それから三日経って、ようやく通信に慣れてきた頃、先生から今日は移動方法を教えるからと連絡が入った。
期待していた以上に私の覚えるスピードが早く、それが決め手となり先生の気を早めたみたいだった。マスターが『貴方のことが気に入ったみたいですよ』と言っていたから、先生のモチベーションと私のそれとが上手くあった結果だと思う。
空気が寒々としてる。冬の始まりを感じた頃よりも寒さが体を貫くようになってきていた。
「フォースを使って体を律から切り離すのだけど、通常はフォースと律の媒介としてファクターを使うの。貴方の場合はそれがないから代わりのものを見つけないとね」
「代わりのもの・・・ですか」
「そう。私達の世界に来る大半は定理が入れ替わった状態で来るというのは知ってるよね?」
「はい」
別の世界を望んだ人たちは、生まれ持った定理ではなく生きたい世界の定理へと形作られるという話は以前に聞いてる。自分そのものが変わる事ではないと聞いて安堵していたのに、既にどうやら障害になっているみたいだった。
「ファクターは私達の礎だから、定理が変わるって事はファクターを備えるって事と同義語と思ってくれて良いよ。その人達が直接ファクターを扱う事は出来ないけど、ファクターを持っているからちょっと手助けするだけで、壁を越える事が出来るの。でも貴方は」
「あっ、ちょっと待って下さい。壁って何ですか?」
彼女とのやり取りに慣れてきた私は、彼女が話を進める前に疑問をぶつけるようにしている。先生はせっかちだからか、後になって戻るような話し方は好まない。
「超える時に感じる障害があって、それが壁に当たった時の様な感じに似てるんだ。やってみないと分かり難いから、これ以上は説明なし。で、貴方たちの世界だとファクターに変わるものがエッセ」
これだよと先生が見せてくれたのは、彼がフォースと言ったものに良く似ていた。あれは光の残滓と言われたけど、エッセと呼ばれたものはそれよりも僅かに大きい粒のような物だ。輝きも鈍く、鉛のような質感をしてる。
「エッセを自覚できるようになるには・・・」
驚きの中、先生は続けてエッセの求め方とそれを使った移動方法を詳しく教えてくれる。使い勝手はほとんどファクターと変わりないようで、変幻自在なファクターとは違って成形の種類が限られている事や人によって異なるらしい。
エッセを自分から切り離し操るのは、幾度も試してみたものの上手くいかず、今日はここまでかと先生も私も思っていた時にしゃらっとどこからか音が聞こえ、右手に小さな鉛の玉が転がっていた。歪な形が可愛らしく、色の鈍さは気にならない。
「あら・・・出来ちゃった」
ぼうっと信じられないというように先生と顔を見合わせて、どちらからともなくクスクスと笑いが零れだす。あれほど必死になっていた時は出来なかったのに、不思議なもんだ。
けれど、笑いが収まってくると何故出来たのかが気になってきた。特別に意識を集中していたわけでも、それまでと何かしら変わったところは・・・そこまで考えて、僅かに聞いたシャラシャラと細い音を思い出す。金属がこすれあうような音。
「ねえ、腕のそれ・・・光ってる」
「えっ?・・・本当だ。綺麗・・・」
どうしてそうなったのか、先生にも分からないようだった。淡い光を放つブレスレットを見入っていると、扉が開き彼と難しい顔をしたマスターが入ってきた。
「もう授業は終わってるかい?」
「ええ。彼女は本当に覚えが早いね。ううん、覚えるってのとは違うか。体と頭が上手く結びついてる。今だって」
先生が意味深に私の手元を見ると、マスターも彼も私の手にあるエッセとブレスレットを凝視した。先に言葉を発したのはマスターだった。
「実は予定よりも少し早めて、貴方をあちらにお連れする事になりそうです」
マスターの声が普段より幾分硬い。ブレスレットは先ほどまでの光を徐々に失い、同時にエッセが膨張しだした。私が変化していくそれらに声を失って見入っていると、数秒のうちに手のひらサイズになったエッセがシャンッと鳴り弾ける様に消えてしまう。せっかく出来たと思ったのに、自分の意思ではなく消えてしまって残念だった。
「あまりにも早い出立になりそうでしたので、貴方をお連れするか迷っていたのですが・・・」
「問題なさそうだな」
