嫉妬


 誰にでも優しいというのは、つまり誰にも優しくないということだと、ピュンマは思った。
 来る者は拒まずで、求められれば、誰にでも、その大きな手を差し出す。
 胸の前で腕を組み、ほんの少し、肩を後ろに引くようにして、そっと目を細めた。
 今日は、裏庭の隅に坐り込むジェロニモの膝近くに、猫がいた。
 鳥は珍しくはない。森だけではなく、少し静かな公園へでも行けば、すぐに肩に止まってくる。うるさがりもせず、ジェロニモは、自分に集まってくる鳥たちに、ひどく穏やかな目を向ける。
 その視線が、自分に向けられるものと、同じなのかどうか、いつも見極めがつかなくて、ピュンマはほんの少し焦れた。
 自分では、微笑ましくジェロニモと、小さないきものたちを眺めていると思っていて、実のところ、気づかない間に、眉をひそめているのかもしれないとも思う。
 嫉妬というのは、そう悪い感情ではないなと、大きな、今は少し丸まった背中を見ながら、思った。
 ちりちりと、胸の裏側に、痛みともかゆみとも見極めがたい、まるで爪の先で引っかかれるような、そんな感覚がある。そんな気持ちは、あまり味わったことがなくて、思わず、取り出して、掌に乗せて、顔を近々と寄せて、観察するように、眺めてみたくなる。
 人間が嫌いというわけではもちろんなく、ただ、人以外のいきもの---そして、いきものでも、ないものにも---に、他の誰よりも優しい振る舞いをするというだけの話なのだけれど、誰にでも、何にでも優しいということは、自分にだけ、特別に優しいということではないのだと思って、またピュンマは、目を細めて、その形のいい眉を寄せた。
 ジェロニモは、じっと見ているピュンマに気づきもせず、大きな手を伸ばして、猫と遊んでいる。猫はうれしそうに、伸びてくる掌に向かって首を伸ばし、鼻先を突き出して、飽きもせずに、ジェロニモの傍を、うろうろし続けている。
 ほとんど黒に見えるほど、濃い茶色の毛並みに、黒の模様が入り、雑種の、野良猫であることは間違いなさそうだったけれど、可愛らしい猫だった。
 丸い顔に、大きな目。やせた腹に、短い足。きちんと太れば、もっと可愛らしくなるだろうと思ってから、また、ちくりと胸が痛む。
 その、痛みの所在を確かめるように、あごを胸元に引きつけ、下目に、瞳を動かして、ふうっと息を吐く。
 なるほど、と、聞こえないようにつぶやいて、ようやく、足を前に踏み出した。
 足音を消したつもりだったのに、猫は素早く気配を察して、こちらに目を動かす。誰だかわかっているジェロニモの背中は、相変わらず、少し丸まったままだ。
 猫は、警戒するように頭を低くして、肩を下げ、上目に、ピュンマの動きを追っていた。
 自分にも、触れさせてくれるだろうかと、そっと腕を伸ばした途端、さらに体を低くして、それから、まるでばねで弾みをつけたように、勢いよく跳ね、くるりと体の向きを変えて、猫は走り去る。
 ぴんと立てた尻尾は、こちらを威嚇するように、ひどくしなやかな、その俊敏さは、ピュンマには馴染み深い、草原を駆ける野生動物を思い出させた。
 野良猫も、野生の動物だと、思ってくすりと笑う。
 丸まった背中が、ゆっくりと伸びて、去ってゆく猫を見送ってから、ようやくピュンマの方へ斜めに振り向いた。
 「おどかしたかな、悪かったね。」
 伸ばしかけた腕は、まだ元に戻さないまま、憮然としているようにも見える横顔に、屈託なく見える笑顔を送る。
 また、猫が走り去った方向へ顔の位置を戻すジェロニモの、すぐ横へ立って、伸ばした腕を、そのまま首筋に当てた。
 太い首は硬く、その下に、たとえ戦車並みの装甲がなかったとしても、押しつける指先が、入り込むとは思えない。
 浅黒い、赤みがかった膚と、闇色の、自分の膚の対比に目を細めて、ピュンマは、首筋からそっと、頬へ掌を滑らせた。
 「怒ってるの? ボクが、猫を追い払ったから。」
 前を見ていた瞳が、じろりと、斜め上に動く。
 知らなければ、にらまれたのだと思うだろう、ひどく静かな、その濃い茶色の瞳を見ていた。
 瞳はすぐに、また正面に戻り、それからかすかに、首が動く。怒っていないと、その動きで示して、けれどジェロニモはまだ、そこから立ち上がる気配を見せなかった。
 猫に会えば、人が必ずそうするだろう仕草で、ジェロニモの、硬くて大きなあごを撫でる。後ろから手を回して、太い首に指先を滑らせ、ごろごろと喉を鳴らしてくれないのを、ほんの少し残念に思いながら、ピュンマは、そんな自分をこっそり笑った。
 立ち上がらないジェロニモの代わりに、自分が地面にしゃがみ込み、ピュンマは、耳元に、触れるほど近く、唇を寄せた。
 「・・・ボクより、猫の方がいい?」
 息を吹き込まれて、触れている首筋の皮膚が、かすかに波打つ。
 嫉妬したのだと、ほんの少しだけ、触れる指先に伝える。
 動揺が、皮膚の上に走った。
 「・・・比べる、できない。」
 珍しく、素早く言葉を返して、困惑が、横顔に走る。
 それを満足げに眺めてから、ピュンマはまた、唇を耳に寄せた。今度は、わざと濡れた舌先をかすめさせて、こっそりと、誘う言葉を注ぎ込む。
 そうとはっきりわかるほど、瞬時に朱が散り、ジェロニモが、溶けそうなほど赤い顔で、目を伏せた。
 抵抗ではなく、羞恥だとわかるから、そのまま逃がす気はなく、首筋に置いた手に、引き寄せるように力を込める。
 唇が、いっそう強く引き結ばれてから、また、かすかに開いた。
 「まだ・・・明るい。」
 猫にはできない芸当だと、思って、薄く微笑んで、ピュンマはゆっくりと立ち上がり始める。
 「キミが、見たいんだ。」
 首筋から手を離し、代わりに手を引くと、その方向を追うように、顔が持ち上がる。
 頬から、まだ赤みの消えないジェロニモを見下ろして、ピュンマは、逆らうなと、強く引く手に言わせた。
 ジェロニモの、大きな体が、ゆっくりと立ち上がる。
 握った手を離さないまま、前に立って歩き出すと、背中に、あの猫の、嫉妬まじりの視線を感じたような気がした。
 誰にも---猫にも---邪魔されないように、きちんとドアに鍵を掛けようと、思ってから、握った手に、強く力を込める。


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