生まれた日

 肩を落として、背中を丸めて、貧相な後姿を承知で、ギルモア邸の裏にある断崖に立って、煙草を吸う。
 ギルモア博士が唯一の例外の、フランソワーズによる屋内禁煙令は、こんなふうに守られている。地面に、大きなガラスのビンを埋めて、灰皿代わりにしてくれたのが、煙草を吸わないジェロニモだと言うのは、少しばかり笑える話だった。
 日が長くなって、ずいぶんと暖かくなったなと、穏やかな、夕方の海を眺めて思う。
 グレートは、吊りズボンのポケットに左手を差し入れ、胸と腹が一緒にふくれるほど深く、煙を吸い込んだ。
 夜はまだ、それでも上着がいる程度には気温が下がる。春だけれど、まだ、春の真ん中ではない。
 口元を、丸めた掌で覆うような形で、唇に煙草を差し込み、波があるとも見えない水面に、じっと視線を当てている。何かを見ているわけではなく、ただ、そこに、視線を投げているだけだった。
 ---ミンナガ待ッテルヨ、ぐれーと。
 いきなり後ろから声がして、グレートは、驚いて大袈裟に肩をすくめた。
 「なんだ、イワン、おどかすない。」
 滅多と、外に出ることのないイワンが、珍しくひとりで、宙で揺りかごに揺られ、おしゃぶりをもぐもぐと動かしながら、グレートを見下ろしている。
 何となく、手にした煙草が後ろめたくて、背中の陰に隠しながら、口元だけで、めっという顔をイワンに見せる。
 ---モウ、準備ガデキテルノニ、イナイカラ、ふらんそわーずガ心配シテルヨ。
 頭の中に響く声は、そう思い込んでいるからなのか、どこか機械の気配が混じる。目の前の赤ん坊が、普通の赤ん坊ではないのだと言うことを、改めて思い出しながら、グレートは、ふっとかすかに笑って見せた。
 「今さら誕生日なんてなあ。」
 背中に隠していた煙草を、また海の方へ振り返りながら、口元へ運ぶ。
 「年取るなんてこたあ、ずっと前になくなっちまったってのに。」
 皮肉のつもりはなかった。グレートが感じている、小さな虚しさや、もの悲しさを、イワンが読み取ってくれるだろうかと思いながら、ぼそりと言ってみる。
 ---ミンナ、一緒ニ騒ギタイダケダヨ。家族ミタイニ。
 煙を吸い込みながら、あごを上げて、喉を少し反らした。瞬きをするように、目を閉じていた。
 「家族、ね。」
 イワンに背中を向けたまま、言葉の最後を繰り返す。
 「誕生日がうれしい年でもあるまいし。ましてや、不死身のサイボーグだぜ。」
 まるで、ごく普通の人間のように振る舞おうとするのが、気恥ずかしいのではなくて、哀しいのだと、口にはしない。自分よりも年下の連中は、何かと理由をつけては、集まって騒ぐのが大好きだ。誰かの誕生日だのクリスマスだの、それは実のところ単なる口実で、そうやって、一緒に会って、時間を過ごすのが目的なのだと、皆、口にはせずに知っている。
 だから、世代も、宗教も、言葉も、人種も、すべての違いを越えて、家族のように、振る舞おうとする。
 家族どころか、ただ、偶然寄せ集められただけだと言うのに。
 それでも、もう、ほんとうの家族と会うことのかなわない9人にとっては、家族よりも何よりも、大事な仲間だったから。
 その仲間が、何がほんとうに目的かはともかく、グレートの誕生日を祝ってくれる---もう、何度目だろうか---と言うのなら、素直に喜んで、その場に、今日の主役として、役者根性を発揮するべきなのだろう。
 それでも、ほんの少し、天邪鬼になって、誕生日を祝ってもらっても、ちっともうれしくないと、決して口にはしない、小声の本音が顔を出す。
 吸い終わった煙草を、踏み消してから、地面に口だけ出して埋められたガラスのビンの中へ捨てる。
 海に向かって胸を反らして、イワンの方へ、顔だけで振り返った。
 「そういや、おまえさんの誕生日はいつだい、イワン。」
 ---知ラナイ。
 何の感情も読み取れない声が、即座に答えた。
 「知らない?」
 ---生マレタ時ノコトハ憶エテルケド、イツダッタカハ知ラナイ。
 そう淡々と答える声には、憤りも悲しみも、ない。
 「・・・そうだったっけな。」
 実の父親に脳を改造され、その父親は母親を殺し、イワンは、それきり永遠に時を止められていたのだと、つまらないことを訊いちまったなと、グレートは心の中で舌を打つ。
 髪の毛のない頭のてっぺんに掌を乗せ、もう一度海を振り返ったふりをして、もう一方の手で、腹を探った。
 どんな姿に化けようかと、考えて、浮かんだいくつかの顔を、けれど選ばずに、グレートは、自分の顔のまま、けれど精一杯の笑顔を作った。
 ---ア、張大人ガ、ぐれーとドコある!ッテ怒ッテル。
 「おっと、やばいやばい。」
 おどけて、ようやくギルモア邸の方へ足を滑り出して、グレートは、自分の目の前にふわふわと浮かぶイワンの揺りかごに、背伸びして、手をかけた。
 「来いよ。」
 揺りかごを引き下ろして、戸惑ったようにグレートの方へ振り向いたイワンを、その中から抱き上げる。
 空になった揺りかごを下げて、イワンを片手にしっかりと抱いて、グレートはギルモア邸へ向かって歩き出した。
 「ま、我らが姫君フランソワーズ嬢を毎日独り占めしてるおまえさんは、ようするに毎日が誕生日だってことさな。」
 ---ソウイウ考エ方モアルネ。
 「人生すべてバラ色、それは心の持ちよう次第ってね。」
 冗談めかして言いながら、それは、イワンにではなく、自分に言い聞かせているのだと、グレートは知っている。
 腕の中の小さな仲間の体温を、全身に吸い取りながら、誕生日という、ごく普通の日のある自分のことを、大事にしようとグレートは思った。
 なくても生きていける。何も変わらない。けれど、仲間に、そうやって集まって肩を寄せ合う口実を与えられることの幸運を、今はゆっくりと噛み締めようと思った。
 ギルモア邸の方から、グレートを呼ぶ張大人の声が、聞こえ始めていた。

戻る