鋼彗☆β | #1☆2005.02/21(月)22:43 |
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#0 前奏曲 現実とは、重くのしかかるものである。 空想とは、軽く浮き上がるような気持ちになるものである。 「…もう…独りでいたい…」 ついに、この言葉が口癖となった。 数秒のいとまさえあれば、無意識のうちに呟いている。 なんて、恐ろしい話だろうか。 中学3年生の少女・楡原沙霧は、非常につらい日々を送っていた。 特に目立った長所も短所も見当たらない、普通の中学生。 だけど、彼女にとっては日常が苦難の連続のように思えるのだ。 ……沙霧は、いじめに遭っていた。 別に、すごく変わったところなんてない。 彼女は、ちょっと鈍いところがあるだけ。天然で、間抜けで、でも陰気くさい… 沙霧は、そんな少女だった。 「……逃げたい……」 沙霧は自分の部屋の机に顔を伏せ、呟く。 ここまで傷つき、追い詰められると、現実逃避をしたくなる。 沙霧の傷つき方は、尋常じゃなかった。 食は細くなり、顔も少しやつれ、たそがれることが多い。 周りの人たちが、みんな敵に見える。 学校を歩いていると、目をつむりたくなる。 さらに、恐怖感までおぼえてしまう。 …沙霧の心の支えといえば…… ……机の傍らに置いてある、6つのモンスターボール。 沙霧はそれらを手元にコロコロと転がしてくる。 これら……いや、彼ら彼女らが、沙霧の「大切な仲間」。 沙霧はポケモンたちに心を癒され、生きている。 彼らと触れ合っているとき、すごく癒される。 すごく嬉しい。 すごく気持ちいい。 すごく……楽しい。 悩みなんて、日常のつらさなんて吹っ飛んでしまう。 自然の笑みが、あふれ出てくる。 「…いっそのこと、ポケモン達と一緒に逃げたいなあ…」 沙霧の甘い願望。 現実逃避したい気持ちは、決して抑えられない。 こんな現実はもう嫌だ、別の世界に行きたい…… 「……ポケモンと一緒の、平凡な日常が、欲しい」 ……その晩、彼女の願望が、わがままが通るなんて、本人は思いもしなかった。 ……沙霧がこのつらく、辛労に溢れた現実に戻ってくることは、二度とない。 |
鋼彗☆β | #2☆2005.02/22(火)18:56 |
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#1 …夜も更け、月は真南にやってきた。 もう時間は遅い。早くも日付が変わろうとしていた。 沙霧は倒れこむようにベッドに体を委ねる。 …明日は…いい日だといいな…… そう願うが、それは叶わぬ願望として消えてゆくのが最後だろう。 沙霧は、いい日なんてあるとは思っていない。 毎日、同じことの繰り返し。 朝起きて、学校行って、授業受けて、それから… …みんなに、いじめられて、嫌な思いして…… …もう、考えるのは嫌になった。 沙霧は目を閉じ、そのまま眠りの世界へと誘われる。 ……今朝は、ちょっと違うような気がする。 翌朝目覚めた沙霧は、いつもとの「違い」に気づいてしまった。 細心の注意を払わなければ気づかないようなものではない。 どんなに鈍くたって、サルでもイヌでもネコでも気づくような変化が現れたのだ。 「……ここは……?」 沙霧はきょろきょろと辺りを見回す。 …明らかに、自分の部屋ではない。 どう考えても、おかしい。 昨日自分の部屋で床に入ったのに、自分自身が移動するはずなんてない。 沙霧は訝しげに思い、怪訝そうに顔を歪ませる。 …木製のはずの自分のベッドは、なぜか鉄パイプの安っぽいものに。 周囲を取り囲む白い壁は、冷たげな鉄色に。 机や、本棚などの家具は、一切見られない… さらに沙霧は立ち上がり、小さい窓から外を眺める。 ……そこに見えたのは、だだっ広い草原と、微かに見える山々のみ。 「……どういうことだろう……」 沙霧の頭の中は、もう混乱状態だ。 確かに、ゆうべは自分の部屋で寝たはず…まだ記憶に新しいことなんだ。 でも、今いるここは…… 沙霧はずっと、地平線の果てまで広がる草原を見つめたままだ。 「…起きてたの?」 ……はっ。 沙霧は、後ろから聞こえた声に過剰反応する。 外の景色を眺めることに夢中になっていたから、全く気がつかなかった。 振り向けば鉄製の重々しいドアが開き、人が立っていたのだ。 …身の丈150cm台半ばくらいの、女の子だった。 沙霧より少し小さいくらいの女の子。 年は、16歳くらいだろうと思われる女の子。 白いワイシャツに緑のネクタイを締め、黒いスラックスを履いた、ショートカットの女の子。 「…あなたは…?」 この状況下に置かれてから、疑問文ばかり連発している沙霧。 でも、本当に疑問だらけなのだ。頭の中すべてクエスチョンマーク。 「それにここはどこなんですか?」 相手の返答も聞かず、機関銃のように疑問を連発する沙霧。少々、落ち着きを失っている。 その質問に対し、少女は肩くらいの褐色のショートヘアーを揺らしながら、沙霧のほうに歩み寄ってくる。 そして、彼女は言った。 「あなたの希望、叶ったのかもよ」 …外見どおり、まだ幼さが抜けないような声をしていた。 …突発的にそんなことを言われ、沙霧は一瞬戸惑った。 沙霧の今いるこの場所は、どこなのだろうか。 そして、彼女はいったい…… |
鋼彗☆β | #3☆2005.02/23(水)22:46 |
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#2 「あなたの希望、叶ったのかもよ」 質問の内容と全く関係ない、突発的な言葉。 沙霧のクエスチョンマークはさらに数を増す。 今いるここはどこなのか、そしてあなたは誰なのか。 あなたが質問に答えないのはなぜなのか。 「…あなたが『願った』から、あなたはここにいるの」 …??? 沙霧は彼女のちんぷんかんぷんな返答に、混乱を隠せない。 「…質問に答えてくださいませんか?」 ついに、沙霧はこの言葉を放つ。 「…うーん…」 考えるようなことじゃなかろう。 「…私はフィール・ヘスコア。バルテス・ワープホール原理研究所長よ」 …言葉の意味が難しすぎる。 沙霧は理解に苦しんだ。 …でもさっき、「研究所」って…… じゃあ、ここは何かの研究所ということだろうか。 沙霧は考える。じっくり。じっくりと。 「…今、このワープホールとポケモンの能力を調査中なの。ワープホールの中は、人間の潜在能力だけで通過・移動することは不可能ということが、以前の調査で判明している。このワープホールを通過してきた人間は、皆ポケモン6体を連れているという共通点があるんだ。だから、私はポケモンの不思議な能力に注目しているの。それが解明されれば科学上で本当に名誉なことよ」 ……沙霧はさらに混乱する。 ワープホール?ポケモンとの関係? 事前の説明もなしに話されると、理解不能なことばかりだ。 「あのう……ワープホールとは何でしょう?」 沙霧は彼女……フィールに質問する。 まあ、ウンチクばっかり話されて、すぐに回答が返ってくるとは思えないが。 それを覚悟で、沙霧は問いかけているのだ。 「……簡単に言えば、地球とこのバルテス星をつなぐ穴…もとい、通路みたいなもの」 ……沙霧は、この言葉に大きな衝撃を受けた。 フィールが重要なことをさらりと言いのけた。 …「地球」と、「バルテス星」って…… さっきの「バルテス」ってのは、地球上の地名じゃなくて、惑星の名前だったのか……? 「……えっ、じゃあ、ここは地球じゃないとでも……」 沙霧は不安そうな表情を見せ、確認するように問う。 「うん、そう」 ……一瞬、頭の上に雷が落ちたかと思った。 本当に強烈なショックが、沙霧を襲う。 …自分は今…地球上にいない。 他の惑星へ、来てしまった。 なぜ、なぜなんだ…… すべてが、わからない。 その直後、フィールはドアのほうを向き、沙霧に言う。 「ちょっとおいで。教えてあげる。…ワープホールの原理、それからポケモンとの関係ってやつを」 沙霧は原理だの関係だの、わけのわからないことを言われて戸惑っている。 でも…これで何かがわかるのかもしれない。 ……自分が今置かれた境遇についてを、知りたくてたまらない。 沙霧は何も疑うことなく、フィールの後を素直についていった。 |
鋼彗☆β | #4☆2005.02/24(木)22:37 |
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#3 …天井の高い廊下を歩いていく。 上の方からは、換気扇の回るゴウンゴウンという音が大きく聞こえる。 それ以外の物音は一切せず、何だか怖くなってくるくらいだ。 「ここよ」 フィールは、大きな鉄製のドアの前で立ち止まる。 見上げるほど大きくて高い扉だ。 ドアの隣にある何かのボタンをいじくるフィール。 暗証番号か何かのようだ。打つスピードが早すぎて、沙霧にはよくわからない。 そして番号を押し終わったところで、プシューと音を立てて、重たげなドアが開いた。 ……そこは天井が高く、広い空間だった。 わけのわからない機械がたくさん置いてある。 「ここが主要研究室。この研究所の中心よ」 フィールはコツコツと足音を立てながら、研究室の中へ入っていく。 沙霧もフィールのあとをついて行く。 たくさんのデカイ機械に目を取られながら、沙霧は奥へ進む。 「…まあ、座ってよ」 フィールは沙霧にパイプイスを差し出す。 沙霧はためらうことなく、そのイスに腰掛ける。 「…そういえば、あなたの名前まだ聞いてなかったね。名前は?」 フィールは沙霧を座らせるなり、名前を尋ねる。 「楡原…沙霧です」 「…楡原沙霧…いい名前だね」 沙霧の名前を聞くと、にっこりと微笑むフィール。 沙霧も、ちょっとだけ笑顔をもらった。 「…さて、早速だけど、ワープホールの原理を説明する」 フィールはキャスター付きの黒いイスに座り、ワークデスクに肩肘をつく。 「ワープホールってのは、さっきも言ったとおり、地球とバルテスをつなぐ通路だ。だけど、実際につながってるわけじゃない。真空の宇宙空間にそんなものが造れるわけないからね。まあ、いわゆる四次元空間というやつだよ。