厨房


 丸い、ぺらぺらとした皮を、そっと、大きな指先で取り上げ、さらに大きな掌に乗せる。
 白い小麦粉の振ってある、その柔らかな皮は、引っ張れば、どこまでも伸びてしまいそうに思える。
 隣りで、張々湖も同じ動作をして、自分よりも倍は背の高いジェロニモを、にっこりと振り仰ぐ。
 「皮、破れないように、気をつけるネ。」
 掌を見下ろして、張々湖にうなずいて、ジェロニモは、指先で丁寧に、広げた皮にそっと触れる。
 ふたりの目の前には、大きなアルミのボールがあって、その中には、張々湖がさっき作った餃子用の具が、いっぱいに入っている。
 脂身の多い、豚のひき肉と、みじん切りの青ねぎ、塩や、その他、ジェロニモのよく知らない調味料で味付けされたそれを、張々湖がさっきまで、額に汗を浮かべながら、両手を差し入れて、力いっぱい混ぜていた。
 張々湖は、いつも様々な中国料理を作ってくれるけれど、中でも餃子は、仲間の誰もが目を輝かす一品だった。
 「いっぱい作るネ。手伝いいるネ。」
 食べることにはやぶさかではなくても、いざ作る側になるとなれば、話は少々変わる。
 忙しい振りをして、リビングから皆が去って行った後、ジェロニモは、張々湖の買い物にも、付き合う羽目になった。
 真剣な眼差しで、材料を選ぶ張々湖の傍で、いつものように無言のまま、東洋人とネイティブ・アメリカンの、珍しい組み合わせに、人々が好奇の視線を投げるのを、あっさりと無視して---張々湖は、そんな視線にすら気づかない---、ジェロニモはむしろ、張々湖の丸い体を、自分の影にかばうように、傍にぴったりと寄り添っていた。
 そんな必要は、もちろんないのだけれど、好奇心の的になるのは、自分だけの方がいいと、どうしてかそう思う。
 早口にまくし立てる、きつい中国語なまりの英語、愛嬌も愛想も、自由自在に使い分ける、年上の中国人は、ジェロニモとは対極の位置にいて、だから、同じように口先が武器のグレートとは、口論にも見える言葉の応酬になるし、他のメンバーも、張々湖といると、いつもよりもおしゃべりの量が増える。
 だからこそジェロニモは、張々湖の傍にいると、いっそう無口になる。
 おしゃべりの張々湖が、それを気にしている風はなく、岩のように寡黙な、体の大きなジェロニモに、矢継ぎ早に言葉をかけながら、いつもと変わらず楽しそうに、手取り足取り、料理の手順を教えてくれる。
 張々湖の言う通りに、する通りに、大きな手と指先を動かして、皮の上に、具を乗せる。多すぎても少なすぎてもいけないと言われ、最初の数個は、少しだけ戸惑いながら、自分で加減を学んでゆく。
 張々湖は、慣れた仕草で、皮の半径にぐるりと水をつけ、くるりと、半分に折った皮で具を包み、重なった部分に波をつけて、きれいな形の餃子を、あっという間に作る。
 小麦粉を振った、大きな皿の上に、できた餃子を並べて、また皮を手に取る。
 ジェロニモが1つ作る間に、張々湖は3つ作る。
 そうして、ふたりで、肩---と言うなら、張々湖には踏み台が必要なのだけれど---を並べて、ボールの中の具を、少しずつ減らしてゆく。
 張々湖が作った餃子を見ながら、上の、縁の部分の波を、どうやったらきれいにできるだろうかと、ひとりで苦心しながら、ちらりと、張々湖の手元を盗み見て、自分の大きな指先が、同じように動くとはとても思えないと、こっそり結論する。
 爪の小さな、丸い指先。骨や節のまったく見えない、ふっくらとした手は、いかにも料理人のそれで、黄色人種と言われる肌の色は、今はほんものでないにせよ、沈んだ白さが、血の色を透けさせることはない。
 肌の色さえ同じ程度なら、ジェロニモの仲間にも、似たような顔立ちがあるのが、不思議だった。
 人は、どこから来たのだろうかと、仲間を見ながら、思うことがある。
 肌の色と顔立ちと、骨の形も違うのに、同じ"人"としてくくられる、その人たちは、一体どこから始まったのか、そうして、どんな理由で、こんなにも違ってしまったのかと、まれに、心の底で、ため息をこぼす。
 その違いゆえに、争いの起こる、世界だったから。
 皿が半分埋まった頃には、張々湖が作った餃子と、ジェロニモの作った餃子と、はっきりそうとわかるものの、あまり遜色もなく、ジェロニモの苦心した、皮の重なりの部分の波の形も、それなりになっていた。
 ボールの中には、まだまだ具がたくさんあって、張々湖の用意した餃子の皮も、数を心配する必要はなさそうに見えた。
 ジェロニモは相変わらず、張々湖のおしゃべりに、黙ってうなずくだけで、自分の手元を、ひどく真剣に見下ろしている。
 「・・・広範囲の停電の原因は、テロによるものではないかとの見通しが強く---」
 ふたり同時に手を止めて、後ろの方に置いてあるラジオに、耳をそばだてたのも、同時だった。
 「---市民の不安が高まっており、暴動、あるいは、特定の市民に対する暴力行為などが、懸念されております。」
 張々湖が、小さくため息をこぼした。
 「・・・ヒト、争うの、好きネ。」
 手の中にあった餃子を作り上げてから、張々湖は、シンクで手を洗うと、前掛けで濡れた手を拭いながら、ラジオの方へ行った。
 どうするのだろうかと、それを目で追っていると、張々湖は、ラジオのチューニングを変えて、穏やかなクラシックを見つけて、またジェロニモの傍へ戻ってくる。
 掌に、また新しい皮を乗せ、今度はほんの少し沈んだ横顔で、餃子作りに戻る。
 それを、数秒見つめてから、ジェロニモもまた、手を動かし始めた。
 具に入れた油のせいで、指が光る。調味料の香りに、また穏やかさを取り戻した頃、ジェロニモは、ぼそりとつぶやいた。
 「みんな、一緒、料理作る、一緒、食べる、争い、忘れる。」
 張々湖の手が、また止まる。
 ジェロニモを見上げ、ジェロニモは、また黙々と手を動かしているだけで、視線さえ合わせないままでいる。
 張々湖が、ふっと肩の力を抜いて、どこか痛々しい笑みを、うっすらと浮かべた。
 「それが、一番ネ。」
 また、皮を取って、そこに具を乗せる。くるりと皮を巻いて、包んで、きれいな半円に形を整え、薄く伸びた皮の向こうに、豚肉と緑の濃いねぎが、透けて見える。
 色違いの手が、白い餃子を、黙々と作る。


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