう。
けど、あたしのささやかな報復への期待は、アレクに部屋を出た瞬間に抱き付かれる、その数分間の微かな時間しかなかった。かくして、他人様よりもちょっとおかしな関係は、大分おかしな関係へと発展し、帰着したわけ。不本意だ。
...fin