「駄目だ、眠れないや……」
 病室の闇の中、ベッドから半身を起こした啓太は弱々しく呟き、耳を凝らしても聞き逃しそうなほど、小さな小さな溜息を吐いた。
 姉の背中を見送った瞬間から治まらない不思議な胸騒ぎに阻まれ、消灯時間を過ぎても眠る事が出来ない。
 そして彼は急に恋しくなった彼女の体温を思い出すように、枕元に飾ったフォトフレームを手に取った。
『ガンバレ、ケイ!』と手書きのメッセージが添えられた小春の写真をじっと見つめながら、これを渡された日のことを……初手術の前日の記憶を反芻する。
「……おねーちゃん、もしかすると僕……」
無意識に出た言葉をさらに紡ごうとしたその瞬間、それを遮るかのような唐突さで病室ドアが開いた。
巡回の時間はまだ来ていない。幽霊でも出たのかと、啓太は少し怯えた顔を上げる。
「誰……ですか……?」
「病院ね……僕はあんまり好きじゃないな。清潔だけどそれしか無い。それに何より自由が無い」
暗闇によって姿を隠した来訪者は少年の問いを歯牙にも掛けず、そっと壁のスイッチに触れた。
蛍光灯の明かりによって暴かれたのは、白いスーツで身を固めた男の姿。彼は少なくとも幽霊では無い。が、それよりもタチの悪い人間であることは確かだろう。
「お久しぶりだね、桜木啓太くん。……いや、今の君には初めまして、かな?」
 胸に手を当て、形だけの一礼をした白砂はテレビの脇に置かれた新聞の見出しを目敏く見つけ、困ったように微笑む。
「正義の美少女怪盗……か。一応被害者は僕らなんだけどね」
病室へと侵入し、意味の分からない言葉を羅列する不審者を警戒した啓太は気取られないようそっと、ナースコールに手を伸ばした。
 が、白砂が次に発した一言により、その指は不可視の壁に阻まれたように静止する
「……ねえ、あの怪盗とお姉ちゃん、君はどっちが好きなのかな?」
「え……?」
 唐突な問い掛けに首を傾げた少年を楽しげに観察しながら、白砂は啓太の耳元へと顔を寄せた。
「……悪いけど、君には一緒に来てもらうよ」
急にトーンを下げ、喉元に突き付けられたナイフな冷徹さを帯びたその声色に、啓太の背筋は凍り付く。
「そして、いい夢を見せてあげる……」
 ポケットから小さな注射器を取り出し、そっと針を啓太の腕に刺す白砂。
 声も無く崩れ落ちた少年の寝顔を見下ろす口許は、冷たく歪んだままだった。


 囚われた小春が目を覚ましたのは、罠に落ちて数時間後の事だった。
――ここは……?
覚醒し切らない意識のまま、彼女は上体を起こそうとする。が、鈍色に光る鎖はその程度の自由すら許さない。
 小春は今、地下駐車場のような空間の中央に設置された、大きな円形のベッドの上で仰向けに横たわっている。程よく身体が沈む羽毛の心地良さを楽しむ余裕は、今の彼女には無い。
 そして両腕はベッドの縁(ふち)から伸びた鎖に繋がる手錠によって戒められ、全身でAを描くような体勢で彼女は拘束されていた。
――そっか……やっぱりあたし……
 自らの置かれたこの状況に敗北の事実を嫌と言うほど突き付けられながら、小春は自らの未来を案ずるよりも先に、自分がいなくなれば独りぼっちとなる啓太の事を想う。
 考えるにつれて背筋に走る悪寒は冷え冷えとした空気が満ちた空間のせいでも、制服のブレザーを脱がされていたせいでも無かった。
――ゴメンね、ケイ。……お姉ちゃん、もしかしたら帰れないかも……
 いつに無く弱気の小春。彼女が胸の奥で啓太に詫びたその瞬間、鼠色の壁に備えられた鉄製のドアが、錆の擦れる音と共に開いた。
 小春は音の方向……頭上へと視線を向ける。そしてその先には、やはり奴の姿があった。
「お目覚めのご機嫌はいかがかな? 怪盗チェリー・ブロッサム」
 小春の顔を覗ける位置に腰掛けた白砂は彼女の目を見てフレンドリーに微笑んでいる。そして彼はその両手に、湯気の昇るコーヒーカップを一つづつ持っていた。
「……最悪ね。まさかアンタなんかに捕まるなんて」
 小春は悪態を返しながら、他人の神経を逆撫でするその笑顔をきっと睨み付ける。白砂は憎しみの籠ったその視線すらも楽しむように、左手のコーヒーカップを静かに煽った。