ドーナッツ

 長い仕事の1日が終わって、みな寝静まっているはずのギルモア邸に帰ると、キッチンに明かりがついていた。
 遅くなった自分ひとりのために、わざわざ明かりを残しておいてくれたのかと、思って中を覗いたら、ピュンマがひとり、キッチンのテーブルに坐っている。
 「お帰り、遅かったね。」
 うれしいような、照れくさいような、それから、少しの戸惑いを混ぜて、浮かべるべき表情に困った後で、ようやくピュンマに向かって、笑って見せることができた。
 ジェロニモは、ピュンマとテーブルの角を囲むように、静かに椅子に腰を下ろすと、ただいまと、小さな声で言った。
 「かまわないなら、お茶でもいれるよ。」
 そう言いながら、テーブルの上の大皿に向かってあごをしゃくる。そこには、大きな箱が乗っていて、外側の写真から察するに、中身はドーナッツらしかった。
 「ジョーとジェットが山ほど買ってきたんだ。グレートとハインリヒが吐きそうになってたけどね。」
 思い出したように、くすくすと笑って、それから、ジェロニモの肩に手を置いて、ピュンマはゆっくりと立ち上がる。
 「・・・ひとつだけ、もらう。」
 「ボクは、お茶だけにしようかな。」
 疲れていて、そう言えば、何か甘いものでも食べたいと、かすかに思っていたことに気づいて、ジェロニモは、ピュンマがお茶をいれているのに振り返ってから、珍しく行儀悪く、ドーナッツの箱を開けて、中を覗き込んだ。
 チョコレートのかかった、ココア色のドーナッツ。車のタイヤのような形の、ハチミツ色のドーナッツ。キツネ色の、ただのドーナッツ。ふわふわとやわらかそうな、まん丸の、上にたっぷりと白いクリームのかかったドーナッツ。どれも、泣きたくなるほど甘いことだけは、確かだろうと思えた。
 最初に目を引かれたのは、ココア色の、チョコレートがけのドーナッツだったけれど、ピュンマに似ていると、一瞬思って、手を伸ばしかけてから、その甘さには耐えられそうにないなと、現実的なことを思って、指先を方向転換した。
 ピュンマが、ひどく優しげな笑みを浮かべたままで、紅茶のマグを運んで来た。
 それに、上目に礼を送って、ジェロニモは、無難に何もかかっていない、ただのドーナッツをつまみ上げる。
 一口、二口、見た目よりもしっとりとした生地が、舌の上に乗る。甘さが、疲れを溶かして、いっそう眠気を誘う。
 口の中に残るその甘さを流すために、砂糖は入れない、ミルクだけの紅茶を飲んで、それから、手の中に残っていたドーナッツも、すぐに終わらせてしまった。
 もうひとつ、という気分ではなく、もう一度、ありがとうと、ピュンマに向かって口に出してから、ジェロニモは、大きなマグから紅茶をすする。
 ギルモア邸は、静まり返っていて、ここで物音を立てるにははばかりがあったから、早く紅茶を飲み終わって、部屋に引っ込まなければと思いながら、自分の方を見つめて、ひどく優しい顔をしているピュンマから、ジェロニモは目が離せなかった。
 夕食の後に、グレートに付き合って、酒でも飲んだのだろうかと、あるはずもないことを思ってみる。酒の匂いもしなければ、顔も赤いわけではない。酔っているというわけではなさそうだったけれど、どうしてか、ひどく和んだ表情を浮かべて、ピュンマも、ジェロニモから目を離さない。
 ピュンマが、ゆっくりと手を伸ばして、ジェロニモの指先をつかんだ。
 それから、指を持ったまま、ドーナッツの箱に手を入れて、選ぶような視線をそこに投げて、ジェロニモの目の前に、チョコレートがけの、ココア色のドーナッツを取り上げる。
 ピュンマの指につままれると、ドーナッツのココア色は、見事にピュンマの肌色に溶け、そのドーナッツと同じほど、ピュンマの膚も甘いのだと、ふと錯覚しそうになる。
 ジェロニモの指を引き寄せて、ピュンマは、薄く笑ったまま、ジェロニモの右の薬指に、そのドーナッツをするりと通した。
 いくらジェロニモの指が太いとは言え、ドーナッツのリングは少々大きすぎ、けれどだからこそ、その冗談は、ひどく真摯に見えた。
 戸惑いと驚きと、それから羞恥に、うっすらと血の色を刷いて、ジェロニモは、ドーナッツの指輪とピュンマを交互に見る。
 ピュンマは、自分のしでかした冗談を、自分で笑い飛ばすこともせず、優しい笑みを消さないままで、ジェロニモの指を、いっそう強く握ってくる。
 「・・・ボクらには、あんまり関係ない風習だけどね。」
 言いながら、ココア色のドーナッツを、ジェロニモの指から外した。
 ジェロニモの指に、溶けたチョコレートがうっすらと残り、それを見て、ピュンマがまた微笑む。
 すぐにベッドへ倒れ込んでしまおうと思っていたはずなのに、眠気はどこかへ、きれいさっぱり去ってしまっていた。
 チョコレートがけのドーナッツを、一口かじるピュンマの口元を見つめて、ジェロニモは、つられたようにうっすらと微笑んでいた。

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