クッキー
人は、下らないことで腹を立て、そして、つまらないことで、機嫌を直す。午後のお茶に、ジェロニモが、フランソワーズを手伝ってクッキーを焼き、それを皆に振る舞っているところに、ピュンマが遅れてやって来た。
甘いものは体に良くない---サイボーグだからこそ、節制が必要なのだと、フランソワーズは信じている---という、女王陛下の信条のために、ピュンマがミルクをいれたコーヒーを一口すすった時には、たくさん焼いたわけではないクッキーは、もう数枚しか残っていなかった。
主には、クッキー・モンスターのジェットのせいだったし、グレートとハインリヒも、なかなかいい仕事をしてくれた。
ジョーが、食べすぎたりしないように、きちんと見張りながら、焼きたてのクッキーが、どんどん皿から失くなってゆくのを、フランソワーズはにこにこと眺めていた。
ジェロニモは、残った数枚を、わざわざ皿を持ち上げてピュンマに差し出し、ピュンマは、ありがとうとにっこり言って、うれしそうに1枚、口元に運ぶ。
一口かじって、それから、そうとはっきりわかるほど、形のいい眉が寄った。
残りのクッキーを、フランソワーズが、終わらせていいからと言ったにも関わらず、ピュンマは穏やかに、けれどきっぱりと辞退して、そのすきに、ジェットが伸ばした手をハインリヒが叩き、言い合いを始めたふたりの脇から、グレートが腕を変形させて、漁夫の利を狙おうとしたのに、素早く張大人が、ジェロニモから皿を取り上げ、大きく開けた口に向かって傾けたかと思うと、ざらざらと、残りのクッキーを全部食べてしまった。
「ちょっと甘すぎるアルね。今度は、ワイが中華菓子ふるまうヨ。」
むしゃむしゃと、口を動かしながらそう言って、張大人は、突き出た腹を叩いて---叩いたのは、胸のつもりだったのかもしれない---見せる。
ジェットは、思いもかけない成り行きにうろたえて、張大人につかみかかろうとしたところを、ハインリヒとグレートの、ふたりがかりに止められた。
フランソワーズが笑って、ジョーを見上げて、それを見てみんなも、声を立てて笑った。
その場では何事もなかったように見えたのに、ピュンマの不機嫌が直らず、寄った眉の間に刻んだしわが深くなるばかりで、何を訊いても、ろくな返事が返って来ない。
「どうした。」
もう、何度同じことを繰り返したのか、ベッドに坐って、本を読んでいるふりをしているピュンマの傍を離れずに、ジェロニモは辛抱強く、答えを待っていた。
ちらりと視線を投げて来ては、うるさいなと、唇が動く。それでも、声には出さないのは、構われたいからなのだと、長い付き合いで知っている。
どう思い返しても、機嫌を損ねたのは、お茶の時間にクッキーをかじった瞬間だったのだけれど、あのクッキーの、何がまずかったのだろうかと、何度考えてもわからない。
レシピはフランソワーズのものだったし、見た目も、ジェロニモの好みとは違う、いかにも繊細なものだったけれど、皆は喜んで食べてくれたと、そう思って、何が気に障ったのだろうかと、また同じことを考える。
クッキーの材料が、ピュンマの部族の宗教に反するものだったのだろうかと、そこまで思い当たって、でも、今まで一度もそんなことは言ってくれなかったじゃないかと、思わず唇がとがる。
思いつく理由のどれも、けれど恐らく当たってはいないと思いながら、ジェロニモはまた、どうしたと繰り返した。
ピュンマが、読んでいたページに指を差し込んで、大きな仕草で本を閉じた。
「キミは、ジェットとかハインリヒとかグレートのためなら、あんなに甘いクッキーを焼くんだね。」
言い捨てて、ベッドをひらりと飛び降りて、振り返りもせずに部屋を出て行く。
ベッドの傍に坐っていたジェロニモは、呆気に取られて、その背を見送ってから、両膝の間に頭を抱え込んだ。
時折気難しくなる、ひどく理屈っぽい、そのくせ感情的---情熱的、という言葉を使うには、照れがある---な、たった今去っていた大事な人のことを想って、ジェロニモは、苦笑交じりにため息をこぼした。
いつもの無表情に戻るために、20まで数を数えて、それから、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
誰もいない、深夜近くのキッチンで、テーブルに本を広げ、頑な横顔で、ページに視線を落としている。
文字など読んでいないのはわかっているから、ジェロニモは、そんなピュンマに声も掛けずに、なるべく音を立てないように気をつけながら、紅茶をいれ始めた。
夜も遅いからと、あまり濃くならないように、ミルクをたっぷりと注いでから、そんな自分の背を、ちらちらと見ているピュンマのために、今から振り向くぞと、肩を大きく動かしてから、マグを抱えて振り返る。
案の定、慌てて視線をそらし、ジェロニモのしていることになんか、全然興味はない、という振りをしているピュンマの傍に、そんなことはまったく見抜いていない、という振りをして、そっと湯気の立つマグを置く。
ちらりと、視線が斜めに見上げ、細まった目が、にらむように動く。
自分のマグもそこに置くと、ジェロニモはまた、キッチンの戸棚の方へ戻った。
カウンターに置いてある、大きなクッキー・ジャー---もちろん、主に、ジェットのため---ではなく、戸棚の中にある、陶製の、筒状のもっと小さなジャーを取り出す。蓋を締めて、ぱちんと金具をかければ、きちんと密閉されるそれを抱えて、ジェロニモは、足音を消してテーブルに戻った。
椅子に坐って、ぱちんと蓋の金具を外し、ジャーの中身がピュンマに見えるように、そちらに向かって傾ける。
中には、ジェロニモがいつも焼く、ごつごつとした、薄茶のクッキーが入っていた。
ピュンマが、ちらりとそれを見た途端、唇の端を下げて、それから、ジェロニモを見た。
ジェロニモは、にっこりと笑って、大きな手をジャーの中に差し入れると、クッキーをつまみ出し、ピュンマの口元へ運んだ。
固く閉じていた唇は、クッキーに触れて、ゆっくりと開き、あまり大きくはないクッキーは、ピュンマの口の中に、すっぽりと一口でおさまる。
ゆっくりと、ミルクをたっぷりと入れた、けれど砂糖のほとんど入っていないそれを、噛み砕く音が、静かな深夜のキッチンに響く。
まだ、不機嫌に見える表情は変わらない。けれどそこに、ばつの悪さと後悔が、薄く浮かぶ。
「明日、森行く、誘うつもりだった。」
クッキーを噛み砕くのを止め、ゆっくりと喉を鳴らしてから、ピュンマが、あごを引いた。
「ボクと?」
うなずいて見せると、むっと唇が前に突き出る。
もごもごと、口の中のクッキーのかけらを、舌先で探っているのが、頬の辺りの動きでわかる。
「・・・言えばいいじゃないか、ボクの分は、別にあるって。」
本の上に顔を落とし、紅茶をすすって、横顔だけが見えていた。
ジェロニモは、ピュンマのために焼いていたクッキーを、1枚取り出して、自分も食べた。
バターとミルクの匂いに、かすかに目を細めて、いい出来だと、自分で思う。
「キミは、いつも意地悪だ。」
言いながら、伸ばした手は、クッキーのジャーの中へ消える。
本を読む振りをやめないまま、ピュンマは、ジェロニモの方は見ずに、けれど手を伸ばして来た。
テーブルに乗ったその手に、自分の手をそっと重ねて、もう1枚、取り上げてピュンマの口元に差し出しながら、ジェロニモは、ピュンマに向かって、うっすらと微笑んで見せた。