前夜


 今日もたっぷりとこき使われて、グレートは痛む腰を押さえながら、ようやく片付いたキッチンから顔を出す。
 張大人は、やっと、サインが閉店に変わっている表の明かりを落して、こちらを向いて、ぐるりと店の中を見渡した。
 「厨房、片付いたアルか? 明日の仕込みはどうなったアルね?」
 容赦のない声でそう訊かれると、いつだって前掛けを取り去って、いいかげんにしやがれ!と啖呵のひとつも切ってみたくなるのだけれど、給料の出所に逆らえるわけもなく、はげ頭からわく湯気を慌ててなだめながら、ひとつふたつと数を数える。とうも数える頃には、少しばかりまだ引きつった笑顔を浮かべて、へいへいと張大人の指示に従って、腰軽く動き回ることになる。我ながら名優だと、自分に皮肉を言っても仕方ないのだけれど、結局のところ、こういう性分なのだろうと、今はすっかりあきらめてもいる。
 それにしても東洋人は働き者だ。バカンスを楽しむために、仕事に苦しむ英国紳士とはえらい違いだ。
 まさか中国人と、共同経営者とは名ばかりとは言え、中国料理店を切り盛りすることになるとは、酒びたりだった頃は思いもせず、もっとも、売れない役者だった頃は、なりふり構わず働いた---まだ若くて、何だってできたから---経験が物を言って、今では凄腕ウエイターとして、口八丁手八丁、それなりに大事にされる立場にいる。
 もっとも、大事にされていると、思いもしなければ、こんな長時間重労働になんか、とても耐えられたものではない。
 グレートは、大きくため息をついて、やり残したことはないかと、もう一度厨房に戻って、中を見渡してから、ちょっと胸を反らして、ふんと鼻を鳴らした。
 完璧だ。もし文句でも言われたら、あのでっかい丸い鼻をつまみ上げてやる、そう思って、腕まくりをして、けれど前掛けはまだ外さないまま、グレートは今度こそ終わったと思いながら、店のフロアの方へ戻った。
 「終わったアルか? ゴクローさんアルね。ワテ、ちょっと厨房に用アルよ。」
 張大人が、グレートを手招きして、目の前の椅子を、まるで給仕のように手前に引く。そのテーブルには、一体いつの間に用意したのか、中国茶のポットと小さな湯のみと、皿に乗った、カスタードのパイがあった。
 「余りモノね、アンタ、片付けるヨロシ。」
 そんなものまで片付けさせる気かと、ちょっとうんざりして、けれどカスタードのパイはグレートの大好物だったから、まあいいかとすんなり懐柔されることにして、そそくさと厨房へ消えてゆく張大人の背中を見送ってから、グレートは、引かれた椅子にちょこんと腰を下ろした。
 掌に乗るくらいの大きさのパイは、卵そのままの色をしていて、ぷるぷるとしたカスタードの部分が、ほんのり甘みを帯びている。
 いい匂いだと、舌なめずりをしてから、グレートは一気に一口、パイを半分にする。
 行儀悪く、片手にパイを持って、片手で熱い中国茶を湯のみに注いで、舌の上に広がる上品な甘さを、たっぷりと味わってから、茶で流す。
 ぷはーと、まるで酒でも飲んだように、大きく息を吐き出して、労働の後のささやかな安らぎを堪能する。
 「・・・こんなことでもなきゃ、やってられっか。」
 厨房の方へ振り返って、張大人には聞こえないように、こっそりとつぶやく。
 パイはもうひとつあったから、今度はちまちまと、パイの皮の端だけ先にかじって、ゆっくりじっくり味わう。中国茶は、もう3杯目だ。
 張大人は、一体厨房で何をしているのか、別に物音がするわけでもなく、グレートは何度か、不思議に思って振り返った。
 昼間の騒めきがうそのように、店が閉まってしまえば、中は薄暗く、とても静かで、それはいつも、幕の下りた舞台を思わせた。時折、そうやって、閉店した後の店にひとり残って、淋しさをしみじみと、ひとり噛みしめることがある。その淋しさは、いつも懐かしさを含んでいて、感傷という、甘い痛みをともなう言葉を、グレートに思い出させてくれた。
 まあ、これはこれで、いいってことさな。
 目を閉じて、パイの最後の一口をゆっくりと咀嚼しながら、今日1日がまた、無事に終わったことに感謝する。
 事件もなく、平和な、昨日と同じような今日という、おそらくまた同じような1日であるだろう明日に続く日が、もうすぐ終わるのだと、思ってグレートは、軽く頭を垂れた。
 昨日と同じくらい平凡な、明日と同じほど特別な、今日という日。
 グレートは、すっかりパイをたいらげて、5杯目の茶を飲み干して、時計の針が、そろそろ日付の変わる頃に近づいていることを確かめてから、空になった皿と湯のみを重ねて、厨房へ運ぶために、テーブルから持ち上げた。
 「ん?」
 白いテーブルクロスに紛れてしまっている、白い封筒が、皿の下から姿を現す。
 表には、グレートへと、流れるような筆跡で記してあった。
 「なんだ?」
 手にした食器を元に戻して、肩越しに厨房の方へ振り返ってから、そっと封筒を取り上げて、きちんと糊づけされている封を指先で開ける。ぱりぱりと音が、空のフロアにやけに大きく響いた。
 これも真っ白なカードを、開けば現れたのは漢字の羅列、自動翻訳機がなければ、言葉だとすら認識できないだろう中国語は、明らかに張大人の手のもので、誕生日おめでとう、大事な親友へと、グレートにさえわかる、美事な字だった。
 グレートは、ぎょろりと大きな目を、さらに大きく見開いた。
 そうして、カードの他に、京劇のチケットが入っているのを見つけて、顔が全部目になるほど、もっと驚いた。
 誕生日には、ほんのちょっとだけ早いけれど、明日はどうせ、仲間みんながパーティーを開いてくれるのだ。これは、張大人からの、とても特別な贈り物なのだ。
 パーティーのために、大盤振る舞いをするのは大好きだけれど、誕生日だとかいうことには、あまり興味を示さない張大人が、こんなカードをわざわざ、しかもプレゼントつきで、とても信じがたい、明日は赤い雪が降るかもしれないと、グレートは、カードとチケットを、丁寧に封筒の中に戻しながら考える。
 「・・・こんなのなんかいいから、給料上げてくれってんだ。」
 憎まれ口を叩きながら、うっかり目が潤む。ずずっと鼻をすすり上げて、しっかりと封筒を抱えて、今月はこき使われてもあまり文句は言わないでおこうと、そう心に決めた。
 午前0時まで、あと15分ほどだった。


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