後片付け

 パーティーが終わった後は、ギルモア邸のあちこちが、とんでもない有様になる。
 すべてをひっくり返したような騒ぎの後、その名残りのように、散らかったあちこちで、苦笑いをまぜたため息とともに、まだ正気の残っている誰か---ジェットが酔っ払っていることについては、誰も言及しない---が、汚れた皿やグラスを、まとめてキッチンに運び始める。
 ハインリヒが、ジェットを部屋に引きずってゆき、ピュンマがグレートを抱えて消え、イワンはもちろん、フランソワーズが寝かしつけ---哺乳瓶の中のミルクに、数滴ラムを混ぜたのは、ジェットとグレートの悪戯だった---、ギルモア博士は、ジェロニモに抱きかかえられて、部屋に消えた。
 ジョーとフランソワーズを、片付けから解放して、とっとと部屋に追いやり、張大人とジェロニモは、ふたりきりで汚れた皿の山を片付け始めた。
 料理がほとんど残ってないのは、さすが張大人の腕前と言うべきなのか、残り物もない冷蔵庫はすでに空っぽで、皿を洗いながら、張大人が、もう、明日の買出しの話を始めるのを、ジェロニモは右から左に聞き流している。
 熱い湯を張ったシンクに、汚れた皿を放り込み、張大人がそれを洗う、ジェロニモが受け取って、また熱い湯でゆすぐ。水切りかごは、すぐにいっぱいになるので、カウンターの上に、大きなタオルを広げて、その上に、洗ったばかりの皿を、なるべく立てて置いておく。
 洗った食器がなかなか乾かないので、食器乾燥機か、皿洗い機が欲しいと、フランソワーズが長い間ギルモア博士に言っているのだけれど、妙なところで昔気質の彼は、そういう機械が---科学者のくせに、なのか、科学者だからこそ、なのか---今ひとつ信用できないのか、いまだ首を縦に振ってはくれない。
 ふたりは黙々と---張大人は、ひっきりなしに喋っていたけれど---、汚れた皿を片付けた。
 皿が終わると、今度は鍋やフライパンで、うんざりするほど汚れたそれを目の前にして、今日は朝から、料理の仕込みに忙しかった張大人が、ついに肩を落として、ため息をついた。
 「・・・今夜、徹夜ネ。」
 ジェロニモは、手首の上までまくっていた、シャツの袖を、ゆっくりと、さらに肘の上までめくり上げた。
 「疲れてる、寝る。おれ、やる。」
 肩を、冗談めかして、軽く押しやると、張大人が、ちょっとだけ憤慨したように腕を振り上げた。
 「後片付けも料理のウチね! 鍋も全部きれいに磨いて、ピカピカにして、全部終わり、それが料理人の正しい姿ネ!」
 そう言いながら、もう、眠気と疲れで、目がしょぼしょぼしていた。
 「助けいる、呼ぶ、横になる。」
 ジェロニモは、太い腕を、張大人の頭上にまっすぐ伸ばして、リビングの方を指差した。
 有無を言わせない、その低い声に、疲れの方が勝ったのか、張大人は背中を丸め、くるりと肩を回す。前掛けを外して、リビングの方へ向かいながら、それでも、肩越しに振り返って、一言残すのを忘れない。
 「ちょっと横になるだけネ、すぐ戻ってくるアルね。」
 ジェロニモはもう、シンクの方へ向き直って、最初のフライパンに、熱い湯を注ぎかけ始めていた。


