猫と紳士と中国人

 店を閉めてから、厨房を片付け、掃除をして、張大人は明日の仕込みをし、グレートは、ごみを裏口に出して、こっそりと一服する。
 あまり明かりのない裏口で、ふうっと、1日の疲れを吐き出すように、煙草の煙を吐いていると、暗がりから、小さな影が足元へやってくる。
 「よぉ、今日も1日ご苦労さん。」
 まるで、人間に話しかけるように、四つ足の、ひげの長い、たいていは痩せこけた小さな体の、友達とも呼べない生きものたちに、声をかける。
 店の残飯から、猫が食べられそうなものをより分けて与え始めてから、もうずいぶんになる。猫の顔ぶれは、たいてい季節ごとに変わった。どの猫も、野良猫らしく毛並みも悪ければ、目や耳の辺りもひどく汚れている。明らかに病気の猫も見かけたけれど、グレートは、そうやって食べるものを与える以上のことは、決してしなかった。
 猫が、特に好きなわけではない。むしろ、人の友と言うなら絶対に犬だと、そう固く信じている。
 けれど、人間たちの残したものを食べて、必死に生きようとしている小さな姿は、グレートの胸を小さくつついた。
 それだってほんとうは、してはいけないことなのだろう。無駄な希望を与えているだけの偽善者なのだと、自分のことを、心のどこかで嘲笑いながら、それでも、小さないきものにきっぱりと背を向けられるほど強くもなく、こんなことでせめて、生きようとしている命が、少しでも長らえるならと、普通に死ぬことの許されない自分の境遇と、野良猫たちの短いだろう命と、どこか通じるものがあるような気がして、毎夜のその儀式が、絶えることはない。
 時折、グレートに体をすりつけてくる猫や、子猫を見せに連れて来る母親や、それでも彼らは、人の姿をしたグレートに、決して完全に心を許しているようには見えなかった。
 そこが、犬と猫の違いってヤツだ。
 煙草を吸いながら、おれの言ってることなんかわからないだろうと、思ってひとりごちてみる。
 その方が、気分が楽だと思いながら、また煙を吐き出した。


 張大人は、もちろん中国料理店の経営者として、野良猫を一切歓迎していない。
 たまに出る裏口で、野良猫の姿を見かけようものなら、中華鍋や包丁を持ち出して来かねない勢いで怒鳴り始める。
 「さっさと消えるネ! 保健所に電話するアルヨ!」
 そのうち、ほんとうに火を吹くのではないかと、張大人の怒鳴り声を聞くたびに、
 「まあまあ、落ち着けよ。戻って来たら、おれが追っ払っといてやるよ。」
 顔を真っ赤にした張大人をなだめて、中へ入れて、それから夜こっそりと、残飯をやりながら、小声で謝るのが常だった。
 「ま、あきらめてくれよ。おまえさんたちのせいじゃないけどよ、諸手を上げて歓迎ってわけにもいかんさ。おれに免じて、祟るなんてことは考えないでくれよ。」
 冗談めかして、必死にえさを食べる猫に、そう言ってみる。猫たちは、グレートの言っていることを理解しているのかどうか、えさを詰め込んで、口の回りを舐めながら、グレートを見上げて、たまにみゃあと小さく鳴いて、1匹、また1匹と、暗がりの中へ消えてゆく。
 その場をきれいに掃いて、猫たちの食べ残しのないように、しっかりと確かめてから、グレートは、影に向かってお休みと言い残して、店の中へ戻る。


