防護服は、人工皮膚の組成に反応して、それを着た本人の体にぴったりと張りつくようになっている。それは着ると言うよりは吸着と言う風で、袖を通した瞬間にはもう隙間なく体を包み込んで来る。
とは言え、人工皮膚の割合の比較的小さいハインリヒは、時々これがうまく行かずに、誰かの手を借りて、背中の辺りをきちんと馴染ませる必要があったり、逆に生体部分の多いフランソワーズは吸着自体が起こりにくく、まるで普通の衣類のように防護服を脱ぎ着したりしている。
これも改良されるべき点なのだろうけれど、防護服は、何しろ改造された体を攻撃から守る機能がまず最優先で、脱ぎ着のしにくさ程度には目をつぶってくれと、開発をする側ーこの場合は、ギルモア博士とイワンのー言い分が通ってしまっている。
フランソワーズの不満を知らないわけでもなく、けれど他の改良のための研究に手と時間を割かれて、ギルモア博士もイワンも、防護服の不便さについては基本的に放置と言う態度だった。
あ、とフランソワーズが小さく声を立てた。引き上げようとした背中のジッパーの途中に、細い髪の先が食い込み掛けている。
そこで慌てて止まった指先の、きれいに切られた爪の丸さに一瞬だけ目を奪われて、イワンは慌てて揺りかごから飛び上がり、フランソワーズの傍へ、文字通り飛んでゆく。
──ジットシテテ。
テレキネシスでそっとジッパーを引き下げて、絡み掛けた髪をさらにそっと持ち上げてそこから遠ざけて、イワンはゆっくりとジッパーを襟の上まできちんと引き上げた。
「ありがとうイワン。」
──ドウイタシマシテ。
髪を片手で払って背中へ流し、胸の前で押さえていたマフラーがその後へ続く。防護服の赤に髪とマフラーの色が鮮やかに映えて、イワンはらしくもなくそれに見惚れた。
揺りかごへ戻りながら、自分がもう少し成長しても、フランソワーズはこうやって背中に触れることを許してくれるだろうかとイワンは考える。
ドウダロウネ。
自分を抱き上げてくれる手の、指先は赤ん坊の柔らかな皮膚を決して傷つけないように丁寧に爪が整えられて、たまに色を塗ることはあっても、華美に飾ると言うことはなく、主にはジョーのために、フランソワーズがそれを内心残念がっているのだと知っている。
イワンが気づくよりずっと早く、こちらへやって来るジョーの足音を聞き分けて、フランソワーズの片頬が突然輝く。
「行きましょう、イワン。」
自分に伸びて来る両腕へおとなしく身を預けながら、イワンは見えないようにこっそりと、小さな肩をすくめた。
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もう、と小さく悪態をつきながら背中へ腕を回そうとしているフランソワーズに、長い腕をすでに伸ばしながらジェットが近づいてゆく。
「ボクがやろう。」
肩甲骨の下辺り、背中の真ん中で止まっているジッパーの、小さな小さなつまみをうまくつまみ取れずに指先を泳がせていたフランソワーズの手を軽く押さえて止めて、ジェットは流れるような仕草でフランソワーズの髪を首の付け根までかき上げて、静かにジッパーを上げた。
「ありがとう。」
「どういたしまして。」
肩の端へ上げていたマフラーの端もついでに背中に下ろしてから、まだジェットはその場を離れずに、襟とマフラーの下から髪を全部持ち上げてきちんと背中へ流すフランソワーズの仕草を、明らかに魅力的だと思っている視線で、無礼にはならない程度に、じっと眺めている。
「・・・ジョーのヤツがうらやましいな。」
え、とフランソワーズが肩越しに青い瞳を動かすと、ジェットはいたずらっぽく広い肩をすくめて、
「キミみたいなステキな恋人がいるジョーが、うらやましいって言ったんだ。」
案外冗談でもなさそうに、それでももう一度、さらに大きく肩をすくめて、きちんと冗談めかして見せてから、くるっと背を向けて、坐っていたソファの方へ戻ってゆく。
恋人がいるのかいないのか、いつもははっきりとはしないジェットの直戴な物言いに、フランソワーズはジェットが今気に入っている──あるいは、すでに親密に付き合っている──人も、自分も同じような金髪なのかもしれないと思いながら、視界の端にはジョーの姿を探している。
色とりどりの仲間たちの中に、今はジョーの姿は見えず、もう一度ジェットの赤い髪に視線を止めて、ありがとうと再び心の中で返してから、ジョーの姿のないことを淋しく思った。
