孤独の碧


 切り立った、岸壁の上に、服を脱ぎ捨てて、生まれたままの姿になって、魚の姿勢になって、海の中へ飛び込んでゆく。
 ここらの海は、水が汚れていて、どんなに沖へ行っても、せいぜいが、青みがかった緑色にしか見えない。
 それでも、どんどん沖の方へ、深く潜りながら出て行って、海水の冷たさと、人気のなさに、心のどこかでほっとする。
 岸が見えなくなった辺りで、一度海面へ出て、周りに、何も見えないことを確かめてから、ざぶんと、頭から水中へ潜ってゆく。
 まとわりつく空気の泡と、重い海水と、普通の人間なら耐えることのできない水圧にも構わず、どんどん深く潜ってゆく。
 魚と、もう少し大きな、海中の生物と、濃くなる視界の色に、改造によって強化された視力を使い、様々なものを見る。
 ここらでなら、底へたどり着くことも、そう難しくはない。
 水中で、魚のように呼吸をしながら、ピュンマは、ふと、潜る体を、途中で止めた。
 海の中は、彼の世界だ。
 どこまでも深く、いつまでも長く、水とたわむれて、いずれ、まるで自身が、水そのものになってしまったかのように、感じることさえある。
 誰も、ピュンマがたどり着けるそこへ、追いかけては来れない。
 戻る必要はないのだと、ささやく声が、聞こえる時がある。
 体を浮かせ、足で水を蹴りながら、ずっと下の、海底へ続く青い闇を見つめながら、ふと、そのまま、潜って行きたくなることがある。
 海底に身を横たえて、そのまま、眠るように、瞳を閉じてしまいたい時がある。
 そうすれば、誰も、人の形をしたこの機械の体を、永遠に見つけることはない。
 水に揺られ、なぶられ、いつかこの体も、朽ち果てる刻が来るのだろうか。
 昏い海の底で、ゆらゆらと揺れながら、人でないこの体もいつか、海の藻屑と消え果てるのだろうか。
 海の碧に魅せられて、生身で、深く深く、空気も光もない世界へ、潜ってゆく人たちがいる。
 深く潜ったその先にあるのは、言葉も音もない、凄まじい孤独のように思えるのに、まるで、人の世界から逃れようとするかのように、水の中へ、限界さえ構わずに、その身を深く沈めようとする、人間たちがいる。
 海に潜ると、地上に戻る理由を探すのに、いつも苦労するんだ。
 いつかどこかで、誰かがそう言った。
 真実の言葉か、絵空事か、それはわからない。けれど、それを聞いてピュンマは、目を伏せ、うなだれるように、首を折った。
 人"でなし"にされてしまって、失ったものを思って、ふと、もう、地上に未練などないと、思う瞬間がある。深く深く潜って、水の中で、永遠の時を過ごしたいと、そう思う時がある。
 永遠は、ピュンマにとっては、文字通りの意味でしかない。
 望みもせずに与えられた、永遠は、人でなくなってしまった苦痛に、さらに悲しみを上塗りする。
 それにどうして、耐えなければならないのだろう。
 このまま、ここにいたい。
 上には、戻りたくない。
 未練など、何もない。
 そう思って、光のかすかに差す、頭上を見上げる。
 ゆらゆらと揺れる視界に、空気の泡が混じり、光の帯が幾重にも重なり、昼と夜のある、地上の様が、目の前に浮かぶ。
 何よりも、言葉を交わして、その腕を伸ばし合う、仲間がいる。
 仲間。
 同じ機械の体を持つ、人ではない、仲間たち。
 それぞれに能力を与えられ---望んだわけでは、もちろんない---、それゆえに、戦うことを、強いられた仲間たち。
 彼らは、ピュンマを必死で探すだろうか。
 この広い広い海の中で、与えられた永遠を、こんな時には感謝しながら、目を閉じて横たわる、その永遠を終わらせようとするピュンマを、あきらめずに、見つけるだろうか。
 時間だけはある、どこかにいる、だから、探し続ける。
 水を蹴る足を止め、体を、水の中に横たえた。
 しっかりを目を見開き、ふわりと浮く体を、手足を伸ばして、支える。
 ゆっくりと、まるで地上の光に導かれるように、体が、浮いてゆく。
 まだ、とどまることはできない。
 それが許される瞬間は、まだ、遠い。
 濃い、深い緑色の中で、ゆっくりと瞬きをして、明るくなる視界の中で、絶望と歓喜を、繰り返し味わう。
 ひとりきりの孤独は、まだ許されない。
 ひとりきりの孤独に、押し潰されることはない。
 仲間、とまた思った。
 ざぶりと音と立てて、伸ばした体が、水面に浮き上がる。
 眩しい光が、色の濃い瞳を突き刺した。
 顔を横に向けて、海と空の、融け交じる線を探す。
 ここでそれを見つけることはできないと知っていて、それでも、探さずにはいられない。
 いつか、空の蒼と、海の碧が、けじめもなく溶け合った、どこかの海へ行こうと思う。
 ひとりではなく、誰かと、一緒に。
 戻ろうと、ピュンマは思った。
 体の向きを変え、さらに沖の方を、数瞬凝視して、また、岸へ戻るために、大きく腕を振り上げた。


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