喪失


 いつもよりも、どんな夜よりも、他愛もない言葉や、何か思い出のようなものが、胸に、柔らかく突き刺さることがある。
 ナイフのようではなく、針のようでもなく、まるで、痛みそのものが、胸をえぐるように、何が起こったのかわからないまま、痛みの存在だけが、そこに在る。
 大きく、思わず息を吐き出した。
 酒は飲まない。煙草も吸わない。他に何か、気を紛らわせるその類いのことは、一切やらない。
 こんな時には、ふと、煙草でも吸えればいいのにと、思わなくもない。
 頭を振って、軽く笑って、ソファから、静かに立ち上がった。
 小さなリビングを出て、キッチンを抜け、裏庭のドアから、外へ出る。
 月は、ねじけたレモンの形で、満月には程遠い。
 白っぽく黄色がかったその月を見上げて、少しの間、思考の淵に落ち込んでゆく。
 何を考えるわけではない。ただ、胸の痛みを感じながら、それを和らげる術を、無駄と思いつつ、探してみるだけだった。
 大した手入れをするわけでもない裏庭は、短く草が刈られ、腰を下ろす場所だけはたくさんある。
 さくさくと草を踏み、爪先を夜露に濡らしながら、冷たい草の地面の上に、そっと腰を下ろした。
 そこから、首を伸ばして、空を見上げる。深く深く、どこまでも深く青みがかった黒い夜空に、ばらまいたような星々を眺め、心の中で、小さく数を数える。
 あの星のいくつかには、自分たちとは違う、"人の形"をした者たちがいるのだと、今は知っている。
 生と死と。喜びと悲しみと。
 形は違っても、空の上にも、人の営みがある。
 組んだ足の下に敷いた草に、大きな手で触れてみた。
 夜気に当たって、今は冷たく、夜露に湿った、細く長い草は、生き生きとして、聞こえないはずの呼吸の音さえ、聞こえてきそうだった。
 呼吸を静め、ゆっくりと瞬きを繰り返し、夜の中へ、溶け込んでゆく。
 夜の、この世界を包む空気へ、その一部となるために、呼吸を揃え、気配を探る。
 かすかな、小さないきものの動きをとらえながら、その呼吸を数え、自分も、同じいきものなのだと、気配の中へ、思いを投げる。
 そうしてふと、土には還ることのない、自分の体のことを思った。
 金属と強化プラスティックで作られた、横たわれば、腐り果てながらも、永遠に近く、形を保ったまま、吹く風に晒される、自分の体のことを思った。
 いつの間にか、かつて、自分がそこに在った、自然からは程遠い存在にされてしまった、自分のことを思った。
 それは、悲しみではなく、嬉しさのわけはもちろんなく、ただ、痛みに似た、せつなさだった。
 恋しいと、そう思う気持ちに、似ていた。
 根を下ろし、その地に同化することから遠去けられ、まるで荷物のように、あちこちに運ばれ、追われ、どこかへ属しているのだという気持ちを、根こそぎ奪われ、飼われ、去勢され、今は自ら死に急ぐ、多くの仲間たちを思う。
 絶望が、人の心を満たし、未来を信じる気を、挫いている。
 自らを痛めつけ、早死にする仲間たちを見つめながら、人でなくされ、死ぬことすらかなわない、自分の運命の皮肉を、ただ在るものとして受け入れるのに、一体、どれほど時間がかかったのだろう。
 彼らに属しながら、いまだ、精霊と語り合いながら、けれどもう、人ではなくなってしまった自分の、切り裂いても血は流れず、貫かれても砕け、弾けることのない、鉄の体が、時折、ひとのからだを恋しがる。
 死ぬからこそ、生きることが貴いのだと、素直に思うには、あまりにも死からかけ離れてしまっている己れだったから。
 恋しい。
 せつない。
 時折、夜、突然、胸が痛む。
 心までも、改造できなかった、万能と己れを信じた科学者たち---覚えている限り、白人ばかりだった---のその愚かさを嗤う気には、どうしてかなれなかった。
 彼らが愚かしいと同時に、自分もまた愚かなのだと、痛いほどわかっているから。奪われたもの、失くしたものを、あきらめきれずに、いまだ恋しがることをやめられない自分も、また愚かだと、知っているから。
 空気の中に、すっかり溶け込んでしまいながら、自分の異質さを、自然ではないものとして、拒むことのない夜の気配に、心の底で感謝する。
 失われたものの面影を、包まれた気配の中に見つけて、ふっと、思わず微笑みがもれる。
 それを手に取ることは、もう許されない。失くしてしまったのだと、以前、それを手にしていたのだと、その記憶が、胸に痛みを残す。
 せつないと、また思った。
 それでも、おまえは、おまえでしか、ありえない。
 夜が、ささやきかけてくる。
 月に見下ろされ、空気の冷たさを、体いっぱいに吸い込みながら、うっすらと微笑んだ。微笑みながら、泣いていた。


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