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ひゃあ、と張々湖が大袈裟な声を上げて、丸い体で跳ねるようにフランソワーズのところへやって来る。
「きれいな髪、台無しアルね。動かないのコトヨ!」
金糸のような髪の先がすでに引っ掛かってしまっている、防護服の背中のジッパーへ背伸びしながら、張々湖はそれを引っ張ろうとしているフランソワーズの指先を急いで止めた。
張々湖のソーセージのような指先がフランソワーズの先細りの華奢な指に触れて、
「ワタシに任せるアルね。」
中国語訛りの英語は、脳内翻訳機できれいなフランス語に聞こえるけれど、同じくらい張々湖の指が美しい動くかどうか、フランソワーズはわずかの間不安にかられた。
けれど、魔法のように美味な料理を作り出すその手指は、フランソワーズの柔らかな髪の先をそっとそこから抜き取り、料理を盛り付ける時と同じ慎重さで元に戻してくれる。
持ち上げた髪の下でジッパーを上まで引き上げて、その後には髪の跳ねを、ちょっと撫でつけるようにして落ち着かせてくれるまでしてくれた。
「せっかくキレイな髪アルね。大事にするのコトヨ。」
わざわざ言われるまでもない。そう思いながらも言い返しはせず、そうね、ありがとうとフランソワーズは素直にうなずいておいた。
意外な張々湖の女性の扱いに、結婚するならこういう人なのではないかとちらりと思って、それからそこへジョーを据えてみてから、フランソワーズは誰にも聞こえないように小さなため息をこぼす。
フランソワーズのこの些細な災難に、気づいてすらいずに、部屋の向こう側でハインリヒと話をしているジョーをちらりと見てから、フランソワーズはもう一度にっこりと、目の前の張々湖へ礼の笑みを浮かべて見せた。
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声も立てなかったし、困ったと言う素振りを肩の辺りに浮かべた自覚すらなかったのに、気がついた時にはタコの足のように変化させた腕を、さらに先端を二股に分けて、その一方は髪を丁寧に持ち上げ、もう一方はジッパーを音もさせずに引き上げ、フランソワーズが振り向いた時にはすべてが終わっていて、ソファの端に坐ったグレートは、いつもの大きな笑みを前方に向けたまま、ハインリヒやピュンマと平然と話を続けていた。
グレートの変身には慣れている仲間たちは、グレートのしたことに特に興味も持たず、フランソワーズだけが、少し空いた距離から、グレートへ聞こえるように礼を言うべきかどうかと、わずかの間思い悩んでいる。
「美しい女性(にょしょう)と言うのは、ちょっと困ってる時がいちばん綺麗なもんさ。」
目の前の、自分よりはずいぶん年下の青年たちにそう言い、いかにも女の扱いに慣れた風の、教えを施すような物言いが、けれどグレートからなら嫌味には響かず、言われたフランソワーズの方が薄く頬を染める羽目になった。
「これはこれはマドモワゼル、さらなる麗しい眺め、我らには光栄の極み。」
さっきタコの足に変化(へんげ)させた腕を、今度は胸の前へうやうやしく横切らせて、軽く頭を下げて見せる。
ハインリヒがやれやれと言うように苦笑を薄く浮かべ、年上の仲間の、芝居がかった大仰な振る舞いへ、軽く首を振る。
ピュンマはフランソワーズへ、これだから、と言いたげに苦笑を向けた。
「ありがとう、グレート。」
フランソワーズはやっとそれだけ言い、頬の赤みをまだ消せないまま、それへ向かってグレートが素早く片目をつぶって見せたせいで、またいっそう濃く、頬へ血の色を上がらせる羽目になった。
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あ、と言うフランソワーズのごく小さい声を、改造がなくともよく聞こえる耳で聞き取ったのか、ピュンマが足音もさせずにフランソワーズの右側から後ろへ寄って来る。
「ボクが取るよ。」
翻訳機を使わない、そのままの声の、とてもきれいなフランス語で言って、それへ触れるとよく映える黒壇色の手で、フランソワーズの淡い金色の髪を持ち上げ、やや不器用に動く指先でジッパーを素早く引き上げた。
首元がわずかに締め付けられて、フランソワーズは思わず襟を押さえる仕草をしたけれど、ピュンマにはそれを悟らせずに、明るい声でありがとうと礼を言った。
