深海の闇

 明かりを消すと、ふたりとも、姿が見えなくなってしまう。
 もちろん、改造で強化された目には、暗さなど関係ないのだけれど、闇の中で、素肌が、その闇色に溶け込んでしまうような相手と、こうして抱き合ったことはなかったので、初めてそうなった時、生身の目のままなら、手探りで---ほんとうに、文字通りの意味で---、相手を探さなければならないのかもしれないなと、少しばかりばかなことを考えた。
 膚の色というのは、そういうものでもあるのかと、自分の、赤銅色の腕を見下ろして、それから、黒い、見た目通りになめらかな膚に向かって、その腕をそっと伸ばした。
 どうしていいのか、今もよくはわからない。
 抱き寄せられて、抱きしめられて、されるまま、ただ、求められる通りに、波に飲まれて、漂うだけだった。
 水の中を泳ぐ、盲いた魚のようだと、その黒い膚に包まれながら、思う。
 時に、深い青の色をたたえて輝くその膚の色は、おそらく、深い海の底で見る色にも似ていて、深海で、目を失くしてしまった、醜い形の魚が自分なのだと、思うこともある。
 彼がゆける、あの深い海の底へ、たどり着いたことはない。
 水の中を、自由に動き回る彼を、どこか感動めいた、そんな心持ちで眺めて、人にはそれぞれ、分というものがあるのだと、知っているから、羨望も、嫉妬もなく、ただ、泳ぐ彼を、美しいと思う。サイボーグになってしまった今も---むしろ、改造されてしまったからこそ---、人の分というものについての考えは、変わらない。
 これはこれ、それはそれ、それでいいのだと、そう思って、海の中の闇に、その青みがかった黒い膚を溶け込ませて、泳ぎ回る彼を見る。
 その傍に、並べないことを、ほんの少しだけ残念だと思いながら、それでも、彼だけに許された、彼ひとりの世界を乱すことは、してはいけないことのような気がして、するしないの選択以前に、できないことを、ありがたいとも思う。
 盲いた魚は、深海そのもののような、その黒い膚に、傷をつけないように用心しながら、大きな腕を回して、傷だらけの自分の膚は、きっと触り心地も、良くはないのだろうと思いながら、触れ合っている胸を、こっそりと体を引いて、離そうとしてみる。
 途端に、耳に、厚い唇が触れて、闇に、そこだけ白い歯列が、痛いほどそこを、強く噛んだ。
 「だめだよ・・・」
 からかうように、けれど責める口調で、声が流れ込んできた。
 厚く盛り上がった胸に、指の長い手が触れる。岩のような---比喩では、決してなく---体を、撫でて、まるでその内側に眠る、柔らかくあふれる何かを、探り当てようかとするかのように、ひどくたくみに動いてゆく。
 盲いた魚は、不様に、進んでゆく方角もわからないまま、水の流れに誘われるまま、右に左に揺れながら、起こる小さな渦に巻かれ、時折、呼吸を求めて、小さくあえいだ。
 深海には、砂の底があって、そこに、ふわりと平たい体を横たえると、舞い上がった砂が、きらきら光りながら、周囲をくるりと覆った。
 ぱたぱたと動かしていた尾を、静かに止め、まぶたのない目は、閉じられることもないまま、けれど見えないまま、闇はまた、黒く静かに、ささやかな営みを、こっそりと繰り返し始める。
 深海の、その闇に、全身を包まれて、そうして、体の外側にも内側にも、暖かく流れ込んでくる生きていることのあかしを、全身を反り返して、すべて受け止めようとしてみる。
 海を泳ぐ彼は、こんなふうに、包み込まれているのだと、声を耐えて、思う。
 たどり着くことのない深海に、今、身を漂わせている。
 深海の闇色の膚に包まれ、こすり合わせるそこから、柔らかな暖かさを生み出しながら、これがもしかして、命の始まりなのだろうかと、ふと思った。
 深海の闇に包まれ、そこに溶け込もうとするのは、赤みがかった、大地の色をした膚だった。
 海と大地が、どこかで、繋がろうとしている。
 命を生み出すためではないけれど、けれど、命を繋ぎ合うためのように。
 精霊たちの声が、どこかから聞こえた。
 大地から祈りの声が、海からは、歌う声が。
 不意に、目の上に、掌がかぶさった。
 闇よりも、一際濃い闇が視界を塞いで、それから、その掌越しに、息の音が、ささやいた。
 「・・・ボクだけ、見ててよ。」
 指が開き、視界が、細く開いた。
 目の前に、濡れて揺れる、ふたつの目があった。
 闇を切り裂くほど、青々と白く、黒々とその中に浮かぶ、ふたつの目。そして唇は、うっすらと笑いの形に吊り上げられ、動く舌が、かすかに見えた。
 「ボクだけ、見てればいいんだ。他のことは、関係ないよ。」
 ゆっくりと、手が離れてゆく。
 目を閉じないまま、まるで見据えるように、間に遮るもののない空間で、ふたりは、真っ直ぐに見つめ合った。
 「そのまま・・・ボクを、見てて。」
 声が、奇妙な力を込めて、闇の中に響いた。
 盲いた魚がまた、どこかへ、ゆっくりと泳ぎ去ってゆく。
 闇に消える、その動く尾を見送って、一度目を細め、求められたままに、真っ直ぐに当てた視線を、そらさずに、今聞こえるのは、互いの息づかいだけだった。
 浮き上がる体を、抱き止められたと思った時、ジェロニモと、名前を呼ばれた。
 抱き返す腕に、思わず力を込めながら、闇の中で、しっかりと目は、見開いたままだった。

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