Give and Take


 外へ出る準備ができて、さて、と見回したところで、帽子が見当たらない。特に表情も変えないまま、頭をめぐらせ、最後に、どこへ置いただろうかと、思い出そうとする。
 自分の部屋を出て、リビングをのぞき、そこにも見当たらないので、ようやく、やれやれと首を振って、また廊下へ戻る。
 ゆっくりと、帽子のありかを思い出そうとしながら、ドアを開け放したままの、イワンの部屋を通り過ぎた、
 通り過ぎてから、すっと視界の端をよぎったものに見覚えがあって、光が、眩しいほどあふれた部屋---カーテンも、役には立っていない---の中に、ジェロニモはそっと足音を消して、大きな体を滑り込ませた。
 イワンの上に、ジェロニモの、大きなカーボウイハットが乗っている。つばをしっかりと握りしめて、明るさにも関わらず、イワンはすやすやと眠っていた。
 軽く肩をすくませて、ジェロニモは、そのまま部屋を出た。
 廊下に出た途端、キッチンの方から悲鳴が聞こえて来て、ジェロニモは、大きな体に似合わない、静かな、けれど素早い足取りで、そちらへ飛ぶように駆け出す。
 キッチンへ飛び込むと、張大人が、半分泣きながら、ぽたぽたと血---循環液---のたれる手を、呆然と眺めていた。
 ジェロニモに気づくと、ふと顔を上げ、いつもの少しトーンの高い、けれど今は興奮した調子で、中国語なまりのきつい英語を、ほろりほろり、血のこぼれる同じ速度で、ジェロニモに投げかけ始める。
 「・・・手、すべったネ。料理人が指切る、コレ恥ネ。」
 ジェロニモは、何も言わずに張大人に近づくと、ひょいと彼を抱え上げ、キッチンのシンクの縁に腰かけさせ、流れる水道水で、切ったその傷口を洗ってやった。
 正確には、指ではなく指の根元の、掌の上の方で、切れた皮膚は、後でギルモア博士に見てもらうとして、とりあえず、血---循環液---の流れを止める必要があった。
 おとなしく、どこかしょぼんとされるままになっている張大人の手に、ジェロニモは、首から外したスカーフを、そっと巻いてやった。
 指を折り曲げして、手が使えるかどうか、確かめている張大人を、また抱え上げて床に下ろし、血で汚れた床を、ペーパータオルで拭ってから、ジェロニモはようやく、またキッチンを出て行こうとする。
 「ありがとさんアルね。」
 まだ、少し沈んだ声で、張大人が言った。
 肩越しに振り向くと、心配そうに、手首にもう一方の手を添えている張大人に向かって、何も言わず、ただうなずいて見せる。
 今夜は、誰かが夕食を作る羽目になるなと、うっすらと思いながら、また廊下を歩いてゆく。
 玄関へ向かう途中の、本棚の多い部屋からは、大きないびきが、二重奏であふれていた。
 今度は何だと思いながら、そっとドアを開けて中をのぞくと、部屋の中央のソファに、ひとり掛けには、埋もれるようにグレートが、3人掛けには、ハインリヒが、長々と体を伸ばしてうたた寝をしている。
 グレートの椅子の、背後の大きな窓は開け放したままで、カーテンが大きく揺れていた。
 ジェロニモはまた、足音を立てずに部屋の中へ入ると、そっと部屋を横切って、まず開いたままの窓を閉め、さらにそっと、カーテンを閉じ、そのまま部屋を出ようとしてから、部屋の中央で、ふと足を止めた。
 ソファの前にある小さなテーブルに、酒のボトルとグラスを見つけ、ふたりのいびきとうたた寝の原因を、静かに悟る。
 このままだと、確実に、ふたりとも風邪を引くなと思って、それから、自分の胸元を見下ろした。
 着ていた、濃い茶色の革のベストを脱いで、そっとグレートに掛けた。
 ジェロニモの、大きなベストは、グレートの細くて薄い体を、すっぽりと覆ってしまい、少し重い、その革の下に、もぞもぞと、グレートが手足を縮めた。