マスターも彼も、私が通信の時のようにエッセを使えると思っているのを慌てて否定する。出来ると言いたいとこだけど、ここで誤解されたままあちらに行っては確実に足手まといになる。それだけで済めば良いけれど、問題が起きてしまっては彼らに迷惑をかけてしまう。
「無意識に出せたなら問題ない。幾らやっても出来ない奴もいるからな。後は慣れだろう。それなら徐々に出来るようになる」
彼は断言してくれたが私の不安は減ることなく、ますます強くなる一方だ。それに、今出来なければ向こうの世界に行くのに不都合だと思うのだけど。
「あちらに行ったきりではないですよ。ちょっと調査をして、また戻ってきます。本格的な手伝いの前に、地ならしするようなものですから、それほど固く考えないで下さい」
「地ならし・・・ですか?」
「綻びというのは、本当なら彼女のような構築家が真っ先に気付くものです。だけど、今回のは彼が先に異変を感じていたので」
そこまで言うと、マスターは私から彼女へ目線を変えて続ける。
「いつものやり方では、今回は上手くいかないように思います。それで他にも協力者を探していたのですが、私達だけでは説得するのは難しい相手なので彼女にお願いしようと考えてます」
「誰なの? 何だったら私が行っても」
先生を見てから天を仰ぐように、マスターは困惑気に微笑んだ。まいったとでも言うような様子に私は首を傾げる。人当たりの良いマスターが避けるほど、そんなに扱いづらい人間なのだろうか。
「君の前任者だ」
簡潔に彼が言っただけで、先生の顔が強張った。先生の前任者というのだから、構築家だった人で今は引退したという事なのだろう。もしかしたら、先生の先生なのかもしれない。先生の顔が嫌そうに顰められていて、私にそう思わせた。
私の憶測が間違っていないというように、マスターが顎に手をやりながら続ける。
「君にとってとても不得意な相手でしょうが、それは私達も同じでしてね。老齢な事を考えても、不出来な者を相手にするよりは彼女の方が耳を傾けやすいんじゃないかと思いますよ。彼女は私の店の常連さん達とも、それは仲良くやっていますから打って付けかと」
どうですかと柔らかな声で聞かれて、否と言える人間はそう多くない。マスターの穏やかな声を聞くたびに、チェロの音色を思わせるような緩やかさというのは一つの武器に思える。戦闘意欲を阻害するという武器があれば、これほど平和な武器はない。
「・・・そうね。あの人には彼女が適任でしょう」
それまで反対の姿勢を取っていた先生があっさりと方向転換してしまった。ただ私への心配だけは消えないようで、私に彼の側を出来るだけ離れないよう繰り返した。先生とマスターが苦手にしている人なら、私も合わないような気がするが、彼に言わせると「あの人は生真面目で、こいつらが不真面目すぎるなだけ」らしい。
「不真面目とは失礼ね。冗談が通じないよりは良いと思わない?」
先生が不真面目だとは思わないけれど、学者肌の人は合わないと感じるタイプかもしれない。軽い調子に見られがちな言動と自信満々な態度は、謙虚に上を追求していく人にとってみれば気に障るのだろうなと想像がついた。
「それじゃあ、こちらに」
マスターについていった部屋の真ん中で、柔らかそうなものがふわふわと膨張したり縮んだりしながら浮かんでいる。ファクターの一種だろうかと先生を見ると、声も出さずに笑って頷いた。
『マスターは好きなんだ。ああいうの。ファクターを少しだけ使ってぬいぐるみと一緒に加工したものだよ。ファンシーな雑貨とか好きで、柄じゃないからって普段は見せないだけで、結構持ってるんだ』
『・・・意外、ですね』
うさぎのぬいぐるみだろうと思われるそれはコミカルでユーモラスな姿をしてる。紳士然としたマスターがぬいぐるみを抱えてる姿を想像出来なくて、言葉に詰まった。
「向こうに着くまで彼と手を繋いでいて下さい。力が加わりますからしっかりと」
彼が手を差し出してきたので取ると、暖かい温もりに知らぬうちに緊張していたのが少しだけ解ける。
『行ってらっしゃい』
先生の言葉と同時にマスターがぬいぐるみを掴むと、ボンッと音がして一息に膨張していった。部屋全体がぬいぐるみの中にすっぽりと入ってしまったかのように真っ白な視界の中、彼と繋がっている手だけが拠り所になる。
