最後の1枚


 紅茶を片手に、ふたりともそれぞれ本を読んでいて、間には、ジェロニモが焼いたクッキーの皿があった。
 本を読みながらものを食べるのは行儀が悪いと、ふたりとも思っているのだけれど、バターを少なめにしたクッキーが、とてもよく焼けたと言うジェロニモに、ピュンマが顔を輝かせて、本を触る時に気をつければいいだろうと、今日だけは特別だということにした。
 そのクッキーももう、最後の1枚を残すだけになっている。紅茶は、それぞれ、小さなカップに3杯目だった。
 ピュンマは、ちらちらと、最後のクッキーを横目で見ていた。
 誰かと一緒に何かを食べている時には、ジェロニモは最後のひとつには、絶対に自分からは手を伸ばさない。ほんとうに、誰ももう欲しくないとフランソワーズ辺りが確かめてから、そうしてやっと手を伸ばす。
 だから今も、ピュンマが欲しくないと言い出すまでは、このクッキーはずっとこのままだ。
 ピュンマもジェロニモも、ものが潤沢にあるところから来たわけではなくて、手にしたものは必ず誰かと分けるという習慣が、すっかり身に染みついている。その辺りの事情に疎いジェットやジョーやフランソワーズは、妙な遠慮をするなと、そういう言い方をするけれど、正確にはそれは遠慮などではなくて、自分"たち"をとにかく生き延びようとさせる、必死さから来る行為だった。
 だから、ピュンマとジェロニモがふたりで何かを分け合うと、互いに譲り合って、どちらも先には手を着けないということになる。
 ピュンマが、最後の1枚を食べてしまっても、ジェロニモは決して怒ったりはしないし、根に持ったりもしない。欲しいなら取ってしまえばいいと、わかっていてそうできないのは、相変わらず変わることのない、分け合うべきという習慣と、どんなに些細であれ、ジェロニモの気分を害したくないという、ピュンマの思いの現れのせいだった。
 「キミが食べればいい。」
 ようやく、章の区切りがついて、本から顔を上げて、ピュンマは言った。
 無言で、皿に残った1枚きりのクッキーとピュンマを見比べてから、ジェロニモがちょっと顔を傾ける。
 ピュンマが本気で言っているのかどうか、探っている目つきだ。
 実のところ、夕食にさえ影響しないなら、もう1章読める分くらいは、お代わりが欲しいくらいだった。けれどそう言えば、これからまた新たにクッキーを焼いてくると、ジェロニモなら言いかねないから、ピュンマは一生懸命、もういらない、という表情をつくる。
 ジェロニモが、うっそりと首を振った。
 なるほど、ちゃんと読み取られている。
 本に夢中なふりをしようかなと、ちょっと迷っている間に、ジェロニモがじっとピュンマを見返してくる。
 食べてもいいと言っているのがピュンマの本心であれ、同時に、もっと欲しいというのも本音だ。どちらも汲み取りたいと思っているジェロニモが、どうしようかと考えているのがわかる。よけいなことを言ったなと、ピュンマは、見せずに苦笑を胸の中にこぼした。
 ジェロニモが、読んでいた本にきちんとしおりをはさんで、ぱたんと静かに閉じた。それから、皿に手を伸ばして、最後のクッキーをつまみ上げる。
 そのまま食べてしまうのだろうかと思っていたら、ピュンマが見ている前で、ジェロニモは、そのクッキーを丁寧に半分に割った。
 半分とは言っても、きっちり割れたわけではなくて、右手の方が小さく割れて、ジェロニモは、そのまま左手をピュンマの方に差し出した。
 迷いのないその動作に、ピュンマはちょっとだけ飲まれてから、慌てて笑顔を浮かべて、
 「ありがとう。」
 素直に、大きい方のクッキーを受け取った。
 ジェロニモは、小さい方をゆっくりと三口で食べ終わってから、また本を開く。
 ピュンマは大きい方を、ページに目を落して、しばらく手にしたままでいた。
 いつだってそうだ。手を伸ばすのはいちばん最後、手にするのはいちばん小さいもの、誰よりも---ピュンマよりも---徹底している。
 思いやりだけでは、この世が成り立たないとわかっていても、思いやりを持ち続けることが何よりも大変だからこそ、それを失くす---自分ではなく、他の誰かが、という利己主義---ことは恐ろしく、たとえどんな時であれ、人への絶対に優しさを忘れないジェロニモは、戦いの中では希望ですらある。
 ピュンマ自身が、ジェロニモのようになることはないだろう、けれど、ジェロニモのような存在が、まだあって、これからもあり続けるだろうということは、ピュンマには、少なくとも未来の暗さを打ち消す光になった。
 ジェロニモが割り分けてくれたクッキーを、ゆっくりとかじる。
 決して大袈裟に表されることのないジェロニモの優しさは、クッキーよりも甘かった。


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