お風呂の時間
フランソワーズが、イワンの服を脱がせて、おしめを外す。おしゃぶりは、イワンがいやがるのでそのままにして、大きなバスタオルに乗せて、ジェロニモの腕に渡す。ギルモア邸のバスルームのひとつには、イワンの入浴のために、普通よりも大きな洗面台がしつらえてあって、いつもはそこで体を洗ったり、髪を洗ったりするのだけれど、ごくまれに、仲間の誰かが、大きな普通のバスタブで、イワンと一緒に湯を浴びる。
誰かとは言っても、子どもの扱いになれていないジェットや、なぜかイワンがいやがるジョーや、忙しい張大人は、滅多とその役目を、フランソワーズから賜ることもなく、実のところ、イワンのバスタイムに付き合うのは、たいていジェロニモだった。
浅い、長い西洋式の浴槽に、ぬるめの湯をため、自分も服を脱いで、ジェロニモは、イワンと一緒に、湯の中に足を浸した。
バスタブの中できちんとおすわりをして、背中は、後ろに伸びたジェロニモの足に支えられて、イワンはごきげんに、水の表面をぱしゃぱしゃと小さな手で叩く。
ジェロニモは、水で濡らしたスポンジに、イワン用のせっけんを泡立てて、背中に大きな手を添えると、胸の前を、それで洗い始めた。
ふにふにとやわらかい肌は、少し乱暴に扱えば、赤く腫れ上がってしまいそうに見えて、仲間の中では例外的に、イワンは体のほとんどが生身のままなのだと、ふとジェロニモは思い出す。
せっけんの泡が、体をたどって湯に落ちて、ふわふわとイワンの回りをただよう。その数が、ゆっくりと増えてゆく。
足で体を支えて、イワンの小さな腕を持ち上げる。ふっくらとした二の腕や、手首や、えくぼの浮いた手の甲と、見えないほど小さな爪の乗った、細い指を、そっとつまみ上げる。そこにも、まんべんなくスポンジをすべらせて、イワンを、泡だらけにする。
イワンの小さな手では、ジェロニモの小指を握るのがせいいっぱいで、そんな小さな手を、ジェロニモは、爪のひとつひとつ、指の一本一本、それから、そっと広げて、指の間まできちんと洗う。
フワンソワーズとは、また違う意味で、イワンは扱いに気を使う存在でもある。
ジェロニモにとって、フランソワーズはまだ、人として接することのできる存在であったけれど、イワンは、ほんとうに、壊れもののようだった。
いくら仲間たちが、どれほど闘うことに秀でていようと、まとめてくれる誰かがいなければ、しょせん烏合の衆でしかなく、イワンを欠けば、戦場で困ることも多々あることは、みな思い知っている。
自分の掌に乗ってしまう、まだ人の形にすらなりきらない小さな赤ん坊が、改造された脳を持ち、存在するどの人間よりも優れた能力を持っているというのは、いまだ信じ難い。
右腕を持ち上げて、わきの下をスポンジで拭うと、くすぐったがって、イワンが身をよじった。赤ん坊らしい声を上げるのを聞いて、ジェロニモは、思わず笑う。
今度は、自分の脚の間に引き寄せて、背中と、これもまた小さな足を洗ってやる。
手の指以上に小さな爪先を、持ち上げて、顔を近づけて、イワンがくすぐったがって腕をばたばたさせるのに知らんふりをして、まだほとんど扁平な、足の裏まで洗う。
ぱちゃぱちゃと、水が音を立てて、そのたび表面に浮いたせっけんの泡が、ふたりの回りを泳ぐ。
体を洗い終わって、髪と顔を洗おうと、ジェロニモがおしゃぶりを取り上げるために手を伸ばすと、イワンがそっぽを向いた。
首を振って、ジェロニモに向かって手を伸ばして、何かと思って抱き上げようとすると、スポンジ、と声が頭の中に響いた。
---ボクガ洗ウ番。
何だと思って、イワンにスポンジを渡してやると、小さな手でしっかりと握りしめてから、またジェロニモに向かって、今度は両手を伸ばす。
今度こそ、抱いてくれという仕草だった。
胸の前に抱き上げてやると、もたもたと腕を伸ばして、まるで遊んでいるように、まだ泡の残るスポンジを、ジェロニモの大きな胸にぶつけてくる。
胸元にあごを引きつけて、イワンの仕草を見下ろして、ジェロニモは苦笑いをこぼした。
どうせ、イワンを洗い終わった後で、ひとりで湯を浴びるつもりだったから、好きにさせればいいと、わざわざ抱く高さを変えさせて、首や肩や腕や足に、スポンジをこすりつけてくるイワンを、ジェロニモは笑って眺めていた。
必死で腕を動かして、思ったより疲れるなと、まるで怒ったように顔を赤くして、イワンは、ジェロニモの爪先を形ばかりつついた後で、ようやくスポンジを水の中に落とした。
つい、声を立てて笑ってしまってから、イワンのおしゃぶりを取り上げ、バスタブのふちに置くと、ジェロニモは、これから洗う、イワンの柔らかな髪を撫でた。
せっけんの溶けた湯を流し、シャワーでもう一度体を流してから、イワンの濡れた体を、乾いたタオルで包んだ。
洗面台の上にイワンを置いて、髪の水気をていねいに拭き取り、首や腕の内側や指の間や爪先の、皮膚のやわらかな部分をしっかりと拭って、きちんと熱い湯でゆすいだおしゃぶりを、イワンの口に戻してやる。
---アリガトウ。
新しいおしめを当てて、服を着せる---その前に、ベイビーパウダーも---のは、フランソワーズの役目だ。
きれいになったイワンをフランソワーズに渡してから、ジェロニモはもう一度、ひとりで、きちんとシャワーを浴びる。
---ボクガ大人ニナッタラ、キミノ背中ヲ流セルネ。
イワンをタオルで包む手が、一瞬止まった。
イワンが大人になる頃に、自分は一体何をして、どこにいるのだろうかと、ふと考える。
どうしてか、どこかの砂漠で、動けなくなって、錆びついた装甲を、破れた人工皮膚の下に晒している、自分の姿が浮かんだ。
あるいは。
あるいは。
あるいは、イワンを抱いて、森の中を、相変わらず散歩でもしているのかもしれない。
そこに横たわったイワンと、数瞬、無言で見つめ合った。
---風邪引イチャウヨ。
そう言われて、慌ててタオルをしっかりとイワンの小さな体に巻きつけて、いつものように抱き上げた。
ふわりと腕に乗る、小さな体。永遠に近く、姿の変わらないイワンは、まるで精霊のようだと、そんんなことを思う。
そんなジェロニモの思考を読み取ったのか、おかしそうにイワンが笑った。
精霊が、自分を導いてくれる。どんな時も。
そして恐らく、イワンにも、そんな存在がいるのだろうと思う。
まだ湿ったイワンの前髪をかき上げて、ジェロニモは、親が子にそうするように、小さなキスをそこに残した。
くふんと、くすぐったそうに肩をすくめたイワンから、せっけんの匂いがした。