波打ち際

 「泳いでいると、思った。」
 砂を踏む足音に振り返ると、波打ち際から、ジェロニモがそう声をかけた。
 ピュンマは、ズボンのすそを膝近くまで折り返して、ぱちゃぱちゃと水を蹴って遊んでいて、肩越しに振り返って、子どもっぽいところを見られたなと、ちょっとだけ肩をすくめる。
 「時間が、少し遅いからね。」
 ギルモア邸からここまで、砂の上に見当たるのは、ピュンマとジェロニモの足跡だけだ。
 「フランソワーズ、呼んでる。夕食、できてる。」
 「ああ、もう上がろうと思ってたんだ。」
 膝の少し上の深さから、波打ち際へ、ゆっくりと足元を眺めながら上がってゆく。寄せては引く波が、海水につかった黒い足にまといつき、白い爪の爪先を、砂がなぶるようにくすぐってゆく。
 ジェロニモは、そこに立ってピュンマを眺めながら、何かを探すように、周囲を見渡した。
 ピュンマの足跡は、どこにも止まらずに、そのまま海の中へ入っている。それを見つけて、ジェロニモは、おや、と不思議そうな表情を浮かべて、まだ水の中に爪先をひたしたままでいるピュンマを見つめ直す。
 「靴はないよ。裸足でここまで来たんだ。」
 ジェロニモが、ちょっとだけ肩をすくめた。
 そうか、と納得しているようにも見えたし、貝殻で足裏を切るので危ないと、咎めているようにも見える。あるいは、それはただ、知らずにしてしまった仕草というだけのことかもしれなかった。
 「ああ、でも、このまま帰ると、砂を家の中に上げたって、フランソワーズに怒られるかな。」
 裏庭か、ガレージに回って、そこで足を洗うという手もあるけれど、どちらにせよ、洗い立ての、ぴかぴかのままの足裏で家の中に入るというわけには行かない。
 まあいいかと、フランソワーズの、少しとがった唇を想像して、ピュンマは苦笑して、濡れた爪先を砂の上に降ろそうとした。
 その時、ジェロニモの両腕が伸びて、ピュンマをひょいと抱き上げると、いつもイワンの揺りかごをそうしているように、小柄なピュンマの体を、重さなどないように自分の肩に乗せる。
 びっくりして、少し声を上げて、慣れない高さに、ピュンマは慌ててジェロニモの頭にしがみついた。
 肩に乗ったピュンマの、膝をしっかりと片手で押さえ、ジェロニモは前を向いて、ゆっくりと歩き出す。
 「びっくりしたなあ。別に自分で歩いたっていいんだ。」
 少しだけ、怒ったように、すねたように、言ってみる。
 ジェロニモは表情も変えず、ピュンマを支える腕の力も抜かない。
 こちらへ向かってくる、砂の上の、大きさと深さの違う足跡をたどって、今度はあちらに向かって、帰ってゆく。
 乾き始めてはいるけれど、潮の残る足で、ジェロニモを蹴ってしまわないようにしながら、ピュンマは、見慣れない風景に、首を回して目を細めた。
 「・・・キミは、こんなふうに世界を見てるんだね。」
 辺りは、ゆっくりと薄暗くなり始めていた。
 口数の少ないジェロニモが、反応など返しては来ないのを承知で、ピュンマは、ギルモア邸までの短い道のりを、まるでひとり言のように、つぶやきをこぼし続けた。
 「ほんとうは、靴はきらいなんだ。ここでは、履かないわけにはいかないけどね・・・。」
 ん、とジェロニモが、うっそりとうなずく。
 砂に深く踏み込まれる、ジェロニモの大きな革靴を遠くに見下ろして、ピュンマはくすりと笑った。
 できれば、身にまとうものが少ない方がいいと、そう思っているのはふたりとも同じだ。
 裸で、一緒にいられる時が、いちばんいい。
 口には出さずに、ピュンマはそう思った。
 「・・・戻ったら、足を先に洗わないと。」
 また、ん、とジェロニモがうなずく。
 いたずらっぽく笑って、ピュンマは、ジェロニモの頭に唇を寄せた。
 「キミが、洗ってくれるの?」
 頭に回した手の、指先で、ジェロニモの耳に触れる。
 ほんの少しうつむいてから、ジェロニモが、ん、と今度は歯切れ悪く応えた。
 ジェロニモの、奇妙な形に剃り上げられた頭皮に刻まれた、頬から繋がる白い線に口づけて、ピュンマはそこに頬ずりする。
 「・・・今夜は、一緒にシャワーを浴びようよ・・・」
 ジェロニモの視界から眺める空と海が、くれないに染まり始めていた。
 それきり応えないジェロニモの頬が、薄く染まって見えたのは、その色のせいだったのかもしれない。
 ギルモア邸が、目の前だった。

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