つくり的には、ドラえ●んのタイムマシンみたいなもの」 まあよくはわからないが、四次元空間でつながれていることはわかった。 沙霧は相づちを打ちながら、フィールの話に耳を傾ける。 「ワープホールの入り口は、『ホール』というんだから、もちろん穴だ。でも、地球のどこかにポッカリと穴が開いてるわけじゃない。ワープホールの穴の位置は不定。人を吸い込んだら、入り口はすぐに消えてしまう。さっき、『穴の位置は不定』って言ったけど、偶然自分の前に現れて吸い込まれるとかいうことは、絶対にない。これは既に証明済み。じゃあ、入り口はどうやったら開くのか?」 沙霧は長ったらしい講義のような話を、一生懸命聴いている。 「入り口が開く要素、それは……」 ずっと話し続けていたフィールだが、少し間を置いた。 このあと話すことが、重要なことなのだろうか。 それとも…単なる小休止か。 「人間の、強い願いよ。それ以外にありえない」 ここだけ強い口調で話すフィール。 断定しているような、自信ありげな感じだ。 沙霧は、その強さに一瞬だけ肩を震わせた。 「つらい現実から逃げたい、もうこんなことなら、自分なんていなくてもいい…どこかへ行きたい…そんな願いに答えるように、ワープホールは開くの。でも、ただ願うだけじゃワープホールは開かない。開く条件として、『本当に強い願い』と、『本当に自分に懐いたポケモンの潜在能力』が必要。それさえあれば、いつでもどこでもワープホールは開く」 …沙霧は、早くも自分の場合を考えていた。 …私は、そこまで強く懇願したのかな…… …ポケモン達と一緒に、平穏な日々を過ごしたいって。 だから、ワープホールはそれに応えてくれたの…? まるで、人間みたい…… 「沙霧も、そんなことを切望したんでしょう?死ぬほどつらい日々を過ごしていたのでしょう?…それとも、心がつぶれるほど傷つけられていたの?」 フィールはやさしい口調で、沙霧に語りかける。さっきまで真剣みを帯びていた表情も、自然と和らいでいる。 沙霧はそれに対して、重々しく口を開いた。 「…ずっと…同級生に、いじめられてて……本当につらくて…怖くなって……だから……ポケモンたちと一緒の、平和な日常を……」 自分のつらく苦しい日々を、フィールに告白する沙霧。 こんなことを言っていると、あのときが思い出される。 ……ずっといじめられてばかりで、死ぬほど不安で…… 毎日が、本当に嫌だったのだ。 「…そう…じゃあ、ここでしばらく過ごすといいよ」 そのあと、フィールは立ち上がった。 そして、窓を通して外を見る。 …ただただ広い草原が広がる風景を。 ずっと遠くに、ぼやけて見える山々……難語でいう、「翠巒」を。 「『ポケモンと一緒の平和な日常』、堪能してみるといい」 ……窓の向こうには、草原が広がっていた。 地平線の果てまで広がる、本当に広い草原である。 その草原のど真ん中に建つ、「バルテス・ワープホール原理研究所」。 私……今日から、ここで過ごします。 |
鋼彗☆β | #5★2005.02/28(月)17:36 |
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#4 …バルテス・ワープホール原理研究所。 地球からそう遠くない異星・バルテスにある研究所。 地球とバルテスをつなぐ「欲望の通路」、ワープホールについて研究しているらしい。 所長はフィール・ヘスコア、身長約155cm、年齢推定16歳。というか、本人に聞いていないからわからないだけ。 背が低くて子供っぽい声してるけど、所長。 あとの研究員は、1人も会っていない。 はぐれ研究員は、いなそう。 ポケモン勝負を仕掛けてきたりする人は…いなそう…かな? おそらく鉄筋コンクリート3階建て、結構広い敷地面積を持つ。 場所はだだっ広い草原の真ん中。買い物とか大変そう。 「そういえば、朝ごはんまだなんでしょう?食べようよ」 フィールが、まだ座っている沙霧に尋ねる。 …そういえば…今は朝なんだっけ… 東側の窓から、朝の日差しが気持ちよく射し込んでいる。 さえぎるものが何もないから、ちょっとまぶしかった。 「は、はい…」 沙霧はパイプイスから立ち上がる。 …ちょっと寒い廊下を歩いていき、階段を上って2階へ出る。 そして、2階の廊下をさらに進んでいくと… 「ここが食堂よ。研究員たちの憩いの場なの」 食堂の入り口のドアは、白くて清潔感があり、軽そうだった。 そりゃ、食堂のドアまで重々しかったら嫌だけどね。 …食堂の中では、早くも何人かの研究員が朝食を取っていた。 それはそれは広いスペースで、ポケモンに食事をさせている人もいる。 「おや、新入りかい?」 一番手前に座っていた40代とみられる男性の研究員が、問いかけてくる。 「ううん、来訪者よ」 「おや、珍しいね。ワープホールだよね?服装が」 「まあ、そうだね」 「へへえ、めんこい嬢ちゃんだねえ」 「めんこい」と言われて、ちょっと照れる沙霧。 恥ずかしげに、頭をポリポリと掻く。 「この食堂では好きなものが食えるんだ。たくさん食いねぇ!」 「ちょっと田本さん…」 フィールは、男性…田本さんの発言に苦笑い。 微妙にあきれているようにも見えた。 …この人も…フィールさんの…部下? フィールさんが、上司。 田本さんが、部下。 とてもそうは見えない。普通の観点で見れば、田本さんが上司でフィールさんが部下なのに。 でも、何か親しげ。田本さん、所長のフィールさんに対して敬語とか使ってないし… 「…ここでは好きなものを注文できるのよ。食堂のおばちゃんも優しくてフレンドリーだよ」 …おばちゃん…か。 何だか給食センターみたいなだあ… 沙霧は適当に席に着き、メニューを開く。 「じゃ、私はちょっとやることあるから、またね」 沙霧が席に座ったあと、フィールはそう言い残し、食堂をあとにした。 沙霧は、メニューをゆっくりと眺めている。 …食堂を出たフィールは、3階へ向かった。 そして、一番奥の一室の前で立ち止まる。 …バタン! フィールは乱暴にドアを開ける。 「ミーシャ!さっさと起きなさい!」 朝から大声を出すフィール。 言っている相手とは… 「もう、毎日毎日、何時だと思ってるの?!あーもうあきれちゃう!」 「…あと10分…」 「もう8時なんだからね!さっさと起きて着替えなさいっ!」 フィールは、ベッドの布団を勢いよく取り上げる。 「…寒いんだよ…」 「甘ったれたこと言わないの。全く、出来の悪い弟なんだから」 ベッドの中の少年…ミーシャ・ヘスキー。 フィールの2歳年下の弟だ。 フィールが言うに、出来の悪い、だらしない弟らしい。 「ほら、ワイシャツ、ネクタイ、ズボン、ベルト。置いとくからね」 「そんなに甲高い声で言われても、ムキになってるとしか思えねえよ…ふぁああ」 「関係ない!」 出来が悪い弟に手を焼くフィール。 朝起こしに行くのも、着る服を出してやるのも、服の洗濯をしてやるのも、部屋の掃除をしてやるのも、ポケモンの食事を準備するのもみんなフィールの仕事。 フィールはあきれるようにため息をついた。 「着替えたら早く下りてきなさい」 「へいへい」 そう言って、フィールはミーシャの部屋を去っていく。 …一方、食堂では料理が出来上がってきたようだ。 見事な日本食だった。茶碗に盛られたご飯、みそ汁、焼き魚、ほうれん草のおひたし… …この星でも、和食があるんだ… 「あー沙霧、ポケモンはこっちよ」 知らない間に、フィールが戻ってきていた。 食事に手をつけようとしていた沙霧は、微妙に驚く。 「お腰につけた6つのモンスターボール、中身出して向こうに」 フィールが指差した方向には、ポケモン専用の食事スペースが。 …なかなか、ポケモンのことを考えたつくりだ。 「はい」 沙霧は疑わずに、ボールの中から6匹のポケモンを出す。 …ウインディ、ライチュウ、ミルタンク、ピジョット、マリルリ、モココだ。 彼ら彼女らが…沙霧の心の支えである。 「…十二支だね。戌、子、丑、酉、卯、未」 フィールは、6匹の共通点を一瞬で見破った。 …やっぱり…この年齢で所長なんて務める人は、天才なのかもしれない。 「何でわかったんですか?すごいですね」 「まあ、勘ってやつね」 沙霧もちょっと驚き。 「みんな…私の大切な仲間です」 「そうだね。みんな沙霧によく懐いている」 フィール、またもや1発で見抜いた。 やっぱり天才は違うのかもしれない。 …ガチャリ。 「ういーっす。おはようさーん」 沙霧、絶句。 「もうミーシャ、だらしないよ。せめてワイシャツの裾くらいしまいなさい!あとベルトとネクタイはちゃんと締める!!」 フィールの厳しい言動に、少し戸惑う沙霧。 …この人…誰? 寝癖でボサボサの褐色の髪、だらしなく着られたワイシャツ、ゆるく締められた青いネクタイと黒いズボン。 「あいつ、私の弟よ。ミーシャ・ヘスキー」 フィール、またもやあきれ顔。 「…ご飯を食べたら、沙霧も着替えたら?いつまでもパジャマのままじゃあれだし」 自分でも気づくのが遅くなったが、沙霧は今パジャマ代わりの小学校時代のジャージ。 これじゃあちょっと恥ずかしいし、みっともない。 「私の服、貸したげるから」 …朝食を済ませた後、沙霧はフィールの服を貸してもらった。 身長も同じくらいだし、ちょうどいい。 白いワイシャツに茶色のネクタイ、そしてこげ茶のロングスカート。 さらに、ベージュのニットベストまで手渡される。 「とってもよく似合ってるよ。沙霧はちょっとおとなしい雰囲気があるから、茶色が似合うと思って」 フィールは、あの短い時間で沙霧の雰囲気まで感じ取っていた。 うーん…やっぱり神童なのかも。 一応これでも天才科学者…なのかな? カンが鋭いというか、切れ者というか… 「あ、ありがとうございます」 沙霧はちょっとうやうやしい態度でお辞儀をする。 「いえいえ。服がない人に貸すくらい、人間として当たり前です」 フィールは謙遜する。 確かに…困っている人を助けるのは当たり前かもしれない。 …その途端、沙霧の頭の中をふっと何かが横切った。 …あの、つらく悲しい体験だ。 …私は…助けてもらえなかった。周囲の人から。 あんなに、あんなに困っていたのに。 ずっと心の中で悲鳴を上げていたのに、誰も聞き取ってはくれなかった。 いや、聞こえても一瞥して目を反らすだけ。それか耳をふさぐか、聞いてないふりをしているかだ。 …なんて…あの世界は冷たかったんだろう… 他の人はやさしく助けてもらっているのに、私だけ助けてもらえない… …世界に、こんな不平等なことがあっていいのだろうか… 「…沙霧?どうしたの?」 フィールのその一言で、沙霧はわれに返った。 …嫌なこと…思い出しちゃったなあ… 「ごめんなさい…ちょっと、回想しちゃったもので」 これは自然に聞こえるが、沙霧は一生懸命隠していたのだ。 …フィールの一言で、つらいことを思い出すはめになってだなんて、とても言えない。 人を思いやるのも…人間として、当たり前のこと。 …ここは…いいところかもしれない。 みんな私に優しく接してくれるし…なんか、ちょっと楽しい。 「じゃあ、早速研究に移るから。沙霧は外でも出てみれば?野生のポケモンはいないけど、こちらから放し飼いにしているポケモンはたくさんいるから」 …ポケモンの…宝庫… 沙霧の耳に響く、うれしい言葉。 「はいっ!」 沙霧は、律儀に返事をした。 |
