キャンディー
ミルクを作って、人肌の温度を確かめて、うっかり割ってしまいそうな哺乳瓶を優しく抱えて、ゆりかごの中に眠っているイワンのところへ行く。ミルクが終わったら、おむつを替えて、もう少ししたら風呂に入れる時間だ。
ベビーパウダーが、そろそろ空になりかけているから、フランソワーズに忘れずに言っておこうと、思いながら、手の中の哺乳瓶を、意味もなく軽く握りしめる。
さてと、大きな背中を丸めて、イワンのゆりかごの中を覗き込む。
どうしてか、唇をもぐもぐと動かしているイワンを眺めて、何かが変だと思う。
床に坐り込み、もっとゆりかごへ近づいて、そうして、おしゃぶりがないのだと気づく。
---失クシテナイヨ。
イワンが、こちらの思考を読み取って、素早く頭の中に応えてくる。
なら、どこにあるんだと、視線をゆりかごの、小さな枕の辺りに迷わせているうちに、イワンの頬が、ぷっくりと丸くふくらんだ。
思わず、哺乳瓶のことを忘れて、掌に力を入れて、強く眉を寄せて、その丸くふくらんだ頬に指先を伸ばした。
イワンの頬はやわらかいけれど、その中身は、丸くて硬い。まだ歯の生えていない---これからも、いつ生えるのかは、見当もつかない---イワンの口の中に、そんな硬いものがあるはずもない。
もぐもぐと動いている唇に、そっと指先を当てて、けれど強い意志で、その間に、割り込もうとしてみる。
「口、開ける。」
---あめダヨ、じぇっとガクレタンダ。
逆らうように、むっと唇を閉じて、いやいやと首を振る。
「寝たまま、危ない。口開ける。」
赤ん坊にアメをなめさせるなんてと、珍しく本気で腹を立てそうになってから、フランソワーズとハインリヒの両方に、このことを言っておこうと、頭の隅にメモをした。
イワンが唇をとがらせてから、しぶしぶ、差し込まれた指に促されて、大きく口を開けた。
丸いつるつるになったキャンディーが、指先に当たり、それを覗き込むようにしながら、片手でイワンを抱き上げた。
膝の上に抱いて、イワンの口の中を痛めないように、そっとキャンディーをつまみ出す。
よだれが糸を引いて、去って行くキャンディーを追いかけて、イワンの舌が外へ伸びる。
イワンの舌は、濃い紫のキャンディーと、同じ色に染まっていた。
めっ、と、目だけでイワンをにらんで、濡れて、溶けて、べたべたするキャンディーをつまんだまま、さてどうしようかと思案しながら、とにかくもミルクが先だと、床の上にあぐらをかいて、その中にイワンを乗せて、頭の位置を高くしてから、片手でミルクを飲ませようとした。
---ぼくガ欲シイッテ言ッタンダ。
間違いなく、ジェットが大目玉を食らうと悟ったのか、まるでかばうように、哺乳瓶の乳首に首を振って、イワンがそう言った。
確かに、ミルクだけの食事は、退屈かもしれないと、イワンの好奇心を理解しながら、それでもうっかり喉につめたらどうする気だと、また、めっと、視線だけでイワンを叱る。
肩をすくめて、イワンはようやく、哺乳瓶の乳首に噛みついた。
よく見れば、唇の回りも、紫色に汚れている。思ったよりも長い間、このキャンディーを口の中に入れていたのかと、もし事故でも起こっていたらと、ぞっとする。
髪の毛も汚しているかもしれないから、今日は念入りに洗おうと、まだ指先につまんだままでいるキャンディーを、こっそりとにらんだ。
---モウイラナイ。
いつもの半分も飲まずに、イワンがミルクを飲むのをやめた。
---オナカイッパイ。
「もう少し。」
乳首を唇に押し当てようとすると、イワンは、もっと激しく首を振った。
中途半端に余ったミルクと、よだれでべたべたのキャンディーと、泣きたい気分になりながら、ミルクのことは諦めることにする。
ジェットが、フランソワーズとハインリヒに叱られる時は、その場にいることにしようと、心の底で誓いながら、イワンを片手で抱き上げて、ゆりかごに戻そうとした。
---あめガ欲シイナ。
「ミルク、いらない、言った。」
---みるくハイラナイケド、あめハ欲シイナ。
こんな時には、かわいらしい、ただの赤ん坊のふりをする。
---チョットダケ。
フランソワーズならきっと、ダメよ、イワン、ときっぱり叱れるのだろうか。
イワンを膝の上に戻して、そこに坐らせて、ぷっくりとした小さな唇に、乾いて、でもまだべたべたするキャンディーを、そっと押し当てた。
「ちょっとだけ。」
まるで、自分に念を押すようにそう言って、つるんと、イワンの口の中に滑り込むキャンディーの行方を確かめて、また、紫に染まったべたべたの指先をどうしようかと、ほんの一瞬思案する。
イワンの口がもごもごと動く。舌の上で転がるキャンディーの甘さが、こちらの舌にまで広がってくる。
唾液に溶けて、つるつると転がって、歯があれば、かりかりと噛み砕いてしまうこともできる、甘い甘い、小さな、口の中の異物。
自分も、ジェットと同罪だと思って、一生懸命キャンディーをなめているイワンを、見下ろしていた。
数分後、イワンは、小さな手を口元に運び、口の中から、自分でキャンディーを取り出した。
大きさは大して変わっていない、またよだれにまみれたそれを、指先でつまんで、こちらへ差し出してくる。
---アゲル。モウイラナイ。
生身の人間たちは、こうやって、子どもを育てているのだろうかと、ほんの少し肩をすくめて、べたべたのままの指先で、イワンからキャンディーを受け取ろうとした。
違う、とイワンが首を振って、伸ばした指先からキャンディーを遠去ける。
---コッチ。
あっと思う間もなく、イワンの口の中から出て来たばかりの、よだれまみれのなめかけのキャンディーが、唇に押し当てられた。
どぎつい甘みの向こうに、やわらかなミルクの匂いがした。
その匂いに誘われて、うっかり唇を開くと、イワンの小さな指ごと、キャンディーが転がり込んでくる。
噛めば、ちぎれてしまいそうな、小さなイワンの指が歯に当たり、やわらかな爪は、音さえ立てない。
その指を、音を立ててなめてから、思いもかけないプレゼント---ありがた迷惑、という言葉は、心のすみに追いやることにした---を舌に乗せて、もう、イワンを、めっとにらむことさえ忘れていた。
---甘イ?
甘いのは、キャンディーそのものよりも、ミルクの匂いの方だったけれど、それについては何も言わずに、ただ、うなずくだけにする。
イワンに、ちゃんとなめているのがわかるように、ころころとキャンディーを口の中に転がしながら、紫に染まったイワンの唇の端を、じっと見ていると、舌の上でゆっくりと溶けて、次第に小さくなってゆくキャンディーと、目の前のイワンが、どうしてか、重なって行った。
噛み砕いては、いけないような気がして、紫色のキャンディーを、形がなくなってしまうまで、しんぼうづよくなめ続ける。