初恋の相手は特別。例え私から別れを切り出していても。
彼は付きあったのが奇跡のような相手で、男らしい見かけから想像出来ない我が侭が可愛らしくて優しくてかっこいい人だった。告白された時は嬉しくて嬉しくて、天にも昇るような気持ちってこの事だとまで思った。彼が私を選んでくれた事が誇らしかった。
あれから数年。私は社会人になり、総務の仕事をしながら何て事ない日々を過ごしている。特別楽しいこともないけれど、その分悲しすぎる事も無い。あの日のような時間はこない。そうやって善良で退屈な時間を過ごしていた。昨日までは。
「今日から営業部に配属になった笹塚君だ。みんな宜しく頼むぞ」
部長から告げられた時期外れな人事異動にざわめいている声が微かに聞こえた。パーテーションで区切られているフロアは、総務に配慮してのもの。
私には関係ないけれど、どこかで聞いた事のあるような苗字に、思わずぴくりと肩が動く。もう向こうだって顔どころか名前も忘れているはずで、気にしすぎなだけ。
「戸村さん、隣に新しく来た人ってどんな人か知ってます?」
隣の席にいる後輩の美恵が興味津々に聞いてきた。結婚適齢期には程遠い彼女だけど、良い男情報には一番詳しい。だからってモテナイわけでもない。本人は否定してるけど小柄で色白、手足なんかがほっそりしてる俗に言うモデル体型なだけあってモテる部類の子。
彼氏はいるけどそれとは別なんだそうだ。男っ気どころか色気にすら困る私と机を並べてる事の方がおかしいと思えるぐらい可愛い。チラチラと見えない向こうを見ている美恵を見ながら、どうせ私には関係のないなと思う。男よりも仕事の方が切実だもの。
「君たち、ちょっと良いか」
部長に呼ばれて振り向く。部署として場所だけではなく業務にも関係が深いからきっと紹介されるんだろう、もしかしたら歓迎会も呼ばれるなと思って見た先で、否定したばかりの顔があった。
「本日から営業部に配属となった笹塚です。至らない所もあるかと思いますが、宜しくお願い致します」
通る声を響かせてはっきりと喋る所が変わってない。あの頃よりは精悍になった笑顔。笑い皺だけが、彼も年月が経た事を教えてくれる。
大丈夫。きっとみんなの影に隠れていれば気づかれない。いつも以上に無関心を装った。彼がこちらをちらっと見た気がしたけれど、きっと美恵が前にいるせいだろう。男の注目を集めるのが上手い子だから、気になるような素振りをしたに違いない。
「何かと総務にも助けてもらうだろうから、宜しく頼むな。笹塚、何かと俺達の仕事を助けてくれる子達なんだから優しくするんだぞ」
「優しくですか?」
「そうだ。たまにお菓子の差しいれに・・・」
「ご馳走でも良いですよ〜!」
怖い物知らずな新人の田町さんが愛想良く言った。さーっと青ざめる主任と私だったが、今日は機嫌が良いのか部長も笑ってくれてほっとする。新人のとんでもない発言はいつもの事だけど、こうやって心配したり青くなったりするのが勤続年数の差かしら。
「じゃあ戸村さん、後でお茶を第二会議室に頼むよ。笹塚、ちょっと早いが行くか。もう少ししたら課長も来るだろ。戸村さん、三人分でよろしくな」
「あっ、はい」
部長が名指しで来るとは。完璧、彼にばれた。こちらを見て、顔色一つ変えずに部長と出て行った彼が気になる。
「いいな〜、戸村さん。私が行きたかった〜」
不満そうな顔で田町のお嬢さんが言う。そりゃあね。新人の役目と言ってもいいお茶だしだけど。主任を見ると、彼女も苦笑いで返してくれる。有望株な男性を早いうちに捕まえて結婚退職したい子ってのは、どこの会社にもいる。
「お茶を運ぶだけでしょう。おしゃべりなんか出来ないわよ? それにこっちも仕事が押してるんだから」
主任が号令をかけるとみんな席について仕事へと戻っていく。影でお局とか裏の権力者と言われているけれど、それだけ人を動かす事に修練している人だからこういった仕切りは上手い。ちょっと前まではそんな風に思わなかったけど、それだけ社会人が板についたって事なのかも。
課長が相変わらずのハイテンションぶりで営業先の話をしてる。部長の機嫌の良さは業績が上り調子だからか。
「じゃあ、そういうことで。それと戸村さん」
「はい?」
お茶をおいて早々に退散しようと思っていたのに、部長に呼び止められてしまった。長居はしたくないのに。
「悪いんだが、笹塚君に社内を案内してくれないか。法務部と人事部がまだなんだ。俺や課長は時間がないし、他の営業どもも手が空いてる奴がいなくて。君なら社歴も長いし、それなりに向こうの課長達も知ってるだろうから」
「知ってるって言っても、それほど親しいわけではありませんし・・・私よりも但野課長の方が適任ではないでしょうか」
「や、笹塚君と大学が一緒だったって聞いたもんだから」
部長がニコニコと彼を見やる。信じられない。気付いていたことも、どうやら部長に話してしまったことも。