鋼彗☆β | #6☆2005.03/03(木)17:24 |
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#5 …外へ出た。 心地よい東風が、体に当たる。 見渡す限りの草原は、実際に立ってみると余計に広く見える。 東の奥のほうには、うすく山々も臨める。 「…ポケモンは…?」 しかし、肝心のポケモンの姿が見当たらないのだ。 フィールが言うには、放し飼いにされているのがいるらしいが… 放し飼いというと、ポニータ、ギャロップ、オドシシ…そのあたりか。 でも、影さえ見えない。もしかして、欺瞞していたのだろうか。 いやでも、フィールはそんな人には見えない。 沙霧は辺りを見回す。 …穏やかな東風に吹かれて、一面の草がサアアアと音を立てる。 「ああ、ポケモンはここにはいないよ」 ……! 沙霧はビクッとした。 いつの間にか、沙霧の背後に人が立っていたのだ。 17〜18歳くらいの少年で、背は高め。 黒い髪に黒い瞳。日本人のようにも見えた。 「…あのう……」 「ああ、俺の名前か?」 誰も訊いてない。 「俺はテレシス・ベラディウス。研究所の所員だ」 少年の名はテレシス。 顔は日本人っぽいけど、日本国籍じゃなさそう。 沙霧は、テレシスの顔をまじまじと見つめてしまう。 「…どうかしたの?」 テレシスは不思議に思い、沙霧に尋ねた。 「い、いえ…何でもありません」 沙霧は顔を赤らめ、急に目を反らす。 …ちょっと気になったから…じっと見つめちゃった… 「あと…ここにポケモンはいないんですか?」 「ああ、いないよ」 「でも…フィールさんはいるって…」 そんな沙霧の素朴な質問に、テレシスは答える。 「所長はきっと間違えたんだよ。所長は日本語ペラペラだけど、たまに間違えるから」 日本語…ペラペラ…? じゃあ、フィールさんは日本語が母国語じゃないのかな…でも、名前からしてそうだもんね。 そう考えれば、かなり上手…… 「ところで楡原、今ヒマをもてあましてるだろ?」 テレシスは訊いた。 …ここで、沙霧は疑問に思うと共に、少し驚きの感情を抱いた。 「あの…なんで私の名前を…?」 テレシスは、沙霧の名前を知っていたのだ。 沙霧は、テレシスに名前を教えた覚えはない。というか、さっき初めて会ったのだ。 「ああ、所長から聞いた。『ワープホールから来訪者が来たのよ。名前は楡原沙霧』ってね」 テレシスはフィールの声色をまねる。 似ていない。全く似ていない。 というか、似ていたらある意味怖い。 …でもフィールさん、私の存在をばらしてたんだ… まあ、別になんてことはないけど…… 「で、ヒマか?」 テレシスは改めて尋ねる。 「はい」 沙霧は普通に答える。 だって、ヒマだから。ポケモンはいないし、景色にも飽きた。 草原のど真ん中で店もないし… 「じゃあ、いい場所に連れてってやろうか?俺が貴重な休暇を割いてやる」 テレシス、今日はホリデーらしい。 なのに、ワイシャツにネクタイ、ズボンという格好は… 「どんな場所ですか?」 「…一言で言えば、ポケモンがいっぱいいる場所だ」 …そのテレシスの言葉に、沙霧は目を輝かせる。 …ポケモンが…いっぱい… 沙霧はいきなり想像を膨らませ、期待する。 「行きます!絶対に」 沙霧は嬉しそうに言う。 「じゃあ、ポケモンを出して。鳥ポケモンの一匹くらい連れてるだろ?そいつで行かないと足が棒になるぞ」 テレシスの言ったことから察するに、そこはちょっと遠い場所のようだ。 鳥ポケモンで飛んでいかなくちゃならないような場所なんて… 沙霧は腰のモンスターボールに手をかけ、中のポケモンを出す。 「…へえ、なかなかいいね」 テレシスも中身のポケモンを見て微笑む。 沙霧は、ピジョット。 「名前はベルです。ロシア語から取ったんですよ」 少し自慢げに言う沙霧。 ベル…ロシア語から取ったというが、かなりひねってあるので普通は気づかない。 ロシア語で風を意味するВетер(ヴェーチェル)を略してベルだそうだ。 「じゃあ、行こう」 ……テレシスは、オニドリルだ。 とてもいいくちばしを持っている。 ベルに乗り、出発進行の合図をする沙霧。 そしてテレシスの先導で、大空へ飛び立つ…… |
鋼彗☆β | #7☆2005.03/04(金)17:44 |
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#6 …ベルで空を飛ぶこと1時間ちょい。 沙霧は「あの場所」へたどり着いた。 それは…遠くに見えた、あの山の中だ。 「…すごい…」 沙霧は思わず声をあげた。 …緩やかに流れ落ちる川のそばで、何十匹ものポケモンが戯れている。 マリルやマリルリが遊び、トサキントやアズマオウが泳ぐ清流。 奥のほうには、ゴルダックも見られる。 林の中にはオドシシ、ギャロップなどの大型種から、コラッタやラクライなど、小型のものもいる。 木々の間から垣間見える空には、鳥ポケモンが飛び交っている。 「すごいだろう?ここはこの辺でも有数のポケモン生息地なんだ」 ポケモンの宝庫…という言い方が似つかわしいだろうか。 ポケモンもたくさんいるが、風景もまた美しい。 まるで、絵に描いたような自然…… このバルテスの山林や小川は、全く汚染されていないように見える。 沙霧が小川の近くに寄り、手で水をすくう。 「冷たい…」 清流の水はとても冷たいけれど、透き通っていて、飲めるんじゃないかと思ったくらいだ。 これなら、ポケモンもたくさん棲めるはずだ。沙霧も納得。 「野生のポケモンは警戒心が強いから、見ていることしか出来ないけど……ゲットするわけにはいかないからね」 テレシスは川辺の大きな岩に腰を下ろし、小川を見ながら言った。 …ゲットできなくても、沙霧は満足だった。 ここまでたくさんの野生ポケモンなんて、見たことがなかったから。 沙霧の顔も、自然と笑顔になってきた。 ……ザザザザザザ…… 小川のせせらぎの音が聞こえる。 自然が奏でるこの美しい音に、沙霧の心が癒されていく。 そして、戯れるたくさんのポケモンたちには目が癒される。 「…なんだか、気持ちいいなあ」 沙霧は独り言のように言う。 それにテレシスが気づき、反応した。 「そうだろう……人は自然に癒され、生きていくんだからね」 「はい…傷ついた心も、癒されていくようです」 …ここにいると、嫌なことなんて忘れてしまう。 地球で起こった、小さな小さな事件も。 自分が酷い目に遭ってて、つらくて仕方なかったことも。 なぜか、すべて洗い流されるようだ。 「そうか…そこまで自然を好み、ポケモンをめでるか」 テレシスが沙霧の方を向いて、微笑みながら言う。 「はい。自然もポケモンも…両方大好きです」 沙霧の気持ちがこもって抑揚のついた声。 「…楡原は、意外と明るいんだな」 突然テレシスに言われ、赤くなる沙霧。 …そんなことないですよ… 心の中で、沙霧はそう謙遜していた。 「あ、はい……」 「それに、君は可愛い」 …ボン。 いきなりいきなりの連続で、頭が爆発しそうになった。 沙霧はさらに顔を赤らめ、はにかむ。 「そんなに明るい面もあるんだから、つらい現実も乗り越えていけるんじゃないか?ただつらさに弱いだけで、君は現実に打ち勝つ力は十分あるだろう。そのためには楡原、君は常に強くあらなくてはならない」 テレシスは、沙霧を励ますように言う。 沙霧は相づちを打ちながら、テレシスの話に耳を傾ける。 「楡原、強くなれ。強さは君に自信をつける。その『いい強さ』というものを、このバルテスで養うといい」 「…はい!」 沙霧は明るく返事をした。 …私、ここで頑張ってみる。 心優しい人々と豊かな自然に囲まれたバルテスで。 私は、私は強くなる。絶対に! |
鋼彗☆β | #8☆2005.03/06(日)14:23 |