軽く振り向くと、照れ臭そうな、歳相応の初々しい笑みが見え、フランソワーズも思わずつられて笑みを深くする。
自分のそれよりも多少古臭くさえある、正しく美しいフランス語がピュンマの桃色の唇で形作られるたび、フランソワーズは彼に親近感を抱いて、こんな形で出会わなければ、もっと違った形の友人になれただろうと思うのだ。
理知の光を帯びた色の深い瞳に吸い込まれそうになりながら、それでもフランソワーズの青い瞳はそこからずれて、ピュンマの肩越しに、ついもっと色の淡い茶色の瞳を探してしまうのだった。
ありがとうと、ピュンマの目を見て、フランソワーズはもう一度言った。
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「ハインリヒ、ちょっと手伝って。」
フランソワーズは髪を片側へ寄せて肩へ乗せ、くるりと背を向けながらハインリヒを呼んだ。
そちらへ背を向けていたハインリヒは、不意にフランソワーズに呼ばれて、無表情に体の向きを変え、もう左手を伸ばしながらそちらへ歩いてゆく。
「ジョーなら、上にいたぜ。」
「だって、今ここにはいないもの。」
軽く唇を尖らし、手を借りたい本人の不在へ不満を隠しもせず、ハインリヒが自分の髪に、マシンガンの右手では触れないことを瞳を動かして確かめながら、フランソワーズは、そのことを悲しく思うことを止められないまま、たった今突き出した唇を元の形に戻す。
ピアノの鍵盤へそっと乗せるのと同じ優しさで、ジッパーがそっと引き上げられ、そこへ髪が巻き込まれないようにと添えた左手も、触れているとも感じさせないかすかさだった。
すぐ後ろに立っている存在感は隠せないけれど、フランソワーズへ伸ばす手指の感触は、それが武器とも思わせない繊細さで、この男の礼儀正しさをなぜか忌々しいと感じるのは、彼がドイツ人で、フランソワーズがフランス人だからなのか。
粗野な男なら素直に嫌うこともできたはずだと、恐らくハインリヒ自身も抱かずにはいられないのだろうフランソワーズへの複雑な感情を、フランソワーズは首筋に感じる彼の指先から読み取っていた。
「ありがとう、ハインリヒ。」
「どういたしまして。」
声に、どこか白々しさがこもる。互いへの好意を素直には表せないふたりは、視線も合わせず離れかけて、
「──ジョーのヤツには俺がやったなんて言わないでくれよ。殺されちまう。」
見えはしなかったけれど、ハインリヒの唇の片端に、いつもの皮肉笑いが浮かんでいた。
バカね、といつもの調子で、いつもよりは蓮っ葉に言い返して、フランソワーズの口元にも、いつもよりずっと大人びた笑みが刷かれている。
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「お願い。」
もう自分の背中に腕も回さずに、フランソワーズはただくるりと肩を回した。
ジェロニモの大きな体がフランソワーズの背中へ向かって軽く傾き、掌がかすめてゆくと、背中の半ばに見つけた小さなジッパーのつまみを、これも大きな指先がそっと取り上げる。
引き上げ始める前に、ジェロニモは丁寧にフランソワーズの髪をもう一方の手でかき上げ、けれど決して首筋の皮膚には触れない距離を置いて、呼吸の掛からないように口元を離し、やっとジッパーがゆっくりと引き上がる。
それすら音をさせないようにと思うのか、ジッパーは眠くなるようなゆるやかさでフランソワーズの防護服の背中を、けれどしっかりと閉じて、ジェロニモの視線はフランソワーズの背中へ据えられていて、けれど見ているのはそれではなく、ただジッパーをつまむ自分の指先だ。
ジェロニモの視線が、フランソワーズの上を直接這うことは決してなく、触れていてもそれは触れているのではなく、ジェロニモにそれをきちんと表現する術はなかったけれど、自分にとってフランソワーズは護るべき存在なのだと、フランソワーズを常に聖なるもののように扱うジェロニモの態度がそれを伝えていた。
そのように扱われることを面映ゆく感じていたこともあったけれど、素直に受けることがジェロニモへの感謝の意を伝えることになると気づいて、フランソワーズは気にすることをやめた。
ジェロニモは、フランソワーズを護ると言う役目を生み出すことによって、それを改造された自分の存在の拠り所としている。それを拒むことは、ジェロニモの存在を否定することになる。
