ジングルベルの音がそこかしこに溢れてる。行き交う人達は、とてもとても今日が平日の年の瀬だとは思えないぐらいに、陽気で笑顔笑顔笑顔。
― 残業残業残業なのに・・・
夕衣は髪を切ったばかりだからあたる部分がむず痒くて、ただでさえ不機嫌だった。加えて、課長から言い渡された残業が終わりそうに無い。しかも、同僚に電話でいきなり呼び出されお使いを頼まれるとはついていない。
― クリスマスケーキって夜十時過ぎても売ってたっけ。売ってるよね。むしろ売れ残っていてくれ。
この際、贅沢は言わないからと念じてみる。キラキラとした街中を歩いて目的の場所へと急ぐ。なんとしてでも今日中に終わらせたい仕事があるのだ。
早歩きで周りを見ていなかったせいでドンっと人にぶつかる。ぶつかった男性のスーツに自分の口紅が付いたのが見えて、夕衣はサーッと血の気が引いていく気がした。
「ご・・・ごめんなさい。スーツ!!」
クリーニング代の持ち合わせは無い。必要以上にお金を財布に入れない習慣が災いしてしまった。
「いや、僕も不注意だった。ごめんね」
顔を上げると若い顔があって更に驚く。これから行く予定の場所にいるはずである取引先の係長だ。彼は青い顔からほとんど血の気を失くして固まる夕衣に苦笑いしている。
「そんな顔しないで良いよ。これくらいだったらすぐに落ちるから」
「そそそそそんな。いえ、クリーニング代をお支払いします。あっ、でも今日は持ち合わせがないので後日でも良いですか? 弁償しますか?」
もう自分では何を言ってるのか、まともに日本語を喋っているのかも分からなくなりかけていた。あまりの夕衣の慌てぶりに、彼は堪えていたのを噴出した。
「くっくっ・・・本当、大丈夫だから。それより急がなくて良いの?」
「えっ!まずっ・・・」
まだかまだかと待っているだろう同僚の顔が浮かんで、さっきまでとは違った汗が流れてくる。夕衣には相手のいない日だったが、同僚は既に奥さんがいる。これ以上、遅くなっては目も当てられないだろう。
さすがの夕衣も人様の家庭崩壊に一役かいたいわけではなかった。こっちもあっちもと考えがワタワタと走るが良い案が浮かばない。
「じゃあ、これ」
― ・・・名刺? ややややっぱり弁償
さああっと血の気が再度引いていくのを感じた夕衣は、思わず縋るように見つめてしまう。彼はそれを見て目の端を落として笑った。
「今度、時間が空いているときに食事でもしましよう。それで今日の事はなしってことで。いつでも良いから携帯の番号にかけて」
「あっ、はい。それじゃあ、あの時間が空いたら」
彼と別れると急いで同僚に資料を届け、夕衣は残業へと戻っていった。全てが終わったのが十時を若干まわったところだ。ふらふらと支度をし、イルミネーションの中を駅に向う。
― けいきけいきケーキ!
もう既にほとんどの店が閉めてしまっているが、駅中にあるショップならと期待を込めて足早になっていく。夕衣は特に甘い物が好きなわけではないが、こういう時にしか食べないせいで執着がすごい。
― 開いてる!!
わき目もふらずとはこの事だろう。一目散にお店へ向う夕衣には、やっぱり周りを見る余裕は無かった。トンっと肩がぶつかり、夕衣が謝ろうとして見上げると先ほどの彼だった。
「あっ・・・」
「やあ。また会ったね。今帰り?」
「えっと・・・はい。あの、先ほどは失礼致しました」
ぺこりとお辞儀をする夕衣に、そんなに謝らなくて良いと笑う彼は後光が指して見える。夕衣が先程とは違うスーツを着ている事に気づき見上げると、彼は首を傾げた後に思い当たったように頷いた。
「あの後、一度は社に戻ったからその時に替えたんだ。営業だから予備のをロッカーに置いてあるんだよ」
「えっと、じゃあどうしてこちらへ?」
「詰めていた話の訂正依頼があったから。急ぎだったけど、あそこは電波の環境も良く無いし、顔を見て話をした方が良いと思ってね。鈴木さんには悪かったけど、年末のこの時期だから今日しか時間が無かったんだ。今、ようやっと終わったとこ」
「はあ・・・そうなんですね。ところで」
― ああっ!店が
最後の綱がケーキ完売の札と共に、夕衣の目の前で今まさに閉店していった。がっくりと肩を落とす夕衣を不思議そうに見ている彼に慌てる。
ちょっとばかり恨みがましくなってしまったかもしれないが、なるべく
冷静に事情を話した夕衣に彼は笑って言った。
「それなら丁度良かった。うちで食べていかない? ケーキとチキン。シャンパンもあるよ」
あまりの申し出に固まってしまった夕衣の前で、彼はパタパタと手を上下させる。困った顔をしている彼にハッと我に帰る。明日も仕事がある以上、彼の家に行くわけにはいかない。
― いや、なくても行っちゃいけないだろ
