笑顔の後ろ

 「まったく人使いが荒いったらありゃしねえ。」
 ぶつぶつと言うグレートを、手を止めずに上目に見る。
 相槌は返さずに、磨き終わったフォークを、カウンターの傍に立っているグレートに渡す。
 張大人は、ジョーを連れて買い出しに行っている。店は、昼の休み中で、グレートとジェロニモ以外には、今は誰もいない。
 新しいの買ったアルね。全部熱湯で洗って、磨くネ!
 小さな箱にいっぱいの、まだ光り方が少し鈍い、新品のナイフとフォークとスプーン、大きさが、それぞれ大小2週類ずつ。ほいと渡された箱の重みに、思わず床によろけそうになったグレートを支えたのは、もちろんジェロニモだった。
 小ささに似合わない、その重い箱を、片手で軽々と取り上げ、グレートをもう片方の手で支えて、ついでに、文句を言いながら張大人に食って掛かろうとしたグレートを押さえる役目もして、ジェロニモは、まだ騒いでいたグレートの代わりに、そこから立ち去る張大人に、承知、とうなずいて見せた。
 「ったく、店に寄るたびに手伝わされちゃあ、たまったもんじゃねえ、なあ?」
 共同経営者とは言え、中国料理の知識はなく、料理人としてではなく、むしろ人当たりの素晴らしく良いウェイターとして、グレートはこの店に貢献しているけれど、中国料理店である以上、張大人に、どうしても最後のところで頭が上がらない。
 それでも、そんな立場を楽しんでいるのだと知っているから、ジェロニモは、グレートが何を言っても、浅くうなずくだけだった。
 ふたりで、キッチンのシンクに、なるべく熱い湯をためて---その湯の中に、手を突っ込む役目は、ジェロニモが請け負った---、じゃらじゃらとフォークたちを飛び込ませ、ひとつひとつ湯にくぐらせて、乾かす。
 それぞれ、自分たちの分を受け取って、グレートはカウンターに寄りかかり、ジェロニモは厨房の床に坐って、後はひたすら磨く。
 グレートは、他愛もないことを、ジェロニモの反応の薄さ---いつものことだ---も気にせず、一定のリズムで繰り出し続けていた。
 サイボーグになる前の、酒に溺れていた頃の昔話、優しかった女の話、ひどい目に遭った話、合間合間に、シェイクスピアの引用が長々と差し込まれ、その時だけは、低く腹から声を出すグレートに、ジェロニモはこっそりと見惚れた。
 いわゆる美しいと言われる類いの容姿では、決してない。ぎょろりとした大きな目、横に広い、唇の薄い、下手をするとひどく意地悪く見える口元、髪の毛は見事に1本もなく、ややたるんだ頬と首筋と、貧相という言葉が、これほど似合う男も珍しいと、口にはせず、思う。
 けれどその貧相な男が、ひとたび演じる場に立てば、がらりとその身を変える。
 肩も胸も厚く見え、背も高くなり、威風堂々、朗々と声を張り上げ、その、ぎょろぎょろとよく動く瞳から発せられる強い光は、見る者を引きつけて離さない。
 舞台の上には、いつも、ジェロニモの知らない、様々なグレートがいた。
 言葉で人を酔わせる術など、ジェロニモには縁がない。だから、立て板に水で、人を煙に巻き、笑わせ、騙し、そうやって、人の懐ろへ飛び込んでゆくグレートを、神のようだと、時折思う。
 珍しく、グレートとふたりきり、そうだと、表には出さずに、ジェロニモはその空間を楽しんでいた。
 よくある話を、おもしろおかしく脚色し、独特のリズムに乗せて、押して、引いて、突き放して、耳を傾ける者の反応をうかがいながら、魅了するために、瞬時に次の手に移る。
 いつの間にか、グレートの手に乗せられ、心を昂ぶらせ、流し込まれる感情を受け入れ、グレートの操る言葉のリズムに、すっかり取り込まれてしまっている。
 身を乗り出して、続きに期待して、涙の後に、笑いがやって来る。
 そうして、グレートに酔いながら、グレートが語る言葉の、その後ろにある、深く積み重なった、様々な想いのかけらに、心を馳せる。
 どれほどの苦しみを、味わってきたのだろう。どれほどの泥を、すすったのだろう。どれほどの汚濁に、飲み込まれ、流されたのだろう。
 落ち切った人間だけが、たどり着ける絶望の底で、グレートが見たものは、一体何だったのだろうか。
 笑顔を演じて、幸せを与えて、けれどその仮面の裏側で、グレートがほんとうに幸せに微笑んでいるのかは、誰も知らない。
 ジェロニモは、そんなグレートが、とても好きだった。
 「ああ、いつまで経っても終わりゃしねえ。」
 大袈裟に首を回し、肩を叩くと、グレートがため息をつく。
 「夕方までに終わらせりゃいいんだ。ジェロニモ、一休みしようぜ。」
 にいっと、横に広い唇から、大きく歯列が覗く。
 「おまえさんにはコーヒーの方がいいんだろうな。」
 手を止め、顔を上げたジェロニモの答えも聞かずに、グレートは弾むように腰のエプロンを取った。
 「休んだ休んだ。"All works no play makes Jack a dull boy(よく遊びよく学べ)"って言うだろ?」
 張大人なら、"働かざる者食うべからず"と即座に返して、グレートをやり込めてしまうのだろうなと思いながら、ジェロニモは素直に、手にしていたスプーンを、手元の箱へ戻した。
 グレートのいれたコーヒーの飲める、滅多にない機会だと、立ち上がりながら微笑んでいた。

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