否定しても、ジェロニモはフランソワーズを責めることもせず、ただ静かに何か別の存在を求めるだろう。
求めて、見つかると保証もないなら、フランソワーズがそこへとどまるのがいちばんだった。
ふと気がつくと、自分の傍へ立ったままのジェロニモが、顔を横へ向けてあちらを見ている。フランソワーズはその先を追い、ジョーがふたりをじっと見つめているのを見つけた。
唇がやや固く引き結ばれて、不機嫌がそこに浮かんでいる。
ジェロニモはただ静かに、何の表情も刷かずに、ジョーを見た後でフランソワーズをじっと見て、それからすっと空気も揺らさずに身を後ろに引いた。
ジョーが、こちらへゆっくりと爪先を滑り出す。それを見て、フランソワーズの瞳が輝いたのに、気づいたのはジェロニモだけだった。
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気づいて欲しくて、あ、と少し大袈裟な声を上げた。案の定、ジョーはフランソワーズの声の、ごく最初の震えを聞き取った瞬間、くるりと肩から全身で振り向いて来て、もう爪先は前へ出ている。
「どうしたの。」
腕を伸ばしながら、けれど事態を理解してはいない。
年下の恋人へ、かき上げた黄金の髪の下のなめらかなうなじを晒しながら、フランソワーズはそこへ渡る細い金鎖を露わにして見せる。
髪の色と見分けのつきにくく、ミルク色の肌の色にも溶け交じってしまうその細い鎖の連なりに、柔らかな髪がひと筋引っ掛かって、フランソワーズが引っ張られる痛みに声を上げたのだとようやく悟ると、ジョーはたちまち心配そうな表情を浮かべて、フランソワーズへ近づく足を早めた。
「ボクが取るよ。」
男にしては細い指先が、そっと鎖に掛かる。けれど、その手指の動きは決して器用ではなく、部屋中の他の仲間たちが固唾を飲んでそれを見守っていると、当のジョーは気づいていない。
髪の根を引っ張らないようにはしながら、そうして、髪を引きちぎらないようにも気をつけながら、ジョーは何やら不器用に指先をあちこちに這わせ、もしかするとわざとそうやってフランソワーズの、少し前に傾けた細い首筋を間近に眺め、あまつさえ近々と触れる──みんなの前で──と言う役得を愉しんでいるのかと、皆がひそかに思い始めた頃、
「取れた!」
と、存外無邪気な声が上がる。その声の方へ斜めに向いたフランソワーズの横顔へ、一瞬、かすかに残念そうな色が走ったのを、見逃さなかったのは仲間のうちの誰だったか。
ジョーは部屋の中に満ちた空気の変化になど、一瞬たりとも注意を振り向けた様子もなく、恋人と、こんなに近く寄り添っても、彼女の心の内を読み取る術など、持つ以前に存在すら思いも至らないまだ青年とすら呼ぶのもはばかられる彼は、ただひたすら無邪気に、自分が成したことをフランソワーズの歓びとさっさと思い込んで、いつもの、見た誰の心も蕩かさずにはいられない笑顔を満面に浮かべている。
「ありがとう、ジョー。」
フランソワーズはまだ自分の髪から手を離さずに、体半分ジョーの方へ向いて、きちんと応えた笑みを浮かべた。
笑顔のまま合った視線に、先にジョーの方が頬を薄赤く染めて、恐らくそれは、固く閉じられたジッパーの奥の、自分の剥き出しの背中のことを思い出しているのだと、フランソワーズはジョーの心の中を正確に読んだ。できれば今ここですぐ、それを押し下げてしまいたいと、思っているのが手に取るように分かる。自分でそれを下ろしてしまってもいいのだと、軽々と背中へ回る自分の腕を必死に止めながら、フランソワーズはイワンが同じ部屋に今いないことを心からありがたく思った。
ジョーの瞳孔がかすかに拡がる。それを受け止めて、フランソワーズの青い瞳も、一瞬血の色を走らせて淡い紫の影を滲ませた。
ジョー、と、恐ろしいほど甘い声で彼の名を呼ぼうとした時、ジョーが自分の頬へ刺さる部屋中の視線に気づいて、はっと我に返ったように背筋を伸ばす。
フランソワーズの呼び掛ける声はタイミングを失って、喉の奥で空回ったまま消えてしまった。
それでも、皆の視線を受け止めて、頬をいっそう濃く赤く染めるジョーの、若いと言うよりもいっそ稚ない横顔へ、フランソワーズは気づかず、とろけるような笑みを浮かべている。それを見た皆も、内心でだけやれやれと苦笑をこぼしているけれど、気づいていないのはジョーだけだった。
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