庇護 (1&3)



 ひとりで出掛けるのと、フランソワーズが言った。
 イワンは、ほんの少し驚いて、それから、もぐもぐと、おしゃぶりを動かした。
 「ヒトリデ?」
 「そう、ひとりで。」
 フランソワーズが、少し弾んだ、けれど少し淋しそうな声で、答えた。
 「たまには、ひとりになりたいの。」
 イワンは、言うべき言葉を選んで、少しの間、黙り込んだ。
 いちばん、考えられそうな原因を見つけて、それから口にしてみる。
 「ジョート、ケンカデモシタノカイ?」
 イワンを膝に抱き上げて、フランソワーズが首を振った。
 それなら、何だろうかと、また考える。
 「ボクノセワニ、ツカレタノ?」
 あまりに率直な訊き方に、フランソワーズが、鼻白んだ表情で、あごを強く胸元に引きつける。口元が、怒ったように曲がった。
 「ひどいわ、イワン。」
 赤ん坊らしからぬ仕草で、頭をかいて、イワンはちょっと目を伏せた。
 けれど、ずっと一緒にいる気安さで、ついうっかり、精神シールドを外していることの多い、フランソワーズ相手では、そうしなくても、思考の切れ端が、あちらから絶え間なく流れ込んでくる。
 その切れ端の中のどれかに、イワンにそう思いつかせるものがあったのだとは、もちろんわざわざ口にはしない。
 こちらが心が読めるのだということは、どんな相手にも、困惑と脅威しか与えないので。
 仲間たちは、そんなイワンに対して、敬意---過去には、限りなく恐怖に近いものだったけれど---を抱いて、引くべき一線を引いている。赤ん坊の見かけに惑わされて、痛い目に遭った敵を、いやと言うほど見てきたので。
 言動にさえ気をつけて、常にシールドを張っていれば、とりあえず、テレパシーで、相手の思考や心の動きが読めるだと言うことは、緊急の時にだけしか、彼らは思い出さないらしい。
 正確には恐らく、思い出さないようにしているという方が、限りなく正解に近いのだろうけれど。
 だから、その恐怖をやわらげるために、常に、庇護の必要な弱者の振りをする。
 赤ん坊の姿であることは、ある意味、ありがたいことではあった。
 都合が悪くなれば、泣いて、無力な赤ん坊であることを、彼らに思い出させれば良かった。
 イワンからすれば、あまりにも人間らしい彼らは、目の前で泣いている赤ん坊の姿の仲間を、その人間らしさゆえに、たとえイワンが、心の読める、恐ろしい超能力者であるとしても、見捨てては置けないらしい。
 実のところ、何かしらの手立てを講じれば、成長の止まっているように見えるこの体を、きちんとした成長速度にすることも、不可能ではないらしいと、イワンは知っている。
 けれど、普通の姿になった時に、果たして仲間たちが、自分を、今と同じように受け入れて、大事にしてくれるかどうか、イワン自身に自信がない。
 フランソワーズの方へ短い腕を伸ばすと、彼女は、優しい微笑みを浮かべて、いつものように、胸に抱いてくれた。
 その下が、機械だとは信じられない柔らかな胸に抱き取られ、イワンは、目を閉じた。閉じて、いつもそうするように、抱いてくれているのが、フランソワーズではなく、顔すら覚えていない、自分を生んだ母親なのだと、思い込もうとする。
 赤ん坊は、何を考えて、母親の胸に抱かれているのだろう。その手が、絶対に、自分を傷つけることはないのだと、常に護ってくれるのだと、そう信じているのだろうか。
 父親にとっては、母親はおそらく、実験体を生み出す手段に過ぎず、イワンは、学者として好き勝手に扱える、物言わぬモルモットに過ぎなかったに違いないのだと、何の感慨もなく、思う。
 事実がそうであり、結果もそうだった。
 実験体という言葉ほど、自分を的確に表す言葉もないなと、頭の中で思いながら、また、母親の面影を、手繰り寄せようとする。
 今ではもう、母親も、女性も、フランソワーズ以外には思い浮かばないほど、この腕の中に、長い間抱かれている。
 保護者である、フランソワーズに気に入られるためになのか、それとも、ただ単に、長い間一緒にいるせいだからなのか、いつの間にか、ごく自然に、フランソワーズの善悪の判断が、イワンの善悪の判断になっていた。
 フランソワーズが、こうしたいと言えばそうするし、あれはいやだと言えば同意する。まれに、イワンの知的好奇心に反する判断もあるのだけれど、自分の意思に従わない方が、仲間からは受けが良かった。
