赤ん坊
泣き声が、リビングから響いていて、それにかぶさるように、困り果てたフランソワーズの声が聞こえていた。「オムツも濡れてないし、ミルクもいらないの? どうしてほしいの、イワン?」
いつもなら、速やかにテレパシーで言いたいことを伝えてくるくせに、今はまるで普通の赤ん坊のように、おろおろするフランソワーズを前に、イワンはただ、声を放って泣き続けている。
リビングから離れた、自分の部屋で、ジェロニモは、今にも泣き出しそうなフランソワーズの、聞こえない声を空気の中に聞き、同時に、奇妙に苛立っているイワンの感情を、空気の中に読み取った。
普通に言うなら、これはけんかなのだろうと、様子を見るために、部屋を出た。
仲間内の言い争いなら、放っておく。実力行使に出るなら、止める。サイボーグ同士の争いは、力の加減を間違えれば、お互いを破壊してしまいかねなかったし、誰と誰の喧嘩でも、間違いなく止められるのは、ジェロニモだけだったので。
それでも、イワンとフランソワーズでは、少しばかり勝手が違う。
イワンが不機嫌で、フランソワーズに八つ当たりすることはありえないことのように思えたけれど、このまま放っておいては、ほんとうに、フランソワーズが泣き出してしまいそうに思えた。
リビングでは、思った通り、きれいな青い瞳を半ばうるませて、フランソワーズが、ゆりかごの中で泣き続けているイワンを、おろおろと見下ろしている。
消したはずの足音を、それでも改造された耳は、きちんと聞き取っていたのか、リビングに足を踏み入れた途端、途方に暮れたように、フランソワーズが、ジェロニモの方を振り返った。
「イワンが、泣き止んでくれないの。」
大きな体を丸め気味にして、ゆりかごを覗き込むと、涙で、顔中をくしゃくしゃにしたイワンが、ぎょろりと髪の毛の下から、ジェロニモを見上げた。
途端に泣き声は少し小さくなり、どこか憮然とした表情のまま---赤ん坊のくせに---、右手をジェロニモに向かって伸ばす。
ジェロニモは、まったく、とほんの少しイワンを叱りつけたい気分に駆られながら、今はフランソワーズを落ち着かせるために、何も言わずに、イワンの小さな体に向かって、そっと両手を伸ばした。
「だっこも、アタシがするといやがったのに。」
無雑作な、けれどきちんと気をつけた手つきで、いつものようにイワンを肩に乗せ、ジェロニモは、唇をとがらせているフランソワーズに、短く言った。
「外行く。心配ない。」
イワンは、今は完全に泣き止んで、自分で口からおしゃぶりを取ると、テレキネシスで、それをゆりかごに戻した。
ギルモア邸の裏庭にある、小さな森の中へ入るのに、ジェロニモの足なら5分とかからない。
陽の当たりすぎない木の下を選んで、ジェロニモは、根元に腰を下ろした。
組んだ膝の中にイワンを置いて、手を離すと、イワンが、すうっと深呼吸した音が聞こえた。
------キモチイイネ。
「フランソワーズ困らす、よくない。」
ぶ、とイワンが、赤ん坊らしい音を立てる。
「外に行きたい、言えば、連れて行く。」
------ベビーカーハ、キライナンダ、トキドキ。
イワンには、イワンの思惑がある。
赤ん坊の姿をしていて、中身は、想像すらつかないほど成熟してしまっているイワンの苛立ちは、誰にも理解できない。
それを、ただ、在ることとして受け止めているジェロニモが、イワンにはまた、奇怪なものとして映るらしい。
ジェロニモの膝を、ゆりかご代わりにして、イワンが、その中で体を伸ばす。ゆったりと微笑んで、まるで、ようやく檻から出ることのできた野生動物のように、空と森と空気の匂いをかぐ。
むしろイワンには、こちらの方が、馴染みが薄いものであるはずなのに、何かから解き放たれたように、イワンの全身が、森の中に溶け込んでしまうような、ふと、そんな気がして、ジェロニモは、確かめるために、イワンの頭をそっと撫でた。
気持ち良さそうに、喉を伸ばして、こんな時だけはほんとに、ただの赤ん坊のように、イワンがくつくつ笑う。
機嫌が治ったらしいと、ジェロニモは、うっすらと苦笑をもらした。
ジェロニモの大きな手は、まだ、イワンの頭の上にあった。
イワンが、長い前髪の下で目を閉じ、わざわざ置いてきたおしゃぶりがなくて、口が淋しいのか、数瞬ためらった後に、小さな手を、口元に運ぶ。
短くて丸い親指に、吸いつくために、口を開ける。
ちゅっちゅと親指を吸うイワンは、存外可愛らしかった。
フランソワーズや、ハインリヒ辺りが見えれば、歯並びが悪くなるとでも言って、慌てて止めそうだなと思って、構わずに、ジェロニモは、自分もゆっくりと目を閉じた。
森の風は気持ちよく、ふたりでそのまま、うたたねをしてしまいそうだった。
親指を吸う音が、いつの間にか消え、眠ってしまったのだろうかと、薄目を開けた時、イワンの"声"が聞こえた。
-----キミノテヲ、カシテ。
自分の親指は、もう外して、イワンが、頭の上のジェロニモの掌に、手を伸ばしてくる。
素直に手をそちらへやると、イワンの小さな白い手が、ジェロニモの、大きくて太い親指を、自分の方へ引き寄せた。
ぎゅっと握って、それから、遠慮もなく大きな口を開けると、そこに、ジェロニモの親指を差し入れる。
奇妙な生暖かさと、むずがゆいような柔らかさが、指を包んだ。
歯のない、まだ硬いとも柔らかいとも、見極めのつきがたい桃色の歯茎が、ジェロニモの、浅黒い膚の硬い指を、柔らかく噛む。
何か、食べる真似をしているつもりなのだろうかと、思って、ミルクでも取りに戻ろうかと思った時、イワンが、
------オナカハスイテナイヨ。
ジェロニモの心を読んだのか、口をもぐもぐと動かしながら、声を返してきた。
フランソワーズを困らせていたのが、うそのように、機嫌のいいイワンを見下ろして、こんなふうに、埒もない甘え方をしたい時もあるのだろうと、好きにさせることにした。
こんな甘え方を、フランソワーズにしないのは、フランソワーズに守られているように見えて、実のところ、イワン自身が、フランソワーズの真の保護者なのだと、自覚しているからなのだろう。
イワンには、イワン自身にしかわからない思惑がある。
今は、すっかり赤ん坊の顔で、自分の指をしゃぶるイワンを膝に乗せて、ジェロニモはまた目を閉じた。
風だけが、ふたりを見ていた。