Finding Nemo


 「ほんとは、映画館で、大きな画面で見るのが、いちばんいいんだけどね。」
 そう言いながら、部屋にふたりきり、ドアをきっちり閉めてから、ピュンマが再生のボタンを押した。
 すでに、フランソワーズとジョーに付き合って、ジェットとハインリヒも一緒に---イワンは、ギルモア博士と残り、張大人とグレートは、店が忙しかった---見た映画だった。ジェロニモは背の高さのせいで、ジェットは髪の毛のせいで、映画館で、みんなとは少し離れて、後ろの方へ坐る羽目になった。
 見終わって、ギルモア邸に戻り、その夜、ピュンマが、
 「キミと、ふたりで見たいなあ。」
と、どこか、奇妙に真剣な声で言った。
 海を泳ぐ、魚の親子の物語。凄まじいほど鮮やかな海の、そして、海の中の世界の色合いが、画面からあふれ出していた。子ども向けではあったけれど、その、アニメーションで再現された色を見に行くだけでも、充分に価値があるように思えた。
 床に坐ったジェロニモの膝の間に坐り、大きな胸にもたれかかって、ピュンマは、ゆったりと体を伸ばしている。
 ジェロニモの胸の中で、体の力を抜いた様は、まるで、海の中に、ぼんやりと漂っているようだった。
 色鮮やかな、人工的に再現された海の中を、劇場で見た時よりも、ずっと小さな画面で眺めながら、ふたりは、ごく自然に呼吸を合わせていた。
 ピュンマの胸の前に、腕を回して手を組み、それ以上、床の方へずり下がってしまわないように支えて、ジェロニモは、確かに、海の中にいた。
 初めてこの映画を見た時、話の内容よりも、海の中を写した映像に見惚れ、そして、画面の中を泳ぎ回る魚たちを見ながら、ジェロニモは、ずっとピュンマのことを考えていた。
 ジェロニモの坐っている場所から、ピュンマの後姿は見えなかったけれど、そのうち、あちらから、こちらへ振り向くかもしれないと思って、画面を見ながら、ピュンマを探し続けていた。
 あふれ出る海の色に、ピュンマも目を凝らしているのか、誰も、一度も、ジェロニモの方へは振り向くことはなかった。
 物語はまったく違うけれど、ほんものの海を映した映画を、ふたりで見たことがある。
 ヨーロッパのどこか、身一つで潜水できる深さを競う男たち、人の住む地上よりも、イルカの住む海の中を選んだ男と、その男を愛した、平凡な女の、凄まじいほど美しい海の、悲しい物語だった。
 あの蒼を、今も憶えている。
 空と山と大地と森のことなら、知っているけれど、海のことは、あまりよくは知らない。ジェロニモの知っている海は、たいていは、ドルフィン号の窓から覗く、暗い海だった。
 その暗い海の中を、しなやかに泳ぐ、海の色よりも、もっと明るい黒い膚をした、ピュンマのことなら、よく知っている。
 海の中を泳ぐ、透き通る海よりも、もっと鮮やかな色をした魚たちは、ピュンマによく似ている。そんな、海の生き物を模して改造されたのだから、似ているのは当然だと思い当たって、ジェロニモは、一瞬だけ、悲しい思いをした。
 人間にさらわれた、息子を探して、大海をさまようオレンジ色の魚。家族と引き裂かれるのは、どんな時も苦痛だ。
 2度目に見ても、さらわれた息子がたどり着いた、大きな水槽の中の先住者---魚なのに、先住"者"というのは、おかしいだろうか---の"ひとり"である、黒と白の菱形の魚は、ジェロニモにハインリヒを思わせた。
 ふたりでそろって笑いながら、海の中の色たちを眺めている。
 これは、ピュンマの世界だ。
 ジェロニモの知らない、ピュンマの世界だ。
 これは、ピュンマが見ている世界だ。
 海の中は、青く、暗く、深く、激しく、厳しく、そして優しい。
 そこでピュンマに許されるのは、恐ろしいほど穏やかで、凄まじいほど静かな、孤独だった。
 その孤独の深さを、誰も知らない。深海の底で、たったひとりで、ピュンマが、何を考えているのか、ジェロニモにはわからない。訊くことはしない。語ることもしない。それは、ピュンマがたったひとりで耐えることなのだと、まるで、誰かが決めたことのように。
 孤独の横たわる底へ行けるのは、ピュンマだけだったから。それを、水圧に耐えられるように改造されたピュンマ以外の誰も、経験することは、できないから。わからないことを、わかろうとする傲慢を、仲間の誰も、持ち合わせてはいないから。
 分け合える孤独と、分け合えない孤独と、その境を見極めながら、ひっそりと、ともに生きてきた9人だったから。
 たとえ、仲間の誰よりも、ピュンマと親(ちか)しいのだとしても、その孤独を侵すことを、ジェロニモは自分に許さない。ピュンマには、ピュンマがひとりで耐えるべき、孤独の苦痛があるのだと、誰に教えられたわけでもなく、ジェロニモはとうに悟っている。
 それを、淋しいことだと、互いに思いながら、けれど、それが正しいことなのだと、ふたりは知っていた。
 海の物語は、いつも優しい。そして、いつも悲しい。ピュンマそのもののように、海はいつも、包み込むようにそこに在りながら、限りなく遠い。
 ピュンマを抱き寄せる腕に、ジェロニモは、驚かさないように、力を込めた。
 「・・・ボクがいなくなったら、キミも、あんなふうに、必死に探してくれるかい?」
 冗談めかして、ピュンマが言った。
 何も言わずに、ジェロニモはゆっくりとうなずいた。
 「キミだと、相棒はジェットになるのかな。」
 その思いつきが、よほどおかしかったのか、ピュンマが自分で笑う。
 ピュンマの腕が、胸の前から、首に回った。
 引き寄せられ、桃色の唇に近づきながら、触れる手前で、ジェロニモは言った。
 「みんなで、探す。見つかるまで、探す。」
 一呼吸、それから、唇が触れた。
 映画の中で、たくさんの魚たちがそうしたように、ふたりで、静かに、けれど固く抱き合った。
 唇が離れても、腕の力は抜かないままで、ジェロニモは、耳元に、言葉を流し込むように、ささやいた。
 「・・・ひとりでも、探す。」
 ふっと、ピュンマが力を抜く。
 体を回して、正面から、ジェロニモにのしかかってくる。
 後ろのソファに、頭を押しつけられながら、鼻先の触れ合う近さで、ピュンマが、ひどく切なそうに言った。
 「待ってるよ。ずっと。」
 頭を抱え込まれて、ピュンマの背中を抱き返しながら、海の青の反射する部屋の中で、ふたりは、音も立てずに胸を重ねた。


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