 それを見守った後で、今度はハインリヒの方へ振り向き、ジェロニモは、ほんの少しの間、思いあぐねるように、また自分の胸元を見下ろしていた。
 寝息に上下する胸と、ほんの少し、赤みの差した頬を、交互に眺めてから、ジェロニモはやっと決心したように、厚地のコットンの、シャツのボタンに指をかける。
 きっちり、ジーンズのウエストに差し込んでいた裾を抜き、音を立てずにそのシャツを脱ぐと、まだ、自分の体温で暖かいそれを、ふわりとハインリヒの上に掛ける。
 毛布かと思うように、それはハインリヒの、決して小さくはない体をきちんと覆って、ついでに、床に落ちていた左手を拾い上げ、今掛けたばかりのシャツの下に、そっと入れてやる。
 部屋の中で、ふたりの眠りが妨げられなかったことを確かめてから、ジェロニモは、入ってきた時と同じ静かさで、そっと部屋を出た。
 白い、下着のタンクトップだけになってしまっていたけれど、もう、何となく投げやりに、このままでもいいような気がして---帽子は取られてしまったし、スカーフもない---、着替えることもせずにもう、そのまま玄関へ向かった。
 玄関で、靴をはこうと、それぞれ勝手な方向を向いて、並んだ靴の群れの中から、一際サイズの大きな、自分の革靴を見つけ、体をかがめて、それを取った。
 ころんと、何かが、中で転がったのが見えた。
 何だと、取り上げた靴に顔を近づけ、小さな細長い闇の中に、奇妙に色鮮やかな丸いものを見つける。
 確かめると、靴の両方に、同じようなものが、ひとつずつ入っていた。
 手を差し入れ、指先に触れたそれを、そっと取り出してみると、明らかに、絵を描いて色を塗った卵らしきものが、目の前に現れた。
 「あ、何だよ! せっかく隠したんだから、そのままにしといてくれよ!」
 後ろで、ジェットが、大声で叫んだ。
 色鮮やかな卵を手に振り返ると、そこには、ジェットとフランソワーズがいて、フランソワーズは、ほんの少し、困ったような、申し訳なさそうな表情を浮かべていた。
 「・・・ご、ごめんなさい。」
 今は、少女のように、体を小さくして、頬を染めているフランソワーズを見て、ジェロニモは思わず、うっすらと微笑んだ。
 「ジェットが、イースターエッグを作りたいって言うから・・・。」
 フランソワーズに最後まで言わせずに、ずかずかと近寄ってきたジェットが、ジェロニモの手から卵を取り上げて、ひどくうれしそうに破顔する。
 「一緒に、エッグハントやるか?」
 色を塗った卵を隠して、それを見つけるというような、キリスト教の催し事があるのを思い出して、あれは確か春先ではなかったかと思ったけれど、ジェロニモは質問はせずに、首を振って、ジェットの申し出を断った。
 ちぇっと、ジェットが軽く舌を打ち、卵だけではなく、ジェロニモの靴も取り上げてしまうと、またその中に卵を戻して、それから、へへへと笑って見せる。
 肩をすくめ、空いた片手で、細いぴったりとしたジーンズのポケットに手を入れ、
 「やるよ、卵見つけた、ごほうび。」
 開いた、大きな薄い手が、促されて差し出した、大きくて厚いジェロニモの掌の上で開いて、そこに、キャンディーを3つ乗せた。
 赤と橙と黄のそれは、卵を見つけたことよりも、むしろ、靴を使えないことへの、詫びのようにも思えた。
 つまり、その靴---ジェットに取り上げられている---は、はけないということだと、思って、聞こえないようにため息をこぼした。
 まだ、申し訳なさそうな表情のままのフランソワーズに、今度ははっきりとわかるように微笑んで見せて、ジェットには、軽くうなずいて見せてから、ジェロニモは、靴をはかないままで、玄関の外へ出た。
 きっともう、待っているだろうなと、そう思って、そちらへ体を向けた時、ジョーがそちらからやって来るのが見えた。