 水を大切にするところでは、いわゆる皿を洗ってゆすぐ、ということはあまりしない。せいぜいが、洗剤を溶かしたぬるい湯の中で皿をゆすぎ、そのまま乾かすという程度だ。洗剤があって、湯があるなら、それはもちろん素晴らしいことで、食器という観念すらない場所だってある。
 水が潤沢にある場所では、水---熱い湯---は、すべてを清潔にする、限りのない魔法の液体だ。
 食器の洗い方ひとつさえ、議論の種になりかねない仲間の間では、料理を担当する張大人の、洗いものの理念に、素直に従える人間---と、サイボーグ---だけが、キッチンに入って、後片付けを手伝うことを許される。
 熱い湯に耐えられないジェットは、すぐに蹴り出された。ハインリヒとグレートは、常にゆすぎが足りない。フランソワーズは、他の用で忙しすぎる。ピュンマは、洗剤を忌み嫌っている。ジョーは手際が悪すぎた。
 物事すべて、それがそれならそれはそういうことだと、口を開かずに、まず手を動かすジェロニモが、最後に残った。
 洗いものは、繊細でありながら、力仕事でもあるし、根気もいることだから、ジェロニモにはぴったりだとも言えた。
 張大人は、口うるさく、ああしろこうしろとジェロニモに言いつけ、それをひとつ残らずきちんと飲み込んで、ジェロニモは、言われた通りに皿や鍋を洗う。
 自分の手の触れる道具ひとつびとつに、自分で手を掛けないと気のすまない張大人---プロフェッショナルとは、そういうものだ---が、こうやってジェロニモひとりをキッチンに残してゆくのも、ジェロニモの仕事を信用しているからだと、素直に思える。
 なるべく音を立てないように、けれど、張大人がいつもそうするように、鍋を洗い、きれいに熱い湯でゆすぐ。張大人が、そうあるべきと信じている通りに、使う前からそうだったように、ぴかぴかに磨く。
 時間と手間のかかることだけれど、そうすることが、いつも自分たちの胃袋を---素晴らしい喜びで---満たしてくれる料理それ自体と、それを生み出してくれる、道具たちに対する、礼であり、礼儀であると、張大人は、繰り返し言う。
 それを、張大人の思う通りに実行することは、つまり、彼に対する礼であり、礼儀だった。
 ようやく、鍋とフライパンがきれいになり、シンクの中も洗ってから、ジェロニモはやっと、濡れていた手を拭いた。
 一体何時なのだろうかと、けれど時計を探すのはやめて、そのままリビングへ行った。
 案の定、ソファに手足を投げ出して、眠っている張大人が、軽く口を開けて、小さくいびきをもらしていた。
 行儀が悪いのを承知で、ソファの前のコーヒーテーブルに、浅く腰を乗せ、膝の前に手を組んで、こっそりと、張大人の寝顔をのぞき込む。
 少しばかり、寸の足りない、丸い体躯、短い手足、丸顔の造作の、ひとつびとつを観察して、ジェロニモは薄く微笑んだ。
 左手は胸に乗り、右手は、だらりと床に届きそうになっている。
 指の短い、先の丸い、爪の小さなその手を、胸の上に置くために、そっと取り上げた。
 肉の厚い掌は、存外柔らかく、けれど闇でも見える目に、小さな傷と、軽い火傷らしい跡が、無数に見える。
 それに、ほんの少し目を細め、手と、張大人の寝顔を、ジェロニモは交互に眺めた。
 食べることは、サイボーグに許された、もう、人ではない彼らに許された、大きな歓びであり、愉しみであり、そして、人間らしさでもある。
 料理によって、サイボーグたちの人間らしさを繋ぎ止めていることを、張大人は、知っているのだろうかと、ジェロニモはふと思った。
 染めていない、素朴な布と同じ色をした膚の色の、その小さな---ジェロニモに比べれば---手を、両手ではさみ、その手が生み出してくれる、ささやかなる偉大に、心の底から感謝するために、ジェロニモは目を閉じた。
 その手を捧げ持ち、口の中で、自分の言葉で感謝を語り、ジェロニモはようやく、その手を、胸の上にそっと置いた。
 部屋に、抱いて運んだ方がいいだろうかと、一瞬思ってから、目を覚まさせたくないと思って、ソファの下から毛布を取り出すと、それをそっと、張大人の上にかけた。
 軽く盛り上がって見える、胸の上に置いた手に、毛布の上からそっと触れ、おやすみと呟いて、それから、クリスマスのことを、唐突に思う。
 中国人である張大人にも、キリスト教徒ではないジェロニモにも、まったく関係のない祝い事とは言え、世界中が様々な騒ぎを目論むその日に、張大人が、料理の腕を振るってくれないわけはなく、けれど、実はその日が、自分の誕生日なのだと言ったら、それはそれで、きちんと祝ってくれるだろうかと、そんなことを考えた。
 そうして、そんなことを思った自分に少し照れ、またうっすらと笑って、振り返り振り返り、ジェロニモはリビングを後にした。
 ギルモア邸はもう、すっかり静まり返っていた。

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