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#7 「…沙霧!沙霧!!」 2階建ての住宅の中に、叫び声が響き渡る。 40代の夫婦が慌て、叫び、頭を抱えた。 …15歳の中学生・楡原沙霧が、突然消息を絶った。 本当に突然だった。 昨晩まではいたのに、朝起こしに行ったら、姿が見当たらなかった。 1階のダイニングで落ち込む楡原夫妻。 「……沙霧…どこへ行ってしまったんだ……」 夫は、テーブルの上に広げてあった新聞紙をつかむ。 クシャリと音を立てた新聞紙は、一層2人の悲壮感を際立たせる。 「沙霧…沙霧…」 妻は涙を流しながら、沙霧の名前を連呼していた。 もう、警察に捜索願を出そうとしていた。 しかし、そんな力は、楡原夫妻には残っていなかった…… 「…突然の話なんですが…」 一方、沙霧の通う中学校。 給食の時間、クラス担任の内原先生が、生徒を前にして重々しく口を開いた。 生徒たちの顔も、真剣みを帯びる。 「楡原さん、今日は欠席していますが…」 内原先生は、少し暗い声になっている。 いつもは穏やかで、大人の女性という感じの声なのだが…… その雰囲気は、生徒にも不安という感情を与えた。 「楡原さんは、今朝から行方不明なんだそうです……」 先生、そのまま伝えた。 事実をありのままに伝えた。 …でも、このあとの雰囲気に、先生は絶句した。 もう、涙が溢れそうになった。 「…楡原?来ないほうがマシだろ?」 「やったー、ラッキー!ありがとうございます神様!」 「ついに逝ったか、楡原沙霧。もう帰ってこなくていいし」 ……生徒が、沙霧の悪口をコソコソと次々に言うのだ。 先生も、この光景には目をつむりたくなった。 こんなことが、あっていいのだろうか… 酷い、なんとも酷い。 本人に聞こえなければいい、本人が気づかなければいい… そんな甘えた考えが、生徒たちをこのようにしているのだ。 …先生は、もう何も言えなかった。 担任として、やってはならないことだと知っているのに。 …行方不明と心配されている沙霧は、バルテスという惑星で、平和に過ごしていた。 地球では、沙霧の行方を心配し始めてから、 バルテスでは、沙霧の満足いく生活が始まってから1週間がたとうとしていた。 ……バルテスに来てから、本当に楽しいです。 テレシスさんが、ポケモンの宝庫へ連れて行ってくれたり、フィールさんのお手伝いをしたり。 何より、たくさんの仲間たちに恵まれています。 フィールさん、ミーシャさん、テレシスさん、田本さん、食堂のオバちゃん、それから…… …たくさんの、ポケモンたち。 地球では仲間なんていなかったけど、ここではみんな優しく接してくれます。 私も、いい人だと思われているようです。 こんな幸せな世界もあるんだな、と感じます。 バルテスに来て、そろそろ1週間。 私、本当に楽しいです。 本当の平和って、こういうことなんだなあ…… 今日も、太陽の光がまぶしいです。 地球では、天気のことなんか気にする余裕もなかったのに、 ここでは心にゆとりが出来たような気がします。 「ねえテレシス、ちょっと話がある」 そんなある日、フィールはテレシスを研究室に呼んだ。 「まあ、座って」 テレシスはフィールに勧められ、イスに座る。 フィールは、とても真剣な面持ちだ。 「あの…そろそろ、沙霧を地球へ帰そうと思うの」 …フィールの突然の爆弾発言。 テレシスはビクッと肩を震わす。 「な、何でいきなり……」 テレシスは問いかける。 「…地球には、沙霧のことを心配している人がいるもの」 …そう言うと、フィールは立ち上がり、窓のところへ立った。 だだっ広い草原が広がり、奥に山々が臨めるこの風景。 ポケモンも山に行かないといなくて、いつも変わらない。 「沙霧の居場所は、ここじゃないの。だから、帰してあげないと…バルテスから地球へのワープホールは、私たちの思いで開くことも可能なくらいもろいものだ。ここへ流れ着いてきた人は初めてだけど、バルテスの他のところへ流れ着いた人はそうやって帰したらしい。研究でもやったはず」 「そんな…いきなり言っても、楡原は反対するに決まっている。…楡原…本当にここを気に入ってたみたいだから…」 テレシスは言う。 出来れば、沙霧にはもうちょっといてほしい。 そんな願いが、込められているようだ。 「テレシス、あんたは甘い。甘すぎる。そんなに甘やかしてるんじゃ、あの子のためにはならないの。それに、さっきも言ったでしょう?あの子の居場所はここじゃないって」 フィールは厳しい口調で言った。 まるで、テレシスをしかるように。 「…いいよ。私もテレシスのわがままを聞いてやらないわけじゃない。じゃあ、あと3日。あと3日与えてやるから。3日たったら、沙霧を地球に帰すからね。それまで、沙霧に教えてやってちょうだい。『いつも明るくいることの大切さ』、『人と接することの楽しさ』、それから『現実を正面から受け止めること』を」 …フィールは、テレシスに命令した。 所長命令だ。テレシスも守らざるを得ない。 …沙霧に残された時間は、あと3日だ。 |
鋼彗☆β | #9☆2005.03/15(火)11:38 |
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#8 「…ポケモンと…一緒ねえ…」 テレシスを小研究室に帰したフィールは、窓の外を見ながらつぶやいた。 …窓越しに見えるあの山々を、ボーっと眺めながら。 「ポケモンが、本当にここで満足してるのかと訊かれたら、イエスとは答えがたい」 フィールは誰かに語りかけるように言った。 「だって、ここは……」 山の尾根のあたりを見つめ、フィールは深いため息をつく。 「ここは、つくられた世界だもの」 …バルテスは、つくられた世界なのだ。 山も、川も、草原も、みんな動かされているようなものだ。 まるで機械が動作するかのように、寸分の狂いもなく川は流れてゆく。 毎日、同じ動作。 自然というのは、天候や気温によって反応が左右されるものだ。 台風が上陸すれば川は増水する。 土砂崩れや洪水が起こるかもしれない。 風が吹けば、木の葉が揺れる。海では白波が立つ。 しかし、バルテスは違った。 雨が降ろうと、風が吹こうと、同じ動作を繰り返す。 水しぶきも、1mmの単位まで同じ高さ。 山の葉の揺れ方も、風の強さによって決まっているようだ。 まるで、この星の内部で、自然を人が動かしているかのように…… 「…今、ちょっと地球が恋しくなった」 ……しかし、沙霧はフィールとは全く違う心持ちだった。 地球には、帰りたくないという。 バルテスは平和だ。 現代の日本みたいに物騒な事件も聞かないし、束縛されたりしないし、いじめも受けないし。 ポケモンもいるし、楽しそうだし。 …それは、沙霧のような苦しい人たちの「錯覚」にすぎないのかもしれない。 バルテスは…実はものすごく苦しい場所なのだと、気づきそうにない。 「……地球へのワープホールは、常に整っている」 フィールはその後、テレシスを再び主要研究室に呼んだ。 テレシスに手伝ってもらいたいことがあるそうだ。 「これからワープホールでの転送実験を開始します」 …転送実験。 バルテスから地球へのワープホールの軌道を確かめるために行う実験だ。 願った場所にいけるかどうか…それを今回、テレシスが実験体となって実行する。 これは、沙霧を安全に地球に帰すために行う。 沙霧を確実に、元いた場所に帰してやるために。 「腰に6つ、モンスターボールを装着しましたか?」 テレシスの腰には、手持ちの6匹が。 転送には、よく懐いた6匹が必要だからだ。 テレシスはボールをさわり、あることを自分で確認する。 黙認は、許されない。 「では、場所を頭の中で想像してください」 転送で一番大事なのは、イメージ。 強い願望と想像力が、必要なのだ。 これは、6匹のポケモンより重要なこと。 テレシスは想像した… …日本…うーん… 日本だけじゃ、広すぎるだろうな… …関東…… やっぱり、東京か。 よし、東京。東京へ行きたい! 東京へ行かせろッ!! ……願った。 でも、この程度の願いじゃダメかも知れない。 転送実験の結果は…どうなるのだろうか。 |
鋼彗☆β | #10☆2005.03/18(金)09:42 |
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#9 ……フィールは、転送実験の成功には自信があった。 転送するとき、テレシスにはカメラを持たせた。 普通の、デジタルカメラ。 それで、地球に行ったという証拠写真を撮ってきてもらうつもりだ。 テレシスのことだから…東京のポケモンたちでも撮ってくるんじゃなかろうか。 テレシスがこっちに帰った時には、ゆっくり観賞させてもらう。 ……って、趣旨がちょっと違うか。 フィールは実際、テレシスが四次元空間に引き込まれるのをしっかり見ていた。 とりあえず、四次元に行くところまでは成功したんだ。 あとは、希望した目的地に行けるかどうかだ。 バルテスから地球に向かうんだったら、意外と容易なことだ。 しかし、向こうからこっちに帰ってくるときは…… …沙霧と同じくらい、強い願いが必要なのだ。 テレシス、帰ってこれるだろうか。 でも、フィールは自信満々。 テレシスが帰ってこれないわけがないと、断言していた。 まあ、明日の朝には戻ってるだろ、って。 …非常に楽観的なフィールと同様、沙霧もまた楽観的だった。 今日は自分の部屋で、ポケモンと戯れている。 沙霧のウインディ。名前は「ヴィア」。 ポーランド語で「風」を意味する「Wiator(ヴィアトル)」を略したものらしい。 ヴィアは非常に人なつっこく、沙霧にじゃれてくる。 「ははっ、やめてよぉ」 沙霧は、かなり楽しそうな笑顔を見せている。 …地球では、絶対に見せなかったこの笑顔。 やはり、現実逃避の結果なのだろうか…… …その後の昼食の時間、研究員全員+沙霧で集まる機会を持つことができた。 沙霧はそのとき、きょろきょろと辺りを見回した。 テレシスの姿が見当たらなかったからだ。 この時間には、絶対にここにいたテレシス。 そんな彼が、今日はいない。 沙霧はちょっと不思議に思った。 「あの…テレシスさんは?」 沙霧は、隣に座っていたフィールに話しかけた。 そして、フィールは目をつむって答える。 「ああ、ちょっと町へ出張に行ってるの。一泊だから、明日には戻ってくるよ」 ……立派な嘘だ。 フィールは嘘を言った。 その嘘を、沙霧は簡単に信じてしまう。 「そうですか」って。 …だましちゃったな…ちょっと悪かったかも… フィールは、ほんの少し後悔した。 沙霧を地球に帰すための転送実験…その実験体を引き受けてくれたって、素直に言っておけばよかった… そんな後悔の念が、フィールの顔に出ていた。 「…ゴメン。今日ちょっと食欲ないから、席はずすね」 フィールは苦笑を浮かべ、さっさとその場を離れてしまった。 沙霧は立ち去るフィールの背中を、ただ見つめることしかできなかった。 でも、不自然なフィールの行動を訝しげに思った沙霧。 何だか…今日のフィールさん…変だよ… その後の昼食、沙霧ののどを通った食事は少なかった。 ……フィールは、自分の部屋に戻っていた。 突然席を立った理由…それは沙霧をだましたからじゃない。 自分が医者の不養生だったことに腹が立ったからだ。 テレシスには沙霧を早く地球に帰すように言ったのに、自分の心の片隅では帰したくないと思っている… どういうんだろう……これ。 自分は人に偉そうなことを言っておいて、自分では何もできないのか…? フィールはベッドに寝転がり、白い天井を見つめた。 何もない、天井。 汚れもなければ、壁紙のはがれなんかもない。ただの空白だ。 大丈夫かよ、所長…… あんたは所長だろ。研究員を統率する身なのに、そんなにウジウジしてどうする。 …そんな叱咤激励の声が、どこからか聞こえてくるような気がした。 …表では明るい表情を見せ、裏では地球帰還への準備を着々と進めるフィール。 沙霧は、地球に帰ることを未だに知らない。 |