胸の中で呟いて首を振った。
「お誘いは嬉しいんですけど、明日もありますから今日はこれで失礼いたします」
夕衣の言葉に彼が首を傾げて言った。夕衣がほんのちょっと体の向きを変えて帰る素振りをして見せたのは見ていなかったようだ。
「あれ? もしかして知らない? 僕たち同じ駅なんですよ。前からよくよく顔を見かけるから会った時にすぐ分かったよ」
「・・・・・・ええっ!!」
全然知らなかった。知るわけがなかった。むしろ、何故彼が知っているのか不思議なぐらいである。
「知らなかったんだ・・・結構、通勤とかで一緒になってるから知ってるもんだと思ってたんだけどね」
「いえ、全く。本当に」
― まずい。名前なんだっけ。
名刺をもらったときに大抵は確認する所を、さっさとポケットにしまいこんでしまったがために彼の名前が分からない。しかも、彼は夕衣の事を大分親しげに思ってくれてるようだ。
最初は慣れ慣れしいなどと思っていた夕衣だったが、二度もぶつかったうえ、多少なりとも損害を与えてる夕衣だ。こうなると礼儀を欠いてるのは自分じゃないかと思えてくるものである。
そっとポケットを探り名前を知りたい衝動にかられるが、今の状況では無理だ。
「どうですか? 良い案だと思うんですけどね?」
「じゃあ、お言葉に甘えて・・・でも、あの、本当に良いんですか? スーツ汚して、本来なら私がご馳走する立場ですのに・・・」
夕衣がそう言うと、ぽんっと頭に手が乗っかる。そこで初めて彼が高身長な部類に入る事に気が付いた。
― これって子供扱いなんじゃ
首をすくめながら不本意だと口をへの字にした夕衣を見て、彼が楽しそうに笑った。いいように扱われている感じがして、すっかりやさぐれてしまった。
駅から徒歩五分もしない高物件。それが彼の自宅らしい。一人暮らしの身にしては高待遇で羨ましい限りだ。夕衣が暮らすワンルームをちょっとばかし改造して、無理くり二部屋にしたような1DKとは違う。
「広いですね。羨ましいです」
「一人暮らしだから何も無いだけだよ。適当にくつろいでいて。TVはつけないでいてくれると有難いけど」
「お手伝いしますよ」
「大丈夫。皿に移し変えるぐらいでやることはそんなに無いんだ。だからゆっくりしてて」
キッチンに引っ込んだ隙に夕衣はポケットの名詞を確認する。固有名詞を使わずにいるのも限界だ。つきあうどころか、知らない人を貴方とさすがに呼べなかった。
― 佐藤 昭弘さん。意外と普通…だよね。そうだよね。キラキラな名前なんてそう付けないよね。
期待を裏切られたように思うのは、彼がかっこいいからだ。長身で引き締まった体がジャケットを脱ぐと分かる。背が高いと胴も長いのがセオリーな一般人なはずなのに、足が長い。
― それに声も良いんだもんな
男としては高めの声だが、その分通りが良くて聞き取りやすい。同僚の評価はおしなべて『かっこいい人』だった。一度、会社にやって来たときはフロアの女性スタッフ全員が注目したものだ。
「ごめん、運ぶのだけ手伝ってもらっていいかな」
声がかかり考えを中断すると、夕衣は佐藤と一緒にクリスマスらしい料理を運ぶびながら、小ぶりのローストチキンが切り分けられて盛り付けられている皿を見て感歎した。
「わあ! 私、初めて見ました。丸ごとのチキン」
「そう? やぱり一人暮らしには多すぎるよね…買ったときは満足したんだけど、食べることなんて全然考えてなかったからどうしようかと思ってたよ」
― 私なんて買おうという気すらおきませんよ。でも、おかげで晩飯が一食浮いた。
「よし。これで準備完了。じゃあ、乾杯」
「乾杯。オードブルまであるなんて、本当にごちそうですね。佐藤さんって食べるの好きなんですか?」
「うん、まあね。そうだ!さっきから気になってたんだけど、その敬語止めないか?」
「えっ…でも」
困惑する夕衣に苦笑いしながら彼が手を止める。
「ここは会社じゃないし、今は取引相手じゃない。敬語で喋られると僕も緊張するんだ」
― 全然見えないけど。…でも、本当は緊張してるのかな。私の方がよっぽどガチガチだと思うのに。
「でも…なんだか変な感じがします。それに、佐藤さんは年上でもありますし」
「うーん…年上って言っても、そんなに変わらないよ」
「それでも年上の方にタメ口で話すのは気が引けます」
「そっか。うーん、じゃあさ、せめて名前で呼んで。ずっと敬語に苗字にさん付けだと、どうしても仕事の延長線上にある気がして嫌だから」
「名前…ですか?」
「うん、そう。あっ、知らない?」
からかうような視線に苦笑しつつも、名前ぐらいならと了承した。男相手に呼び捨てにするのも普通だったから、夕衣は特に考えることなく呼んだのだが。
「昭弘さん…で良いですか?」