 そんなわけで、熱を出して珍しく店を休んだグレートは、少し困っていた。
 猫たちが、腹を空かせているだろうし、張大人が、集まった野良猫たちを見つけて、保健所に電話してしまうかもしれない。そうされてしまったからと言って、張大人に食ってかかるようなことをする気はなかったけれど、猫がいなくなってしまったら悲しいと、グレートは、熱でうつらうつらしながら考えていた。
 だから仕方なく、こっそりジェットを呼んで、猫のことを頼むことにした。
 グレートの代わりに、店を手伝う振りをして---いや、手伝いはほんとうなのだけれど---、夜、ごみを出す時に、猫が食べられそうな残飯を、裏口の目立たない辺りに置いておいてくれと、そう頼んだ。
 張大人に見つかるなよ。
 そう一言付け加えると、ジェットは肩をすくめ、めんどくせえなと、ぶっきらぼうに吐き捨てた。
 手伝いが面倒くさいのか、猫の世話が面倒くさいのか、どちらか確かめる前に、ジェットは部屋を出て行ってしまい、グレートは、ジェットの消えたドアに向かって、ほんの少し唇をとがらせた。
 頼んだのはこっちなのだから、あまり無理を言うべきではないとわかっていて、けれど、これは重要なことなのだと、胸の中でつぶやいていた。
 「命なんだ、あんな小さくたって、ちゃんと命なんだ。」
 だから、大事にしたいんだ。
 あまりにも、粗末に扱われてしまった、自分たちの命だったから。
 熱のせいなのか、どこか気弱になっている。うっかりと露呈してしまった自分の本音に驚きながら、グレートは、うつらうつらと、熱の中で眠りに落ちて行った。


 その夜遅く、ジェットが戻って来て、ベッドに起き上がって、本を読んでいたグレート---実は、ジェットの帰りを待っていた---の傍へやって来て、またぶっきらぼうに、
 「アンタに言われた通りにして来たけど・・・」
と、妙に歯切れ悪く言った。
 「オレンジのしまのと、白黒のぶちと、グレーのと、7、8匹いるはずなんだが・・・どれか見たか?」
 猫の、1匹1匹の柄を思い出しながら、少し不安を混ぜて、グレートは聞き返した。
 「張大人が、ちゃんとエサやってたぜ。」
 え、と、目玉が落ちそうになるほど目を見開いて、グレートは思わず頭を振った。
 「張大人が、なんだって?」
 ジェットに問い返して、聞き間違いに違いないと、口をぱくぱくさせる。
 「アンタが言った通りに、キッチンきれいにしてから裏口に行ったら、張大人がいて、猫にエサやってて・・・オレが、"野良猫にうろつかれると困るんじゃないのか"って訊いたら」
 ジェットは、まるで焦らすように、そこで一度言葉を切った。
 続きを期待して、人を前のめりにさせるのは、グレートの十八番のはずなのに、今はグレートが身を乗り出して、それで、とせっかちに、ジェットに先を促していた。
 「"グレートが、可愛がってる猫だから"って。」
 唇の端が、思わず下がった。
 信じがたい。声には出さずにつぶやいて、それから、毛布の上で本を持っている両手に、視線を据えた。
 張大人らしくもないとも思えたし、実にあの男らしいとも思えた。そして、きっと知らんふりをすることが、自分らしいことなのだろうと、グレートは思った。
 口元に、薄い笑みを浮かべてジェットを見上げて、
 「明日は、店に出れそうだ。」
 「ああ、頼むぜ、あんなこき使われるのなんか、二度とごめんだ。」
 ジェットは大袈裟に肩をすくめて、報告終わり、とおどけた仕草で振り返ってから、お休みとだけ言い残して部屋を出て行った。
 知ったからと言って、何も変わらない。
 今までと同じように、こっそりとエサをやって、きれいに片付けて、お互いに、お互いのしていることには知らんふりをする。
 「かわいがってるわけじゃ、ねえけどさ。」
 鼻の頭をかいて、照れ隠しに、グレートは声に出して言ってみた。
 本を閉じて、明かりを消して、明日は店に出るために、もう眠ってしまうことにする。
 野良猫たちが、どこへ行ってたんだと、足元へ寄って来てくれるだろうかと思いながら、一度大きく瞬きをして、それから目を閉じた。

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