鋼彗☆β | #11☆2005.03/21(月)10:16 |
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#10 …フィールはベッドに寝転がったまま、考えにふけってしまった。 …いじめか… 私にも、そんなことがあったっけかな。 まだ小学生だったころ、ロシアにいたころね。 …私はロシアにいながらも、いじめに遭っていた。 私、ロシアと日本のハーフだから。 父親がロシア人、母親は日本人。 父の祖国・ロシアは冬の寒さが厳しく…いじめのつらさも、より一層深く感じられた。 ただ母親が日本人だっていうだけなのに…それだけで、いじめを受けなくちゃならないなんて。 自分がこんな境遇に置かれたから、いけないんだ。 当時、私はそう考えていた。 …自分の母親なんて、いなければいいんだ。 私は母に、文句を言いまくった。 けなした。ののしった。 でも、そんな自分が最低だと思えるようになったのは、ずっと後のこと。 それから半年くらいたったころだっただろうか。 私の両親が、事故でなくなったのは。 本当に急逝だった。 私も、ミーシャもショックを隠しきれず……そして、私はものすごく後悔した。 何で、あの時罵詈雑言しちゃったんだろう… でも、死んでからじゃ遅いんだ。 いまさら謝ったって、遅い。 私は、泣いてばかりいた。 当時はかわいい弟だったミーシャを守ることもできず… いじめは、ずっと続いていた。どんどん、どんどん加勢していくように。 最終的には、生きがいさえなくしていた。 もう、今の沙霧と同じ状態に陥ったのだ。 つながりは、6匹のポケモンだけ。寂しい。寂しすぎる。 私は、願った。 こんな世の中、自分なんていなくていい… 父も母も希望も失った今、このモスクワから、いやロシアから、大陸から、地球から…いなくなりたい。 そして、私たちはバルテスに来たのである。 最初はどこだかわからなかった。 しかし、ここがバルテスという惑星だということに、後々気づくことになる。 町のそこら中に「БАЛТЭ(バルテス)」という表示があったので、信憑性は非常に高かった。 私とミーシャは、ここに永住することにした。 あんな世界には、戻りたくない。 きっと戻ったって、いいことなんてない。 貧乏だったし、親も親戚もいないし、希望もない。 ここで新しい生活を歩み始めたほうがいいに決まっている。 私たちは幼いながらも、そう決断したのだった。 …それから5年。私たちはバルテスにいる。 同じバルテスに来た人たちを集め、ワープホールの研究をしている。 昔から天才と言われていた私は、その力を存分に発揮し、謎の解明に貢献しているつもりだ。 このワープホール、とても興味深い。 しかし、私たちの仕事はワープホールの研究だけではない。 ワープホールで転送されてきた人やポケモンを保護するのも、また義務だ。 そんな人は、希望を失っている人がほとんど。 だから、私たちは希望を与え、人間性を強くする手伝いをしているのだ。 いじめや生きがいのないことのつらさは、私もよくわかっている。 私のような人は、もう二度と出したくない…そんな思いがあるから、私は今この仕事を続けられる。 ……ここでへし折れてちゃ、いけないんだ。 私はつらくなるたび、自分の過去を思い出す。 ロシアでは死ぬほどつらかったけど、バルテスに来てから生きる希望を持つことができた。 多分、今ロシアに帰ってもやっていけるかもしれないな。 沙霧にも、希望を持たせてやりたい… 人を元気にすると、こっちもうれしくなるから。 「……フィールさん」 フィールが3階の廊下に出てくると、沙霧が自室に戻るところだった。 沙霧は声をかけてくる。 「大丈夫ですか?」 沙霧は心配そうな表情を見せ、フィールに気を遣う。 さっき、食堂で不自然な行動をとっていたからだろうか… 「うん、大丈夫。杞憂だよ」 フィールは笑顔を見せる。 しかし、内心迷っていた。 ここで、嘘をついたことを謝るべきか… それとも…… …いや、ここで迷っちゃいけない。 「沙霧……ちょっと話があるの」 フィールが、ついに話し始める。 事実と、自分の考えを…… |
鋼彗☆β | #12☆2005.03/23(水)09:41 |
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#11 フィールは、沙霧を主要研究室に呼んだ。 沙霧が転送されてきたとき、フィールがワープホールの説明をした場所だ。 「まあ、座って」 フィールは沙霧に、パイプイスを開いて差し出す。 沙霧は遠慮せずにそのイスに腰掛ける。 「…単刀直入に言うよ」 フィールは少し間を置いた後、口を開いた。 「単刀直入」という言葉が印象的だったのか、沙霧はキュッと口を結ぶ。 「沙霧には、もうすぐ地球に帰ってもらうつもりでいます」 突然のフィールの爆弾発言に、沙霧は酷く驚いた。 フィールの面持ちが真剣だったので、余計にびっくりしたのだろう。 そしてさらに、フィールは言葉をつけ加える。 「…しかし、すぐにとは言わない。明日帰れとは言わないよ」 フィールの表情は、次第に和らいでいく。 それに反比例するように、沙霧の表情はだんだん不安げになってくる。 …私…地球に帰ってやっていけるのかな… そんな後ろめたい気持ちがあったからに違いない。 「そうね…テレシスがこっちに帰ってから3日にしようか」 フィールは、こちらで沙霧に残された期日を考えた。 ついに、テレシスに言ったことまで嘘と化してしまった。 あと3日…それはフィール本人によって変更された。 これじゃあ朝令暮改じゃないか。 しかし、フィールはそんなこと重要視しない。 「でも…テレシスさん、明日帰ってこられるんですよね?」 沙霧は心配そうにフィールに問う。 自分にとても優しく接してくれたテレシスがいなくなると、とても不安なのだろう。「教えてほしい」と懇願しているようだ。 …それに対し、フィールは首を横に振った。 「明日かどうかは、わからない」 沙霧は「えっ」という感じで、表情を驚きでいっぱいにする。 …だって…フィールさん、明日帰ってくるって…昼ごはんのとき… 「でも、明日帰ってくるって言ったじゃないですか」 沙霧はもはや、自分が地球に帰ることなど、眼中から外れていた。 もう、テレシスが心配で心配で仕方がなくなっているのだ。 「それはね…嘘だよ」 フィールは悲しげにうつむき、ボソッと呟いた。 その仕草はまた、悔しがっているようにも見えた。 「沙霧を地球に帰すなんて言い出しにくくて、本当のこと言ったら、そのことがバレそうで怖かったから…とっさの嘘で、だましちゃった」 フィールはまだうなだれたままだ。 しかし、沙霧はさらに問い詰める。 「じゃあ、本当のところ、テレシスさんはどうしてるんですか?」 その質問に対し、フィールは答える。 「…地球への転送実験の実験体になって、地球へ行ってる」 かなり真剣な面持ちになり、フィールは顔を上げた。 沙霧は、フィールの話を黙って聴く姿勢になる。 「沙霧を安全に地球へ帰すための実験にね。その実験の実験体を募集したところ、テレシスが欣然と引き受けてくれた」 フィールは事実をありのままに述べた。 これで、事実はすべてだ。 沙霧の表情は真剣そのものになっていた。 「テレシスは、いつ帰ってくるかわからない。明日か、明後日か、その次か、一週間後か……彼の思いがどれだけ強いかにかかっている」 フィールも真剣に言う。 こんな重大なことを言っておきながら、内心フィールは心配していない。 テレシスなら、絶対に明日帰ってくるに違いないと思い込んでいる。 フィールは意外と過大表現をする傾向があるようだ。 「じゃあ、そういうこと。以上」 …このフィールの言葉と口調は、沙霧には少し厳しく聞こえたのかもしれない。 不安げな表情で、沙霧は主要研究室を出て行った。 …ちょっと…尾ひれをつけすぎちゃったかな… フィール、早くも反省気味。 ……ついに事実を知ってしまった沙霧。 沙霧の心持ち、そして行動はどのように変わるのか… |
鋼彗☆β | #13☆2005.03/24(木)11:39 |