― やけに恥ずかしい…のは気のせいだよね。気のせい。呼び捨てにするよりも恥ずかしい気がする……
「うん、いいね。じゃあ僕も夕衣って呼ぶね。仕事ではちゃんと苗字で呼ぶから安心して良いよ」
さっくり自分の名前が呼ばれたのも、しかも呼び捨てにされたのもショックで夕衣は目を見開いてしまった。小動物みたいと言われる夕衣の目はそれほど大きくない。
「嫌…かな?」
悲しげに眉を寄せて言う彼に、いたいけさを感じて咄嗟に首を振ってしまった。すぐににっこりと微笑まれると、罠に嵌ったような感じがして夕衣は釈然としなかった。
「いいですよ、名前ぐらい。久しぶりに家族以外で呼ばれたのでびっくりしただけです」
夕衣の声がふわふわしているのはシャンパンのせいだろう。それほどアルコールに弱くはないが、さっきからシャンパンばかりでろくに食べていない。慣れない緊張を無くそうとアルコールに頼ってしまったのだ。
「生ハム好きなの? こっちも美味しいよ」
昭弘はよく気の付く男らしく、あれこれと夕衣に薦めながらグラスが空いた瞬間に絶妙なタイミングで注いでくれる。至れり尽くせりなせいで夕衣は既に人の家だという事を忘れていた。
「あ〜、こんなんじゃ明日会社へ行くの嫌になっちゃいますね」
「そうだね。あんまり飲むと本当に行けなくなりそうだな…夕衣はお酒強い方だろ?」
「うーん…それほどでもないれすよ。今もふわふわしちゃってますからぁ…あきほろさんは強いですよねえ」
「そうかな。営業だから飲む機会が多くて…夕衣と飲むのは楽しいんだけどね」
微笑んで夕衣を見つめる昭弘にどきどきと早鐘のように心臓が踊る。いきなり強くなった心拍数に動揺しつつも何とか無事に食べ終えて、椅子から立とうとした時には足元がふらついていた。
「大丈夫? ソファに座ってるといい。後はやるから。ケーキもそっちに持っていこうか」
「あっ、はっ…すいません」
片付け終わった昭弘が夕衣の様子を見に来ると、すっかり寝てしまっている。昭弘は明日もまた平日だからと断った時の拒んだ顔を思い出して、意地の悪い笑顔を浮かべた。
「仕方ないね」
昭弘はそう嘯いてベッドへ運ぼうとしたが、急にぱちっと夕衣は目を覚ました。タイミングの良さに笑みがこぼれる。
「なに笑ってるんですか」
「いいや。それよりもうちょっと寝ていていいよ」
「…いえ、ケーキもありますから」
夕衣が真剣に言った一言にクスクス笑われる。
― だって。クリスマスなんだもん。もん。
「はい、どうぞ。お待ちかねのクリスマスケーキですよ」
小さい子に言うようにショートケーキを差し出す昭弘をじと目で見ながら、ケーキの甘い誘惑にさっくり負ける夕衣だった。
「どう? 美味しい?」
「美味しいですよ〜。生クリームって苦手だったけど、ここのは軽くてふわふわしていてあまーい」
にこにこしながら言う夕衣に昭弘は目を細める。
「じゃあ、おすそわけでももらおうかな」
「ん? なんでうか?」
夕衣のちょんと口についていた生クリームを昭弘がなめ取ると数秒固まって、一心不乱にケーキをモグモグと食べ始める。昭弘を見ることなくケーキを食べ終わってしまったが内心ではケーキの味どころではなくなっている。
「ケーキ、ごちそうさまでした。明日もありますからこれで失礼しますね」
夕衣は憮然と言うと立ち上がり帰る支度をしようと目でバッグを探し出した。怒っているような態度を取っている夕衣だったが、その実、不意打ちでされたことが頭から離れずに猛烈に恥ずかしさを感じていた。
昭弘は夕衣が怒っているのかと思っていたが、自分をちらっと見ては視線を逸らす夕衣に照れ隠しなのが分かって、気付かれないようににんまりと笑った。
「ふぅん…手強い」
ぼそりと何かしらを呟いたらしい昭弘に首を傾げつつ、まだ上手く回っていない頭でコートを探す。
「昭弘さん、今日はごちそうさまでした。今度は私がご馳走しますね」
「いいえ。そうだ、夕衣の連絡先教えてくれるかな? 年末までに時間が空きそうだったら電話するよ」
「あっ、はい」
夕衣が素直に携帯を出すと、昭弘は奪うようにして赤外線通信で夕衣の番号とアドレスを登録した。いつもなら絶対に手から離さない携帯を取られても夕衣はのんびりしている。冷静に考えれば、名刺にある昭弘のメールアドレスに夕衣がメールすれば良い話なのだが。
「じゃあ、また」
「はい。本当にごちそうさまでした」
そのまま昭弘の家を出るとふらつきながら家路へと歩いていく。夕衣が家を出る前、昭弘がいたずらっぽく見ていたのに気付いていなかった。
「じゃあ帰ろうか。夕衣」
次の日、就業後の会社前で人の悪そうな笑みを口の端に浮かべて言った彼に夕衣は呆然とただただ見つめるだけだった。
fin