Just a baby


 ダッコ、と朝から声がした。
 ミルクを飲み終わった後も、おしめを替えた後も、服を着替えた後も、ついでに、2回目のミルクの後で、シャワーを浴びた後も、ダッコ、とイワンは言い続けた。
 すぐに戻って来るからと、言い残してゆりかごにイワンを寝かせ、20分以内に戻らなければ、泣き出してしまう。
 ゆりかごをのぞき込むと、ダッコ、とまた腕を伸ばしてくる。
 ジェロニモは、別に腹も立てず、けれど怪訝そうに、またイワンを抱き上げる。
 別に、何か急ぎの用があるわけでもなく、イワンを抱いていて、邪魔になるわけでもなく、ジェロニモは、イワンがそう言い続ける限り、黙ってイワンを腕に抱えている。
 午後には、裏の森へ、見回りにゆく。
 何か、変わった様子はないか、知らない人間の気配はないか、滅多と、何かを見つけることなどないけれど、実のところジェロニモが気にかけているのは、けがや病気で、困っているかもしれない森の動物たちだった。
 静カダネと、イワンが言った。 
 それにうなずいて、動物たちと、そして今日はイワンのために、ゆっくりと、足音を忍ばせて歩く。
 鳥が飛び立ち、リスか何かが地面を走ってゆくたび、イワンの視線がそちらへ向く。
 興味があるともないとも、ジェロニモと同じほど、イワンも表情を変えることはない。
 空を仰いで、日差しが、イワンには強すぎるかもしれない---滅多と、外に出ることがないから---と思って、今日はここらで引き返そうかと、ジェロニモが考えた時、ばさばさと、羽のこすれる小さな音がした。
 羽ばたいている音ではなく、羽をむやみに、何かやわらかなものに叩きつけているような音だった。
 どこだと、素早く視線をめぐらせて、その時イワンが、アッチダヨと、やや左斜めの方向を指差した。
 木の根元、土の色に間違えそうな羽色の小さな鳥が、片方だけの羽を広げて、ばたばたともがいている。
 怪我をして苦しんでいる仕草だったけれど、広げた羽越しにこちらをちらちらと見るのに、様子のおかしさを見取って、ジェロニモは、そちらに向かいかけた足を咄嗟に止めた。
 ---ドウシタノ?
 しっ、とイワンに向かって静かに言ってから、背後の気配を、じっと読み取ろうとする。
 細い、空気を引っかくような音を聞き取って、ジェロニモは、そっとそちらに肩を回した。
 よく見なければわからない、そこから5歩も歩かない地面の草の上に、ひよひよと鳴いている雛鳥を見つける。
 幼い羽は、まだ飛ぶこともできず、巣から落ちて、そこでずっと鳴いて親を呼んでいたらしかった。
 そうするとと、雛を見下ろして、また背後の、あの片羽の傷ついたふりをしているのは、この雛の親鳥だろうかと、そのジェロニモの思考を読み取ったのか、イワンが急に、ふわりとジェロニモの腕から浮き上がる。
 ---巣ニ戻レル?
 ジェロニモの目の前で、おしゃぶりが、もぐもぐと動いた。
 うなずいて、ぐるりと周囲の木に視線を回す。それらしい巣は、ジェロニモなら、腕を伸ばせば届く枝の上に、すぐに見つかった。
 巣の中には、地面の雛ともそっくりの雛鳥が3羽、ひっそりと、互いの羽に、小さなくちばしを差し込み合って、丸まっている。
 ジェロニモは、両手を合わせて地面に伸ばし、落ちている雛を、そっと揃えた指の上に乗せた。
 雛鳥は、驚いてぱたぱたと逃げようとしたけれど、その上に掌を重ねて、落とさないように用心しながら、ジェロニモは巣に向かって、腕を伸ばして、背伸びをした。
 イワンが、巣の上まで浮き上がって、事の次第を見守っている。
 地面にいた雛鳥は、ころんと、無事に巣の中に戻り、そこで兄弟たちとくちばしでつつき合いを始め、それから、大きく開けたくちばしを天に向け、ぴーぴーと、盛大に鳴き始めた。
 イワンが、ゆっくりとジェロニモの腕の中に降りてくる。
 さっきまで地面にいた親鳥が、まるで雛の数を数えるように、巣の縁に立って、中をのぞき込んでいる。
 それを見届けてから、ジェロニモはそっとその場を離れた。
 ---アノ鳥ハ、怪我シテタンジャナカッタノ?
 ギルモア邸に戻る道で、イワンが訊いた。
 「違う。ケガのふり、ヒナから敵を引き離す。」
 ---自分ノ子ドモヲ守ルタメ?
 そうだ、とジェロニモがうなずくと、ふうんと言ったきり、イワンが黙り込む。
 ジェロニモのシャツの胸元に、ぐりぐりと額をすりつけて、それから、シャツの合わせ目を、ぎゅっと握り込んだ。
 そんなイワンを見下ろして、そのイワンを抱く腕に、ジェロニモは、少しだけ力を込めた。


 ギルモア邸に戻って、イワンのためにミルクを温めようとすると、イワンがそれに首を振った。
 ---ボク疲レチャッタ。
 ジェロニモのシャツに、また額をすりつけて、眠い、という仕草をする。
 2階の、イワンの部屋に連れて行って、ベビーベッドの中に下ろそうとしたジェロニモのシャツを、どうしてか握ったまま離さない。
 ベッドに寝かせても、ジェロニモのシャツを引っ張ったまま、ジェロニモが前かがみになって、ベッドの上に覆いかぶさるようにしていても、イワンは知らんふりで、そのまま寝入ってしまおうとする。
 イワンの小さな握り拳を、ジェロニモはそっとほどこうとしてみた。
 イヤイヤと、イワンが首を振って、こわれもののような指先に、いっそう力を込める。
 しばらくそのままで、イワンの髪を撫でていたけれど、一向に指が離れる様子はなく、さらに数分考えた後で、ジェロニモは、首の方からシャツのボタンを外し始めた。
 イワンの指を外さないように、細心の注意を払いながら、ボタンを全部外して、肩と腕を抜いて、イワンのすぐ傍に、まるでぬいぐるみか何かのように、脱いだシャツをそっと置く。
 イワンは、おしゃぶりを外してシャツの方へ寝返りを打つと、そこに顔を埋めて、握った手を口元へ運び、どうやら、シャツと親指を、一緒に口の中へ入れてしまったらしかった。
 ちゅっちゅと、指とシャツを吸う音が聞こえ始め、それに苦笑いをもらしてから、ジェロニモは、イワンの髪を、もう一度撫でた。
 ベビーベッドの上に体をかがめ、小さな耳の傍におやすみのキスを残して、ジェロニモは、音もさせずに部屋を出た。
 イワンの見る夢は、誰かと一緒に空を飛ぶ夢かもしれないと、思いながら、静かにドアを閉める。


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