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#12 「…私…地球に帰ってやっていけるのかなぁ…」 主要研究室から3階の自室に戻った沙霧は、ベッドに体をゆだねてつぶやいた。 沙霧には、あと何日も残されていない。 フィールの、少し厳しい口調。 転送実験の実験体となったテレシス。 (何だか…自分を帰すために一生懸命なようだ。 このペースで準備が着々と進んでいったら…何日くらいになるだろう?) 沙霧は指折り数えてみた。 …少なくとも、あと4日。テレシスが帰ってから3日だから。 長かったら、つまりテレシスがしばらく帰ってこなかったら…予想がつかない。 沙霧は、早くも不安になり始めていた。 地球に帰って、どんなことが待ち受けているのだろうか。 また、いじめの嵐に違いない。 沙霧はそう思って考えを変えなかった。 沙霧のマイナス思考。それはいじめによって、自分が弱くなってしまったから…だから、生まれてしまったのかもしれない。 『楡原、強くなれ』 その瞬間、沙霧の脳裏をこの言葉がフッとよぎった。 山の、ポケモンの楽園に連れて行ってもらったときに、テレシスが言った言葉だ。 でも…「強くなる」って、どういうこと? 肉体的な「強さ」? 心の「強さ」? それとも、何かをするときの技量を表す「強さ」? …沙霧に求められているのは、「心の強さ」だろう。 いじめに負け、へこたれているようでは仕方がない。 ポケモンに頼り、ポケモンを愛し、何もかも依存してきた沙霧。 ポケモンを愛するのは、一向に構わない。 だけど、少しくらいポケモンに頼らず生活してほしい。 沙霧は、今まで一度も考えたことがない。 「この世界からポケモンがいなくなったらどうするか」ということを。 おそらく、沙霧は生きていけないだろう。 だって、ポケモンのいない世界を想像したことがないんだから。 ポケモンは、自分の身近なところにいて当然なんだから。 ポケモンによって癒され、元気付けられてきた沙霧は、ポケモンなしでは生きていけない「ポケモン依存症」なるものなのかもしれない。 だから、沙霧に求むものは「心の強さ」。そして「人間性」。 自分で判断し、行動し、そして打たれ強くなること。 ちょっとしたことで、へし折れない心の強さ。 フィールやテレシスも、それらが必要だと思っているだろう。きっと。 だから、フィールはそれらを養う環境を与えてやった。 例えば、多くの人と接する機会を持てる、この研究所。 フィールをはじめ、テレシス、ミーシャ、田本さん、食堂のオバちゃん… そういう人と接してきて、沙霧は何を学んだのだろうか。 以前は誰ともほとんどコミュニケーションを取らず、チョウのさなぎみたいに殻をかぶっていた沙霧が、ここでどう変わったのだろうか。 バルテスに来る以前の沙霧をさなぎとすると、今の沙霧は羽化の途中だ。 いろいろなものに流され、一瞬弱くなる時期。 残り短い期日で、沙霧の羽化を終えて成虫にする。 立派で美しい羽を持ち、ヒラヒラと宙を舞うチョウに。 そうする手助けをするのは、フィールら研究員の義務だ。 沙霧は地球に帰っても、やっていけるほどの精神力を養ったに違いない。 あとは総仕上げ。本人にそれを気づかせるのみ。 フィールらは、本気になって沙霧のバックアップに努める。 |
鋼彗☆β | #14☆2005.04/15(金)21:52 |
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#13 それから2日後の朝。 皆が食堂に集まる朝食の時間、昨日までいなかった「あの人」がいた。 ―――テレシスが、地球から帰ってきたのだ。 帰ってきた瞬間は、フィールが見ていたらしい。 顔面蒼白で、少し顔が細くなっていた。 …何も、向こうでは野宿で、2日間ご飯にありつけなかったというのだから。 テレシスはバルテスの住人だから、当然バルテスの通貨しか持っていない。 バルテスの貨幣なんて、日本円に換えられるはずがない。 地球では全く情報の流布していないバルテスのことだから… 「で、久々にご飯にありつけた感想は?」 やけ食いするテレシスの隣に座っていたフィールが、そっと訊く。 するとテレシスは食べるのをやめ、フィールの方をにらむように見た。 「…最高だね」 「最高」と言っておきながら、表情はかなりいかつかった。 眉間にしわを寄せ、フィールをにらんでいる。 「…」 フィール、沈黙。 テレシスもにらみつけたまま沈黙。 「…あなたが、行きたいっていったんでしょう?自業自得じゃない?」 「ンなことねェよ。アンタが事前に日本円を用意しておくべきでしょう。こんな状況くらい、前もって予測できたはずだ」 フィールは苦しい笑みを浮かべる。 沙霧は、それをずっと傍から傍観している。 何も、言うことはできない。 「でも、ここじゃ日本円なんて用意できないし…誰が行っても、こういう状況に陥ることからは逃れられないんじゃないかな?」 「…チッ、失敗したぜ」 テレシスは吐き捨てるようにそう言うと、また飯を頬張り始めた。 フィールの表情は未だ苦笑のままだ。 (転送実験…しないほうがよかったかな…) フィールは、転送実験を行ったことを少し後悔している。 よく考えてみれば、沙霧が地球に帰れるのなんて当たり前じゃん。 朝食終了後。 フィールは、沙霧を外に呼んだ。 春の東風が少し強めに吹きつけているが、空は澄みきった青空だ。 しかし、フィールはずっと沙霧に背を向けたまま。 表情が、沙霧は全くわからなかった。 突然こんなところに呼び出すなんて、ただ事じゃない。 沙霧はそう予想していた。 普段は研究室に呼ぶのに、今日は屋外だ。 何か…特別なのかもしれない。 「…ねえ沙霧」 フィールは沙霧に背を向けたまま、独り言のように言った。 そして、間もなく言葉を続ける。 「―――突然だけど、私にポケモン勝負で勝ってみなさい」 ―――沙霧は一瞬、驚いて肩を震わせた。 …フィールと…ポケモンバトル… フィールの技量がどんなものかは、まるで察せない。 でも、沙霧の腕はまあまあ。周囲と比較すると、中の上くらいなのだ。 フィールは、弱そうには見えない。 自信ありげな口調、後姿からも感じる才能のオーラ。 きっと、強いんだ。 沙霧は生唾を飲んだ。 フィールの威厳におじけづいているのかもしれない、一歩後退する沙霧。 「今日の正午、ここでバトル。ポケモンの調整でもしておいてね」 文は優しげだが、その口調はフィールらしくもなく冷淡だった。 東風が一層冷たく感じる。 「―――ゆっくり、楽しませてよ」 フィールはそれだけ言うと、研究所内に戻って行った。 フィールの声には全く抑揚がなく、冷たい印象だった。 いつものフィールじゃない… いつもは明るくて、温かみのある人なのに… 今日は、妙に冷たい。 レジアイスの冷気と比較しても劣らないくらい。 沙霧はかなり不安そうだ。 ポケモン勝負に勝てるかどうかの心配じゃない。 フィールの…その口調と態度の変わりように、尋常ではない不安がこみ上げてきたのだ。 沙霧は黙って、その場に立ち尽くしていた。 ついに、ファイナルバトル。 沙霧の、残された時間がついに数えられてゆく。 |
鋼彗☆β | #15☆2005.04/16(土)22:05 |
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#14 ―――南から光を浴びせる太陽が、南中した。 まさに午の刻―――12時。 「正(まさ)に午の刻」だから、正午だ。 沙霧は草原の中にいた。 6つのモンスターボールを腰に付け、バトルの準備は万全である。 数十メートル離れたところにいるのは、研究所の所長・フィール。 彼女は今朝、突然バトルの予告をした。 ひどく冷たい口調で。 冷淡だったが、強そうな気がする。 彼女もまた、6つのモンスターボール―――否、ネストボールを腰に下げている。 6つすべてネストボール…強者の証のようなものだ。 レベルの低い頃からコツコツ育てたというイメージが、どうしても先行する。 現在のレベルは高いに決まっている。 おそらく、100に限りなく近いか、もしくは達しているだろう。 沙霧は少しプレッシャーに負けるが、後戻りは出来ない。 「ルールを説明する。勝負は3対3。勝負前に6匹の手持ちを明かし、相手に見せること。そして、その中からそれぞれ任意の3匹を選んでもらう。道具の使用は禁止。ただし、ポケモンに道具を持たせることは許可する。最後のポケモンで自爆行為を行うことも認めない。このルールを厳守し、そのほかのことは何でもOK。では、両者手持ちを出して!」 勝負審判はテレシス。 周りには、たくさんの観客。といっても、研究所員だけ。 沙霧はテレシスの指示に従い、1匹ずつ手持ちを出してゆく。 ―――ウインディ、ピジョット、ミルタンク、マリルリ、モココ、ライチュウ。 今までずっと一緒だった、この仲間。 苦しいときも、つらいときも一緒に戦ってきた仲間たちだ。 そんな中で、力を培ってきた。 今日はその成果を、余すところなく発揮させたい沙霧。 どうやって、この6匹の力を引き出すか。 それが、まず沙霧の考えるべきこと。 ―――フィールの6匹も、外へ出された。 ワタッコ、ゲンガー、テッカニン、ゴローニャ、レアコイル、スターミー。 非常にバランスのよいパーティ。 17タイプ中12タイプを持っている。 沙霧は弱点をゆっくり考えた。 確かにバランスはいい。 だけど… ―――電気と炎に弱いのが2匹ずついる。 おまけに虫・飛行タイプのテッカニンは板ばさみだ。 あとは、ゲンガー・ゴローニャ対策に水タイプのマリルリを入れれば大丈夫。 しかし、仮にゴローニャを選んできたら、マリルリで早めに倒したい。 マリルリがやられたら、相性的に厳しい。 ワタッコは状態異常系の技を持っていてもおかしくない。素早くしとめる。 特殊攻撃力の高いゲンガーはくせもの。 テッカニンについては、素早さの高さが怖い。こちらは少し防御力に不安がある。 バトンタッチの可能性も充分にありえる。 ゴローニャはマリルリでつぶせば、なんら問題はなさそう。 レアコイルはウインディで早めにしとめないと、まひの追加効果が怖いだろう。 スターミーも能力の高さが怖いが、さっさと倒してしまえばOK。 ―――フィールは、何を選択してくるんだろうか。 フィールの心中は全く読めない。 彼女のことだから、何かすごいことを企んでいるんだろう。 沙霧は選び終わった合図に、6匹のポケモンをボールに戻す。 そして、すぐにフィールもボールの中にしまったのだ。 ―――過度の緊張が、沙霧の身体を襲う。 すぐにボールに戻されると、怖くなる。 沙霧は少々、フィールのオーラにひるんでいるようだ。 「では両者、ボールを用意して」 テレシスの声に合わせ、両者ともボールに手をかける。 周りの観衆も、沈黙する。 そんな雰囲気が、沙霧の身体に大きな緊張を与えた。 ボールを持つ手が震える。 もう少し震えたら落としてしまいそうだ。 「ファイト!」 テレシスが叫ぶ。 その瞬間、観客も大いににぎわった。 沙霧とフィールの両者が投げたボールは、しばらく宙を舞ったあと、緑の地に落ちる。 ―――パァァッ… 沙霧のモンスターボールからは金色のエフェクト、フィールのネストボールからは赤いエフェクトを発して、ポケモンが登場。 ―――沙霧は、弱点の少ないマリルリを先頭に選んだ。 しかし…フィールのポケモンはレアコイル。 (…まずいな…) 明らかに、沙霧の方が分が悪い。 ここは、ポケモンチェンジだ。 「チェンジ!」 沙霧は叫び、マリルリをさっさとボールに戻した。 そして、代わって出したのはウインディ。 ウインディは炎タイプ。