 人というのは、そういうものなのかと、仲間を気づかうフランソワーズと、フランソワーズを気づかう仲間たちを見ていて、思う。
 ただひとり、若い女性であるということと、おそらく仲間の中では、いちばん人として平凡に幸せに暮らせたに違いない彼女だったから、それぞれの過酷な運命に耐えながら、同時に、誰もが、フランソワーズの強さに、こっそりと深い敬意を抱いている。
 女性についての云々を、たとえばグレートやジェットが、とうとうと述べるのを聞きながら、生身の女性に、男として触れるのは一体どんなものかと、好奇心がまれに、頭をもたげる。それでも、それはあくまで、知的好奇心---父親と同じ、学者の精神性による、識りたいという欲求---の域を出ず、赤ん坊の姿に取り込まれたままの、強制された成熟は、ひどくアンバランスでもあるらしかった。
 ハインリヒが、いまだに、死んだ恋人のことを忘れないのも、ようするに、自分が母親のことを、忘れきれない---ろくに憶えてさえいないというのに---のと、同じことだとしか、理解できない。
 「アタシがいない間は、みんながいるから、大丈夫よ。」
 にっこりと、フランソワーズが、まるで、自分自身を説得するような口調で言った。
 「ジェットハ、ダッコガヘタダシ、ハインリヒハ、アンマリダイテクレナイシ。」
 フランソワーズにだけは言える、本音をちらりとのぞかせることにした。
 「ジェロニモハ、ホニュウビンヲワッチャウシ、チャンチャンコハ、ミルクガアツスギルシ、グレートハ、オシャベリガウルサイシ。」
 もぐもぐと動くおしゃぶりが、口から落ちそうになる。 
 「ピュンマハ、スグギロンヲフッカケルシ、ジョーハ、コモリウタガヘタダシ。」
 イワンがこんなに喋るのは、珍しいことではあった。
 「ギルモアハカセハ、スグツカレチャウシ。」
 ちょっとだけ、すねてみたいのだけなのだと、もちろん、フランソワーズにはばれている。
 やっとすべてを言い終わって、フランソワーズを見上げて、肩をすくめて見せた。
 「大丈夫よ、すぐに戻ってくるから。」
 またにっこりと、自分自身を励ますように、フランソワーズが笑った。
 それから、ふっと口元を下げ、今度は隠さずに、淋しげな、悲しげな声音で、訊いた。
 「イワンは・・・アタシがいないと、淋しい?」
 淋しいというのは、何だろうかと、一瞬考える。
 抱いてほしい、ミルクが飲みたい、おむつが気持ち悪い、外に出たい、話をしたい、イワンの欲求を、誰よりも素早く読み取って、それを満たそうとしてくれるのは、いつもフランソワーズだった。だから、フランソワーズがいなければ、様々な不自由をかこつことになるのは、目に見えている。
 その不自由を、不都合だと思うことが、淋しいということなのだろうかと思って、フランソワーズが聞きたいのは、そんなことではないのだと、感じる。
 透き通った青の瞳を見上げて、そこに浮かぶ、言葉にはできない複雑な感情を読み取って、淋しいとは、そんな表情のことなのだろうかと思った。
 何も答えないのは、フランソワーズの気持ちを傷つけるのだと知っているから、とりあえず、もぐもぐと口を動かした。
 「ウン、サビシイ。」
 口先だけなのだとわかるのか、ふっと、フランソワーズの瞳が、小さくなる。
 その瞳に、みるみるうちに、涙があふれるのを見て、イワンは、他の仲間がそうするようには、フランソワーズを抱き返せない、自分の体の小ささに、心の中で舌打ちする。
 また何か、自分の言動がフランソワーズを悲しませたのだと悟って、一瞬の動揺のすきに、フランソワーズの思考が一片、流れ込んできた。
 かわいそうに。
 かわいそうに。頭の中で繰り返して、いつかどこかで、同じ言葉を、女性の声で聞いたと思った。
 ママ。
 淋しいという言葉と、かわいそうにという台詞と、母親の、影しかないシルエットが、心のどこかで重なった。
 胸のどこかが、痛んだような気がして、フランソワーズの腕の中で、青く揺れる瞳を、頭上に見ている。
 胸の痛みについて、どこか異常はないのかと、ギルモア博士に相談することを、忘れないようにしようと思った。


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