「ごめん。出来れば戸村さんに案内してもらった方が緊張も少なくて良いかなと思って。迷惑だった?」
何てこと無いという感じで、わざと聞いてくる彼に内心臍を噛みながらも部長の手前堪えて首を振った。
「ううん、大丈夫です。法務と人事なら同期がいますから」
「そうかそうか。悪いな、頼んだよ」
そのまま部長と課長で仕事の話に戻り、放り出された彼と私とで会議室を出た。余計なことは考えないように足早に行こうとする私と違って、彼はゆっくりだ。歩幅が違うのに、私と同じぐらいの速度で隣についてくる。
「アトリ、久しぶりだな。お前が総務ってのが想像もつかなかったけど、上手くやってるみたいじゃないか」
「笹塚さんこそ、営業のホープって想像きませんよ」
昔の呼び方で一瞬どきりと胸が鳴った。私ばかり意識しているような会話に嫌になりながらも、顔には出さないようにする。呼び方一つで気にしすぎるのもおかしな話だけれど、彼を苗字で呼んだのは社内の人間がいる手前もある。
「何だよ、笹塚さんって。他人行儀だなー。アトリらしくないじゃん」
これから行くところを分かってるんだろうか、この人。法務と人事は両方とも社内の噂の宝庫みたいなもんで、同じフロア。そんな所で親しげにしようものなら、明日にはどんな噂が回ってるか分からない。考えるだけで怖い。
「笹塚さん、一応は社内ですから呼び方を」
「ん?俺、間違えてないよな?」
「いえ、ですから社内なんで」
「アトリはアトリだろ。気にするな」
あんたは良くても私は良くない。叫びたくなるのを堪えると、こめかみのあたりがひくついた。私をちゃかすのが趣味だと言っていたけれど、趣味というよりも癖だと思えてしまう。
アトリと呼ばれるようになったのはサークルの先輩がファンだという写真家の写真展に行ってからだ。アトリエと題された写真に写ってる犬が私そっくりだと先輩が言い出して、彼が面白がったから定着してしまった。もちろん私は大反対した挙句、その写真家が嫌いになったけど。
「人を犬みたいに呼ばないで下さい」
たった一階しか違わないのにエレベーターを使うのは嫌だというので、フロアをまたぐ階段の隅で立ち止まり注意する。社内で広まっては私の立場が悪くなってしまう。というか、威厳を保つのもやっとな平にとっては呼び方一つで今後が決まってしまいそうで嫌だ。女は、年嵩は増しても社内の立場が偶発的に良くなる事は早々ないんだ。そこんとこ、分かってるのかな。
「可愛いと思うけどなあ…昔っから嫌がってたけど、名づけ親としては傷つく態度だな。俺しか呼ばないんだから良いじゃん」
誰かを彷彿とさせる彼の我が侭さ。唯我独尊な態度と当然としている顔。
「ササ先輩だから嫌なんです!」
むかつくと思ったら言ってしまった。かっとなりやすい上、そうなったら思考ゼロになるのが自分の短所だと自覚してるのに、つい。
「おっ、アトリらしくなったじゃん。よしよし」
「ちょっ・・・よしよしじゃないです。いったいどういうつもりなんですか」
「どういうって?」
ちんぴら風情な顔の顰め方を止めて欲しいと何度も頼んだのに、この人は未だに直ってない。もっときつく言ってやれば良かった。せっかく良いルックスも台無し。・・・別に私が気にする事じゃないけど。
「元彼と仲良くなんて出来ませんよ」
「ああ」
どうでもいい様な返事にイラッとする。私の神経を逆撫でして楽しんでるように見えて悲しくなってきた。私が悪いのかもしれないけれど、もう終わった事なのに。振られた立場としてはそう思えなくて、私を見るだけで嫌だとしても。
それなら態々、こんな真似しなくても私から彼に近づくことなんて無いんだから放っておいてくれれば良いのに。
「元彼? 元って言ったか?」
「えっ?」
「遠距離にはなったけど、別れては無かったけどな」
「なっ・・・何言ってるんですか。遠距離って・・・ちゃんと別れたじゃないですか。私が・・・・・・・・・私が」
ひっくと声が震える。何を今更。別れてほしいと言った時にそうかと一言でかたしたじゃない。あれから何年経つと思ってるわけ。そもそも私とつきあってからもう眼中に無かったじゃん。捕まえたら満足したんじゃないの。
「別れて無い。勝手に勘違いして、勝手に別れたつもりになられてもな。第一、俺は頷いた覚えはない」
「だって、でも、全然連絡なんて」
「卒業の忙しい時期に言われて見ろ、連絡取りたくても取れないだろうが。お前はさっさと他の連中と仲良くやってるし、こっちもいい加減切れそうだったし、冷却期間を置いただけだ」
「・・・随分と長い冷却期間ですね」
きっと冷却期間中、他にも何人も女がいたのは間違いない。間違いないのに、胸が逸るのはどうして。期待して辛くなるのは私。分かってるのに、分かっていたから別れたんじゃなかったっけ。