鋼タイプのレアコイルには相性抜群のはず… しかし、しかしだ。 「電磁波!」 レアコイルのマグネットの先から、黄色い閃光が発せられる。 電磁波だ。まずは状態異常にさせる作戦なのだろうか。 電磁波の命中率は100%、ウインディはまひ状態になった。 (…やられたか…) まひ状態のウインディは、素早さが下がっている。 でも、沙霧は信じているのだ。 状態異常でも、炎は鋼に相性がいいのだ。 そう信じて疑わなかった。 「じゃあ、こっちも交代」 フィールは、レアコイルをボールに戻した。 沙霧の身体の中に緊張が走る。 …何で来るんだろうか… フィールによって投げられたボールの中から出たのは、スターミー。 やはり、炎に相性のよい水ときた。 (ここは、交代させたいな…) 「ヴィア、突進攻撃!」 反動ダメージを省みず、沙霧は突進攻撃を命令した。 まひしているのにものすごいスピードで、ウインディはスターミーに猛突進していく。 ―――しかし、あまり大きなダメージは与えられていないようだ。 さすがフィールのポケモン…鍛え方が伊達じゃない。 「チェンジします!」 沙霧はまたもやポケモンチェンジ。 フィールの戦法に、翻弄されているのか…沙霧は唇を強くかみ締めた。 フィールは、当然ながらライチュウを出した。 当たり前。当たり前だな。 水に相性がいいのは電気。 相性くらい、知っている。 「じゃあね、こうしたらどう?」 フィールの、何だか沙霧を試しているような口調。 フィールもスターミーを引っ込めた。 (どうせ…ゴローニャで来るんでしょ。そうしたら、こっちはマリルリを…) 沙霧は、そう考えている。 おそらく、地面タイプのゴローニャで来るんじゃないかと。 ―――しかし、沙霧の考えは覆された。 フィールが出してきたのは、ゲンガー。 沙霧にとって、一番嫌な相手。 こちらには、ゲンガーに相性のいいポケモンがいない。 …ライチュウで頑張るしか、ないんだ。 「く…」 沙霧の口から、声が漏れる。 してやられたような表情を浮かべ、次の作戦に詰まってしまった。 ここで、10万ボルトといくべきなのか… 自分より速いかもしれないゲンガーに対し、高速移動で素早さを上げておくべきなのか… 沙霧、いきなりピンチ。 勝負の行方やいかに… |
鋼彗☆β | #16☆2005.04/18(月)22:39 |
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#15 ―――沙霧サイドは、電気タイプのライチュウ。 対するフィールサイド、ゴースト・毒タイプのゲンガー。 ゲンガーの弱点を突ける技は一切ない。 10万ボルト、高速移動、アイアンテール、影分身。 おそらく、今ターンはゲンガーが先攻。 1発2発は大丈夫でも、3発目はどうか…わからない。 「まずは催眠術!」 ―――ゲンガーは、ライチュウを眠りの世界へいざなおうとしている。 強力な催眠術だ。 ここからゆめくい・悪夢の戦法と来るか。 ライチュウが眠ってしまったら、バトルは一方的になってしまう。 ただでさえ一方的になりそうな勝負なのに、こちらが動けなければ――― ライチュウのまぶたは少しずつトロリと落ち、やがて閉じた。 眠ってしまった。 「…まずい…」 沙霧はつぶやいた。 眠ってしまったらどうしようもない。 ただ起きるのを待つのみ。 じれったい。かなりじれったい。 というか、沙霧は負けそうで怖かった。 フィールの威厳に押され、フィールの強力な攻めに押され… 全く話になっていない。 「眠ったらこっちのもの。次はゆめくいといこうか」 …ギュオオオオ… ゲンガーはライチュウの夢を喰う。 ライチュウにとってはかなり痛いヒットだ。 ここでゲンガーは体力を回復するはずだが、HPが満タンなので回復はなし。 「シャドーボール!」 フィールは次々と技を命令していく。 闇色の塊が、ゲンガーの元から勢いよく発射される。 これもライチュウにヒットした。 しかし、ライチュウは未だに目を覚まさない。 「クラン、起きて!お願い!!」 がけっぷちの沙霧は叫ぶ。 ゆめくい、シャドーボールと立て続けに攻撃を受けたライチュウはズタボロだ。 しかし、目を覚まそうとしない。 「容赦しないよ沙霧!最後もシャドーボールといこう!」 フィールが叫ぶと、ゲンガーの手元に霊気の塊が出現した。 そして、それはバズーカのように思い切り飛んでゆく。 ―――その弾は、ライチュウを直撃した。 これは、やられた。 沙霧もそう実感したはずだ。 フィールは、未だ厳しい表情のまま形相を変えない。 「―――ライチュウ、戦闘不能!」 審判のテレシスは、ライチュウの戦闘不能を判断した。 沙霧は瀕死のライチュウを、力なくボールへ戻す。 ―――負けるかもしれない――― 沙霧の中で、そんな後ろめたい気持ちが強くなった。 (いや、どうせ負けるんだ。負けるなら負けるなりにベストを尽くそう…) 「マイム!」 沙霧が手にしたボールから登場したのは、マリルリだ。 可愛いけど力強い鳴き声が、広い草原に響き渡った。 ―――ゲンガーが先攻に決まっている。 だけど、後攻なりの戦法を取りたい。 沙霧は戦法を考える。 じっくりと。 「ポケモンチェンジ!」 沙霧の思考中、フィールがポケモンチェンジをした。 ネストボールから赤いエフェクトを発して出現したのは、スターミー。 ―――これじゃあ、水タイプの技で攻めてもあまり効果はない。 防御力も比較的高いスターミーは、くせものだろう。 「すてみタックル!」 沙霧が命令すると、マリルリ―――マイムは命を捨てる覚悟で猛突進。素早さはあまりないが、ものすごいスピードと勢いだ。 そして、スターミーに思い切り身体をぶつける。 ―――たいしたダメージには、なっていないようだ。 マイムも反動のダメージを受けてしまう。 「痛くない?ここは雨で癒してみようよ」 フィールは余裕たっぷりのような口調で言った。 すると、ピーカンの青空が黒雲に覆われ、曇天となり、やがて強い雨が降り出した。 観客も急な雨に、各々の傘を差し出した。 「雨ごい」だ。 スターミーの雨ごい。 水タイプの技の威力が1,5倍になる。 これなら、水タイプの技で攻めても大丈夫だろうか… でも、それは甘く見すぎのような気がする。 「のしかかり!」 沙霧は叫ぶ。 マイムはドスッと大きな音を立て、スターミーの上に全体重をかけた。 ダメージは、小さかった。 しかし…スターミーをまひ状態にさせることができたのだ。 これはこちらも少しチャンスだ。 沙霧の表情にも、わずかながら余裕ができる。 「なかなかやるね…じゃあ、お手柔らかくやる必要はないね」 ―――ピシャーンッ!! 大きな雷鳴が、草原に響き渡った。 観客もみな、反射的に耳をふさいだ。 雷が、マリルリに直撃したのだ。 「雷」を使えるスターミー…水タイプどうしの対決で、大きな力を発揮する。 雨ごいの次に雷を使えば、必ず当たってしまう。 典型的なコンボにもかかわらず、沙霧はそんなこと全く意識していなかったのだ。 「―――マリルリ、戦闘不能!」 ―――ついに、追い詰められた。 沙霧は袋のねずみになった。 歯を食いしばり、判断に迷うような表情を浮かべる沙霧。 …参った。これは参ってしまった。 フィールの果敢な攻めに押され、攻めに攻められ、ほとんど何もできていない。 全くダメだ。全くなっていない。 こんなひどいざまじゃ、勝てるはずがない。 早くも、負けを認識していた。 悔しげに、最後の1匹に手をかける――― 「ヴィア!」 ―――ウインディ。名前はヴィア。 沙霧の最もよきパートナー。 最後の力を、すべてをヴィアに注ぎたい沙霧。 しかし、相手は水タイプのスターミー。 相性的にも不利、そして天気も雨だ。 どう考えてもピンチ、沙霧はどのような行動を取るのか… |
鋼彗☆β | #17☆2005.04/19(火)22:36 |
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#16 スターミーとヴィアが、雨の下で対峙した。 精悍な目つきで、スターミーをにらむヴィア。 雨に身体を濡らされ、いやに輝いて見えるスターミー。しかし、まひ状態だ。 先攻は、どう考えてもヴィアが取れる。 ここは、どう出ようか… 「…神速の一撃!」 沙霧が唱えると、ヴィアが残像を残すほどのスピードで駆けてゆく。 それはまた、光のようにも見えた。 そして、スターミーにものすごい衝撃を与える。 ―――スターミーが、だいぶふらついてきた。 おそらく、残りのHPが少ないのだろう。 しかし――― ヴィアは、きっと次の攻撃でやられる。 降雨によって水タイプの技のダメージは5割増し、相性的にも――― もう、負けだ。 絶対。負けだよ。これじゃあ… 沙霧の腕が、ダランと下りた。ゆっくりと。 「…」 フィールは自ターンだというのに、しばらく命令を出さずに黙っていた。 それも、何だか厳しげな表情で沙霧の方を見て。 何か思っているのだろうか… 少しして、フィールは目を閉じ、言った。 「―――回復、しちゃおうよ」 ―――スターミーの傷が、みるみるうちに癒えてゆく。 そして、半分以上のダメージが回復。 このフィールの命令は、沙霧の気持ちを落ち込ませた。 (もうだめだ…) そういう落胆の気持ちが、沙霧の心の中を占領してゆく。 沙霧の表情が、自然と「諦め」に変わっていった。 こんな窮地に追い込まれたら、おしまいだ… いくらなんでも、勝てるはずがないよ… 「―――沙霧!!」 フィールが、叫んだ。 降りしきる雨の中でも、かなり大きく聞こえるくらいの声で。 沙霧はビクッと肩を震わせる。 目も、大きく見開く。 …フィールは、かなり厳しげな表情を崩していない。 「あなたはここで負けるの?!負けていいの?!…まだ終わってないんだよ!気持ちで諦めたら何もかもすべて終わりなんだよ?!」 フィールは、沙霧を叱咤する。 沙霧は、もう涙目になっていた。 自分の弱い心に…気づかされたような気がして… 自分に貧弱さがあったところ…すごく、恥ずかしいような気がして… 「最後まであがけ!まだ負けてない!!できるところまで、渾身の力を振り絞れ!!折れるな!!自分を信じて!!」 フィールの叱咤の声は、草原の雨に溶けてゆく。 ―――沙霧の目から、自然と涙があふれていた。 