『大丈夫か?』
『はい』
ぎゅっと力が入ってしまい、彼が心配しているのに精一杯答えた。余裕・・・ないけど、大丈夫。呼吸が乱れているせいか、通信には自信があったのに不鮮明になっているんじゃないかと不安になる。ここで何かあったらエッセが満足に使えない私には命取りになるから。
自分に言い聞かせるようにもう一度、大丈夫と口の中で繰り返した言葉は彼に届いてしまっていた。繋がった手が確かめるように固く握られる。ゆっくりとエレベーターが下っていくような感じの後、急にスピードが速くなっていき独特のキンッとした耳鳴りがし始める。
『しっかり掴まっていて下さいね』
マスターの声が近くから聞こえたかと思うと、顔の側に先ほどのうさぎがいた。視界が白濁しているせいか、彼もマスターも見えない。発つ時、マスターは私達から三歩分は離れていたから、ずっと先にいると思っていたせいか、すぐにうさぎからマスターの声が聞こえている事に気がつかなかった。びっくりしすぎて手を離しそうだった。
うさぎの口がパクパクとなって初めて、うさぎの正体がマスターな事に気がついた。
『驚かせましたか?』
ユーモラスに手足をばたつかせながら楽しそうだった。ぬいぐるみと知っていても、生きているかのような動作に先ほど感じた不安が追いやられ、顔が綻んでくるのが分かる。
『はい・・・どうしてうさぎさんを使って?』
『ちょっとした余興ですよ。意味はありません』
うさぎはくるっとこちらに顔だけを向かせてニカッと口を大きく開けると、そのまま真っ直ぐ行ってしまう。いきなりだったから驚いたけれど、マスターのファンシー好きに納得した。心から好きでなければ、わざわざ移動の大変な時に、私が手に汗をかきそうなほど緊張していてもしない。
それはグングンと上か下か分からないぐらいに蛇行しながらの遊泳だった。彼からそっと手を離されるまで、私は気付かないうちに目を瞑っていて開けた途端に目の前が眩しくてクラクラする。
「意外と早く着いたな」
「ええ。抵抗が少なかったですからね」
彼とマスターの飛行機に乗った人のようなやりとりがおかしかったけれど、それに口を挿むよりも周りの景色に圧倒された。
空が遠く澄んで、月が赤く浮かんでいる。赤い月は禍々しいと誰が言ったんだろう。綺麗で可愛らしい月と正反対に光の乏しい太陽があった。太陽と月の位置では時間がどれくらいなのか分からなくて、その事が一層、別世界へ来たのを実感させてくれる。
「どうでしたか? 初めての世界移動は」
「緊張しました。でも、うさぎさんがいたので不安にならなくて済みました。ありがとうございます」
私が頭を下げると、満足そうにマスターが目を細めてうさぎのぬいぐるみをどこからか取り出した。
「古い友人の一人なんですよ。私がまだ少年とも言えない頃からですからね。貴方に気に入って頂けて良かった」
「役に立つこともあるもんだな」
とても珍しい事のように言う彼に、マスターが片目を瞑って続ける。
「彼とも長い付き合いなはずなんですけど、反りが合わないんです」
「それは残念ですね」
クスクス笑いながら彼を見る。既にそんな事は眼中にないとばかりに、私達を目線で促した。きゅっと気が縮んだけれど、マスターが苦笑しながら大丈夫と聞こえない声で言う。
『拗ねてるだけです』
おかしそうにマスターの声が震えているけれど、顔はごく普通で彼に私と話している事は伝わっていないらしい。私には彼がどうして拗ねてるのか分からなかったが聞くのも憚られて、彼を見るだけに留めた。
私達が降り立った路の丘は、住宅がある場所から離れた場所にあり見晴らしがすごく良い。眼下に見える建物は、私達の世界とそれほど変わらないけれど、どれも石造りという特徴があった。矢継ぎ早に感じた世界の違いを聞く私に彼が丁寧に答えてくれる。先生もそうだけれど、教えることを惜しまない人だ。
彼らによると、さっき私が見た月は真昼の月と呼ばれ、夜の月とは別だという。太陽も私がいたところより光が弱く、真昼の月と二つが揃ってこそなのだとか。それなのに夜の月は一つだけ、しかも星すら出ないと奇妙だった。
彼に問うと「移ろわぬ時だから」と短く答え、それっきり黙ったまま歩き出して行った。その答えを私はずっと後で知る事になる。
2009/03/22