呵責


 「キミは、人を殺したことは、ないだろう。」
 砂の上に坐り、海を眺めている、その大きな背中に向かって、言った。
 表情は見えなかった。けれど、そんなことを言われても、穏やかな眉を、動かしてさえいないように思えた。
 「まだ、人だった頃に。」
 きれいに剃り上げられ、独特の形に、髪の残るそこには、皮膚を傷つけて、色を流し込んだ線が、首の後ろまで流れている。
 その線は、顔を真っ直ぐに下りて、口元まで落ち、頬には、さらに左右に線が伸びている。
 似たような風習はある。けれど、生まれた土地も、膚の色も、似て非なるふたりだった。
 海から視線を外さないまま、首さえ動かさず、深い声が、波の音のすき間に、聞こえた。
 「ない。」
 その声は、きっぱりとしていて、けれどどこか、己れを恥じる色も混じり、それが、神経のどこかに刺さった。
 ピュンマは、厚い、形のいい唇をねじ曲げて、見えないのを承知で、蔑みの笑みを浮かべる。
 十数えて、また、大きな背中が動かないのを見定めて、まるで、激した感情を抑えたかのような声で、喉を震わせた。
 「キミは、卑怯者だ。」
 まだ、背中も肩も、動かない。
 怒らせようとしているわけではない。どちらかと言えば、八つ当たりに近く、体と同じほど大きな優しさを持つ、浅黒い膚のこの男を、傷つけてみたいだけだった。
 優しさだけではない、彼がそう選んだゆえの卑怯さに、皆が救われている---ピュンマ自身も---のに、そうだと、わかっているのに、どうしてもそれを、責めずにはいられない。
 あえて闘わないことを、卑怯と名づける自分の方が、理不尽なのだと知っていて、ただ、意味もなく彼を傷つけるために、その大きな背中を責めている。
 黒檀のような膚と、赤い人と称される、その浅黒い膚と、それは、彼らを、白い膚から区別する。あちらと、こちら、決して、交じり合うことも、理解り合うこともないとされる---実際に、理解り合えることは、ごく稀だ---、違う色の膚。
 ただ、そう生まれてしまっただけのことだけれど、膚の色は確実に、世界を区別している。
 そのために、ピュンマは、闘うことを選び、彼は、闘わないことを選択した。
 そのことを、心のどこかで許せない---正確な表現ではないけれど---と、思っている自分がいることに、ピュンマは、随分前から気づいていた。
 黒い膚に生まれることは、闘わざるを得ないことを、意味している。常に、正当な扱いを求めることそれ自体が、闘いであることを、示している。
 それなのに、どうして、闘わずに、いられるのだろう。
 どうして、と問いながら、その答えを知っているくせに、それすらあえて語ろうとはしない彼を、卑怯だと罵る自分の下劣さに、ピュンマは吐き気を覚えながら、一度、大きく瞬きした。
 「白い人間たちを、憎んだことは、ないのか?」
 ようやく、肩がわずかに揺れ、横顔が、すくうように、こちらに向いた。
 白い人間たちが、一体誰を指しているのか、ピュンマの声に読み取ったのか、彼の瞳は、ほんの少しだけ、困惑の色を浮かべて見えた。
 憎めるはずはない。同じように、人ではなく、されてしまった仲間だから。それでも、彼らの膚は永遠に白く、その膚を、たとえそうできるとしても、黒く変えることなど、思ってもみない彼らだった。
 うなずくことも、首を振ることもないまま、彼はまた、海の方へ向き直る。
 静かに元へ戻ったその背と、海を、交互に眺めた。
 「ボクは、海が嫌いだ。」
 波の音が、ひときわ大きく響いた。
 「海を見ていると、海を越えて連れ去られた、ボクらの仲間を思い出す。膚が黒い、それだけで、家畜扱いされた、ボクらの祖先だ。」
 捕らえられ、海へ潜るために、造り直された体、何も変わってはいないのだと、思い知る。"人として"、闘って来た年月は、皮肉な形で終わり、そして今は、人ではない者として、膚の色の違いを越えた闘いを、強いられている。
 それでも、黒い膚であることを、一瞬たりとも忘れることはできず、白い"人"ではない、二重の意味で、新たな苦しみを背負ったことを、けれど仲間に語ることはない。
 彼らには、決して理解することのできないことなのだと、知っている。いくら言葉を尽くそうと、隔てられた世界の間に、橋が架かることはなく、だからこそ、こちら側にいることの苦しみを、知っているはずのその浅黒い膚が、あえて闘いを避けるその意味が、ピュンマの怒りに、火を注ぐ。
 黙して語らず、静かに佇むことの苦しさは、ピュンマにはわからない。
 叫び続け、闘い続けた、人生だったから。
 違う方法を選んだだけのことなのだと、わかっていてそれでも、彼を、理不尽に責めずにはいられない。
 闘いの中で、汚れてしまった手を見下ろして、こみ上げる罪悪感が、自分を肯定するための犠牲を、常に求めているから。
 開いた掌を見下ろして、それから、彼の背中を向こうに見ながら、ぎゅっと拳をつくった。
 まるで、別の世界に在るような、その背中の静けさに向かって、また傷つけるための言葉を吐く。
 「キミは、卑怯者だ。」
 言って、肩を回す。
 彼が振り向いたのかどうか、わからない。
 砂に、静かにかかとを埋めながら、立ち去るピュンマの眉が、自己嫌悪に深く寄った。


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