涙の粒は頬をつたい、雨と一緒に地に落ちる。 …きまりが悪くて、仕方なかった。 今こそ、弱い心を捨てなければならない。 吐き出せ。すべての後ろめたい考えを。 前を見ろ。あなたの前にはまだチャンスがある。 前に行くか、後ろに行くか、それはあなた次第。 そこで、迷わず前に出ろ!後ろはないんだ! 前はきっと―――いや絶対に、成長へつながっているんだ!! ここで一歩踏み出せ!! 一歩は小さくても、積み上げればずっとずっと大きくなるんだ!! 行け楡原沙霧!! あなたの「強い心」を見せてみろ!! そして…仲間を信じるんだ!! 今、一緒に戦っている仲間を!! 「ヴィア!神速攻撃ーっ!!」 沙霧は、叫んだ。 フィールの言葉を…信じて。 雨の下、ヴィアが神速で駆け抜けてゆく。 …改心後の一撃は、強烈なクリーンヒットとなった。 スターミーの急所に入ったのだ。 偶然かもしれない。でも――― ―――きっとこれは――― 「波乗り攻撃!」 フィールがそう叫ぶと、スターミーは波乗りを始めた。 そして、ヴィアは波に飲まれていった… 残念にも、ヴィアは力尽きてしまったのだ。 「―――ウインディ、戦闘不能!勝者、フィール!!」 テレシスの声が、草原の中に響き渡った。 …降りしきっていた雨が、2人の健闘をたたえるように、やんだ。 周りの観衆から、大きな喝采と拍手が両者に送られる。 そんな喝采の中で、フィールは沙霧のそばに歩み寄った。 そして、優しい眼差しで沙霧を見つめる。 「―――頑張ったね」 フィールはそれだけ言うと、沙霧の手を優しく握った。 沙霧もまた…フィールの手を握り返す。 沙霧の目から涙は消え、涙のあとは雨によって消された。 ―――満面の、笑顔だった。 最近沙霧から消えたもの。それが戻ってきたのだ。 「はいっ!!」 沙霧は充実した笑顔で、元気に返事をしたのだった――― その後、沙霧は食堂に呼ばれた。 いつもの研究室ではなく、2階の食堂に。 そこで、沙霧を待っていたものは何だろう… 次回、ついに最終話。 あの向こうの翠巒が、やっと明瞭な輝きをみせてくれる時――― |
鋼彗☆β | #18☆2005.04/22(金)22:48 |
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#17 ―――沙霧は食堂の扉を開けた。 そこに待っていたものは… ―――研究所の、研究員たちだった。 フィールをはじめ、テレシス、ミーシャ、田本さん… この夕食の時間を借りて、何か催すのだろうか。 「いらっしゃい、沙霧」 一番手前の席に座っていたフィールが、沙霧に手招きをする。 沙霧はフィールのもとへ歩み寄ると、空いている隣の席に腰を下ろした。 「さっきは大健闘だったね」 フィールは沙霧が座るなり、そう話しかけてきた。 それを聞いて、沙霧は少し照れくさそうに鼻の頭をかく。 「ところで、さっきは何でポケモン勝負をしたかわかる?」 フィール、突然の質問。 その問いかけに、沙霧は少し悩んでしまった。 …何のために…フィールは勝負をしかけたのだろうか… ただやりたいから、しただなんて思えない。 何か理由はある。そう訊いてくるのだから。 「…正直、わからないです」 沙霧は考えた末、つぶやくようにそう答える。 するとフィールは一つため息をつき、少し間をおいて言ったのだった。 「―――沙霧の、強い心が見たかったの」 フィールは沙霧を優しい眼差しで見つめる。 …そうか…そういうことか。 沙霧も納得の答え。 フィールは、試したかったのだ。 沙霧が、バルテスに来てからどれだけ変わったか。 強い心を養っただろう沙霧を、試したかった。 しかし、実際は弱かった。 ポケモンバトルの技量の話じゃない。「心」が予想外に弱かったのだ。 だから、フィールはそこでまで叩き込んでやった。 「強い心を持つこと」を。 残りポケモン3対1、しかも相性最悪という土壇場で、反撃してやろうという強い心。 負けるなんてひとつも思わず、ただ勝つことだけを考えること。 沙霧に、そんな心は身に付いたのだろうか。 身に付いてなかったから、付けてやった。 ―――そうじゃないと、地球に帰っても成長がないもの。 「実際にやってみたら、沙霧はまだ弱かったからね。ちょっと厳しいことを言っちゃった…でも、これは必ず地球に帰っても生かせるはず。ためになるはず。強い心を持つこと…それは勝利の約束のようなもの。いつでも前向きな心を持って、微笑みを持って、シャンと胸を張って!」 フィールはそう力説すると、沙霧の背中を優しく叩いた。 「そうすれば、きっとつらい日常にも勝てる。絶対に!そして…あなたには、頼りになる仲間がいる。お腰につけた6匹のポケモンもそう、それから…」 フィールはここで、少し間を置いた。 そして、目をつむって話を続ける。 「―――私たちも、沙霧の仲間だよ」 ―――沙霧の心の奥で、何かが震えた。 何かがジーンとこみ上げてくるような感覚。 最近、こんな感じはなかった。 仲間がいなくて、周りがみんな敵で… 心の底から、何かが押し上げて来るなんてことなかった。 「こんな遠く離れた星からだけど、私たちはいつも…沙霧のこと、応援してるよ」 ―――フィールの優しい助言と微笑み。 それは、沙霧の奥底からこみ上げる何かを涙へ変えさせた。 ぽろぽろと、沙霧の頬をつたう涙。 これは、悲しみや苦しみじゃなくて… 何と言うか、一種の「うれしさ」なのだ。 こらえきれなくなったうれしさが、一気にあふれ出てきたのだ。 「―――俺が言いたいことは、ただ一つ。前も言ったよな。…楡原、強くなれ。強い人間になれ。あとはすべて自分次第だ。自分の力で頑張れ。確かに、自分だけではつらいことだってある。人間は一人じゃ生きていけない動物なんだから。そんな時は、俺たちのことを思い出すといい。何かの力になれるだろう」 沙霧の向かいに座っていたテレシスも、心強い助言をしてくれる。 何かと世話になりまくっていたテレシス。 でも、最近はちょっとやつれてきているような…あの転送実験のあとから。 沙霧のために、実験体になってくれた。 そんな心は、感謝しなくてはならない。 「まあ、頑張れよお嬢ちゃん。俺たちも嬢ちゃんの味方だからな」 「頑張ってけよ」 田本さんとミーシャも、短いながらも沙霧に言葉を贈ってくれた。 こんな短いフレーズでも、沙霧の心にはとても強く響いたのだった… 「みなさん…本当に、本当に、ありがとうございます…」 とめどなくあふれる涙を服の袖でぬぐいながら、沙霧はそう礼を述べた。 このお礼、絶対一生忘れない… 沙霧の心の中の、強い決心となったのだった。 「よし、今夜は沙霧の激励会!たくさん食べて飲んで、激励するよ!」 ―――それから2日。 沙霧は、見慣れた風景の中へと戻っていた。 白い壁、たくさん置かれた家具。 太陽は、東から昇り始めていた。 「―――そっか…もう、戻ってきたんだ…」 沙霧はやっと、自分が地球に戻ってきたことを認識した。 ここは、地球だ。 気慣れた制服に袖を通し、沙霧は1階へ降りて行った。 「おはよう、お父さん、お母さん」 沙霧は、ダイニングのドアをゆっくりと開けた。 すると、両親は驚愕の表情でこちらを見ていたのだ。 「…沙霧…沙霧なのか…?」 父は立ち上がり、沙霧のもとへ歩み寄る。 それに対し、沙霧は反省するような表情で答えたのだった。 「沙霧!」 母も、ゆっくりとこちらに歩み寄ってきた。 すごく、うれしそうな顔をしていた。 母親がこんなにうれしそうにしているのは、何年ぶりに見ただろう… ―――自分は、幸せ者なのかもしれない――― 前までずっと気が付かなかったけれど、自分はやっぱり愛されているんだ。 向こう―――バルテスに行っている間、私は変わったのかもしれない。 気づかなかっただけで、変わっているのかもしれない。 着眼点が、早くも変化を遂げていた。 手早く準備を済ませると、沙霧は学校へ向かった。 久々の学校。 …また…酷い目に遭うのかな… 『いつでも前向きな心を持って、微笑みを持って、シャンと胸を張って!』 ―――沙霧の頭の中を、フッとよぎったこの言葉。 フィールの、言葉だ。 特に印象に残ったこの一節が、思い出されたのだった。 …そうだよ。 前向きに行かなくちゃ。 背筋を伸ばして、前を見つめて! ―――沙霧は、教室のドアを開けた。 その刹那、ものすごい緊張が走った。 かなりの緊張が、沙霧を襲った。 …一瞬、教室がざわついたのだ。 「ケッ、帰ってきたのかよ」 「ヤダヤダ。またあの日々が戻ってくるのかよ」 「考えるだけでも憂鬱だぜ」 男子が、いきなり罵声を浴びせてきた。 そんなののしりに、いきなりへこみそうになる沙霧。 しかしそんな中、教室の奥から2人の女子が駆け寄ってきたのだ。 それも、かなり心配そうな表情で。 「―――沙霧、ずっとどこ行ってたの?すごく心配したんだから」 「でも、帰ってきてよかった…あと、ごめんね。沙霧がいじめられてるのに、ずっと傍から見てることしかできなくて…」 ―――えっ? 沙霧は、少し驚いた。 そして、それと共に、喜びの感情も一気に湧いてきたのだ。 (ずっとみんな敵だと思ってたのに、私に味方してくれてる人もいたんだ…) うれしかった。 正直、うれしかった。 バルテスに行ってきたことで、沙霧は考えを変えることができたのだ。 これは…非常に大きな成果に、違いない。 「…ごめんね、心配かけて…」 沙霧は笑顔で、そう答えた。 すると、2人の表情が一気にパァッと、花のように明るくなったのだ。 「―――沙霧が笑ってくれた!」 「ずっと暗い顔で沈んでたから久しぶりに見たよね、沙霧の笑顔。こっちもうれしくなってくるよ…」 ―――やっぱり、私は愛されているんだ。 大切なのは、「強い心」、そして「笑顔」。 前向きになれば、なんだって成功するんだ。 ―――楡原、強くなれ。強い人間になれ。あとはすべて自分次第だ。 ―――いつでも前向きな心を持って、微笑みを持って、シャンと胸を張って! そうすれば、きっと見えてくるよ――― きっと――― <翠巒狂詩曲〜Over there...〜 完> |
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