一面のタンポポ

 張大人と出掛けた、買い物帰りの途中だった。
 草の生えた野原は、フェンスに囲まれていて、フェンスの中には小さな建物も見えて、けれどその建物は、どうやら空っぽらしかった。
 ジェロニモは助手席の窓を開けて、野原に向かって顔を出す。
 「ゆっくり。」
 ハンドルを握る張大人の手に、自分の手を重ねて、ジェロニモは外を向いたまま言った。
 「ナニあるネ?」
 張大人も、前からの車に気をつけながら、ジェロニモの視線の方へ向く。
 「花。」
 ジェロニモが短く答えたそこは、一面のタンポポが生え、元はおそらく芝生だったのだろうそこを、今は黄色に染めている。
 「たんぽぽアルね! すごいアルね!」
 張大人も、いつもに似ない無邪気な声を上げる。
 さびれた裏通りは、車も人も通りが少なく、張大人が車をフェンスの方へ少し寄せてスピードを落しても、うるさくクラクションを鳴らす誰もいない。
 誰もいなくなって、建物が空になり、そして芝生も、きちんと手入れもされないまま放り出され、本来なら雑草として駆除されるはずのタンポポが、そこで今は全盛を極めている。
 見事な、柔らかな黄色が、陽の光を浴びて輝いていた。鮮やかな緑との対比が、目にまぶしいほどだった。
 「たんぽぽ、食べられるアルよ。みんな好きか、今夜訊いてみるネ。」
 それは初耳だと、ちょっとだけ唇の端を下げて、ジェロニモは張大人の方を見る。摘み取るのは少しかわいそうだなと思ったのだけれど、わざわざ口にはしなかった。
 あんなところに咲いている限りは、誰かが踏み荒らしたり、全部刈り取ってしまったり、薬を撒いたりすることもないように思えて、けれど、誰かの食欲を満たすというのは、それはそれで悪いことではないのかもしれないと、ひとり思い直す。
 張大人なら、何か見事な料理にしてくれるのだろう。
 それでもジェロニモは、誰にも見届けられないまま、咲き誇っている一面のタンポポを、とても愛しいと思った。
 「イワンに見せたら喜ぶアルかね。」
 散歩に来るには、少し遠い。イワンを連れて来るなら、フランソワーズも一緒の方がいいだろう。
 「フランソワーズ、喜ぶ、多分。」
 「それならジョーも一緒に来るアルね。」
 「ジョー来る、ジェット来る、ジェット来る、グレート来る、グレート来る、ハインリヒ来る、ハインリヒ来る、ピュンマ来る、みんな来る。」
 まるで歌うようにジェロニモが言うと、わははと、張大人が丸い腹を揺すり上げて笑った。
 「その通りアルね! いっそのことみんな一緒に来て、ピクニックするアルよ。たんぽぽ見て、おいしいもの食べるネ。」
 車のミラーにもタンポポの野原は映らなくなって、ジェロニモはやっと窓を閉めた。
 「いい考え。」
 桜の下で、散りそうな花びらを楽しむのなら、タンポポの野原を眺めて、暖かな春風を胸いっぱいに吸い込むのも、同じくらいに楽しそうだと思えた。
 「ナニがいいアルかね、久しぶりに腕を奮うアルよ!」
 張大人は、もうピクニックのメニューを考え始めている。
 その気の早さを、ジェロニモは見せずに笑って、今は黄色いタンポポが、白い綿毛に姿を変えたところを想像していた。
 まっしろな、ふわふわとした綿毛、風に吹かれて飛んでゆく、小さな小さな種の群れ。たくましく生き延びようとする、小さな雑草の姿に、ジェロニモはこっそりと心を打たれて、胸の中に広がった暖かさを確かめるように、掌をそこに当てて、ゆっくりと息を吐き出した。
 タンポポが綿毛になる頃に、ひとりであそこへ行ってみようと、ふと思い決めながら、そっと目を閉じる。

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