「悪いか。いつの間にか引越しして、アドレスまで変えやがって。それに別れる理由があれだぞ、あれ! 納得なんか出来るか」
「・・・」
「全く・・・どうやったら妹扱いで釣った魚に餌をくれないからなんて理由で別れる事になるんだよ。しかも、俺が他の女に目配せしたなんて誤解も良いとこだろうが。本人に確認も取らないで勘違いしまくった挙句、勝手なことばっか言えばキレるに決まってるだろ」
「勝手って・・・だって、見たもの」
私、見ちゃったんだから。さっきまで自分勝手でも優しい彼氏だと思ってた人が他の女の子と腕を組んで歩いてるのを。私と一緒にいるよりもよっぽど楽しそうなのを。
見てしまえば、そういや将来の話なんてしたことないなとか、就職先を教えてくれなかったとか、忙しいって彼から連絡すらまともにこない、とか、私ばっかり気にしてるって事に気が付いてしまったら駄目だった。
「優子のことだろ」
無神経だと思わないの。聞きたくもない名前で、友達だった名前。信じられない。睨んだ先にあったのは予想外な優しい目と呆れた顔。
「従姉妹と一緒に買い物に行っただけで、そんなに怒るとは思わなかった。久しぶりに会ってお前と友達だって知って喜んでたのは俺だけだったみたいな? これで簡単に別れられなくなったと思ったのに、肝心のアトリさんはお気に召さなかったようで、俺はすごくがっくりとしたのにな?」
「え? 嘘・・・えっ」
「簡単に別れるとか言うか? 俺に聞きもしないで。どれだけ腹が立ったか分かって欲しいとこだけどな?」
「じゃあ!・・・じゃあ、何で今まで放っておいたんですか!? 誤解だっていうなら、嘘だって言うなら、もっと早く」
「別れようって言われて、俺なりに冷却期間置いてアトリと話しようと思った時には避けられてたら、そりゃあへこむだろうが。なりふりかまわず、なんてかっこいい事出来るかって。優子の友達が親切にも教えてくれるまでどんだけ落ちてたと思ってる」
「友達? 何、聞いたの?」
「お前のとこの主任が優子の同級生なんだよ、中学の」
「えっ、だって主任って私より年上・・・」
「・・・主任は老け顔なだけ。ちなみに勤続年数もお前とそう変わらねえよ。主任になったのも今年からだしな。異動してきたばっかでアトリが知らないだけなんだよ。ちなみにアトリが主任にならなかったのは異動時期と重なっただけで、次の昇進時期には確実だって話も聞いてる」
「そんな・・・なんで私が知らないのに、ササ先輩が知ってるんですか?」
おかしい。主任が同い年だなんて、間違ってる。でも、そう言えば何となくだけど親近感ある。世間話程度の会話も若い子達に比べて楽だから、年が近いのかなとは思ってた。それに昇進の話なんて、普通は誰よりも先に当人が知ってるもんじゃないの。私が知らないなんて、ううん、それより主任と優子が友達って信じられない。
乱れた頭の中がなかなか整理できなくて、目を白黒させている私に、彼はやっぱりと呆れた顔をした。
「思い込みの激しさは一番だな。で、どうする?」
「ど、どうするって?」
「付き合い続行で良いんだろ。本当に嫌で嫌で仕方ないって言うなら、俺もこれ以上は追わない」
いきなり真剣にならないで。頭が混乱した時に決断させないで。いつもならもうちょっとマシな考えが出来るはずなのに、いいなって言われた時に思わず頷いてしまった。
「じゃあ続行だな。数年越しの喧嘩で仲直りか。いいネタを持ったもんだ」
「ちょっ、待ってくださいって」
話を勝手に進められても困る。私にはさっぱり分からないのだから。
「やあ〜、アトリが主任に引きずってるって可愛らしく言ってくれなかったら俺も自信持てなかったからな。後でやっぱ差し入れしとくか」
なんてこと。主任にそんな話したっけ。や、きっと酔った勢いで言ったのかもしれないけど、優子と友達だって知ってたら言わなかった。
「あっ、アトリは優子と仲直りしろよ? んで、主任にも報告しとけよ? 俺と仲直りしたんでラブラブって」
「ら、らぶ?」
「んじゃ、そういうことで挨拶周り再開だ」
ぽんと頭をはたかれて、よく分からないまま彼の挨拶に付きあわされ、総務に戻ると主任が誰かと電話していた。がちゃんと音がしたかと思うとこちらを見てにやりと笑ってる。
「良かったじゃない。これで優子とも仲直りできるわね」
「意地が悪いですよ、主任。知ってたなら教えてくれたって」
拗ねて言うとおかしそうに笑って言われる。
「二人とも照れ屋すぎるのよ。溜め込むタイプでしょ、二人とも」
「はぁ」
「まあ良かったじゃないの、丸く治まって」
そして、主任がこそっと私の耳元で声を潜めながら言った。
「もう彼氏いないからって一人でTDLに行かなくて済むわよ」
一気に顔のボルテージが上がり、隠していたのがばれた時の部長と主任の生温い微笑みが脳裏を掠める。
「だからっ・・・だからっもう忘れて下さいっっっ!!」