 散歩か何かから、戻って来たのだろうか。
 「やあ、裏庭にでも出るの?」
 肯定も否定もせず、軽くあごを、胸元に引き寄せて、あいさつの代わりにすると、ジョーが、いつもそうして浮かべている、柔らかな笑みを振り向けながら、ジェロニモの前で、ゆっくりと立ち止まる。
 「今日の夕食、何だろう。張大人が、今夜はごちそうだって言ってだんだけど。」
 ジェロニモに比べれば、半分しかなさそうな体で、ジョーが、見上げて、またにっこりと微笑んだ。手を、みぞおちの辺りに添えて、空腹のジェスチャーをする。
 何か言おうかと、思って、一瞬思いあぐねた後、ジェロニモは、ジョーの手を取って、そこに、たった今、ジェットからもらったばかりのキャンディーを3つ、ころんと乗せた。
 何が起こったか、一瞬わからず、キャンディの意味もわからず、ジョーが、笑顔を消して、ええ?と小さく声をもらした。
 一体どういうことかと、訊こうとしたジョーのわきをすり抜けて、ジェロニモはもう、振り向かずに歩き出した。
 大きな歩幅で、裏庭に回り、庭を抜けて、そこからこじんまりと広がる、小さな森の中へ入ってゆく。
 踏まれてできた道を、少し左へ反れ、木の間を分け入ってゆくと、海の傍へ出る。寝転がる程度なら充分な、その草地にはもう、先客がいた。
 坐って、海を見ていた彼が、体半分で、振り返って、微笑んだ。
 「遅かったね。」
 それから、ジェロニモの、とても外へ出掛けるふうには見えない姿を眺めて、説明を求める、いたずらっぽい笑みに、笑顔を変える。
 「どうしたの? 強盗にでも遭ったの?」
 もちろん、そんなことではないのだと、知っていて、そんなことを訊くのだとわかっているから、ジェロニモは何も言わずに、自分の足元を見下ろして、それから、靴をはかないせいで、草の緑に染まってしまった靴下を、ぽいと脱ぎ捨てた。
 裸足になって、上は、下着のタンクトップだけで、草の上で足指を動かしていると、先客が、その長くてしなやかな指先を、そっと伸ばしてくる。
 「・・・理由は後で聞くよ・・・出掛ける予定は、キャンセルなんだろう?」
 怒っている声ではなく、ピュンマはそう言って、自分の横の草を、掌で叩いて見せた。
 ジェロニモは、そこへゆっくりと足を運んで---草の冷たさが、足裏に気持ちがいい---、そっと腰を下ろした。
 「・・・今夜、一緒に、みんなに、夕食作る。」
 ピュンマが、ジェロニモの肩に頭を乗せて、腕を、背中に回した。
 日はもう、傾いて、昼間の眩しさはなく、ゆるりと、夜の気配が、海の向こう側から、忍び寄り始めていた。
 並んで、草の上に腰を下ろして、海を眺めながら、ピュンマの細い指が、そっとシャツの下に入り込んで、素肌に触れるのに、ジェロニモは逆らわない。
 「・・・冷たいね。ボクが、暖めてあげようか?」
 頬に手が触れ、あごを引き寄せられながら、唇に、また喋る息がかかる。
 「そのくらいの時間は、まだあるよね?」
 自分より、はるかに小さな体が、のしかかってくるのを、腕を伸ばして支えながら、なめらかな黒い膚に触れたくて、片腕だけを、おずおずと首に回す。
 夕食は、と、頬が触れそうな近さで、ピュンマが言った。
 「・・・キミが作ればいい。ボクは食べるだけでいいからさ。後片付けは、ちゃんと手伝うよ。」
 何か、とても意味深いことを言われているのだと、思って、聞き返す前に、唇がふさがれた。
 素足の爪先が、ピュンマの、きちんと靴をはいた足に当たる。
 思わず、残念そうに、爪先が、そこにとどまった。
 「・・・ボクも、脱ぐよ。」
 唇を重ねたままで、不自由そうに腕を伸ばして、ごそごそと靴を脱ぎ、放り投げたそれが、ごとんと、どこかで音を立てた。
 「服は、着ない方がいいね。」
 おしゃべりは、もう、それきりだった。


戻る