雨 (5)



 朝から、ずっと雨が降っている。
 しとしとしとしと、やんだのかと、目を凝らさなければわからないほど、小さな水滴が、途切れることもなく、降り続けている。
 こんな雨は珍しいと、ジェロニモは、窓に掌を広げて、ずっと外を眺めている。
 じとりと空気も湿って、靴をはかない裸足の足裏も、べとついている気がする。
 ぎゅっと、床で足を滑らせて、そこに、ぬかるんだ泥道の感触がよみがえる。
 あの日も、こんな雨だった。
 子どもの骨が見つかったと、聞いたのは今朝のことだ。それ以上のことは聞かなかったけれど、その骨が誰のものか、ジェロニモにはすぐにわかった。
 雨が降っている限り、外で仕事はできない。それを口実にして、早々と牧場を後にした。
 それから、ずっと雨を眺めている。
 もう、ずいぶん昔のことだ。憶えているのは、自分だけかもしれないと思って、ジェロニモは口をつぐむ。
 幼な友達。朝から晩まで、一緒にはしゃいで、いたずらもして、いつまでもこのままだと、そう信じていた。
 忘れたことはない。いつもいつも、行方を気にかけていた。
 雨の日の夕方、外で遊ぶこともできず、けれど庭に出て、水たまりに足を突っ込んで、互いを泥だらけにして、辺りは、ようやく夜の色に暗くなり始めていた。
 また明日な。
 そう言って、いつものように、くるりと背を向けて、あちらへ走ってゆく。
 何も思わずに、見送りもせず、ジェロニモも背を向けた。
 まだ、12かそこらだった。
 まるで、雨にさらわれたように、彼はその中にかき消え、それきり、彼の姿を見た者は誰もいない。
 何が起こったのかと、大人たちも子どもたちも、ひそひそとささやき合い、気まぐれに、彼を探す手筈が整えられることはあったけれど、それが長く続くことはなかった。
 ジェロニモたちが住む場所に、白い人間たちの警察は立ち入りたがらず、ジェロニモの仲間たちも、立ち入らせたがらず、彼の家族は、全身を絞るほど嘆き悲しみながら、けれどそれ以上のことは、すっかり諦めてしまっているように、ジェロニモには見えた。
 彼は、どこへ行ってしまったのだろう。
 逃げ出したのだと、言う人がいた。こんな生活に、きっと嫌気が差したんだろう。多分、ひとりではなく、もしかすると、年上の女と。
 けれど、同じ頃に、他の誰かが姿を消したという話はなかった。
 さらわれたんだ。売られて、どこかで、金ももらえずに、こき使われてるんだよ。
 あり得そうな話だった。白い人間に連れ去られたなら、こちらからは手は届かないだろう。
 あるいは。あるいは。
 殺されたのだと、もっと小さな声で、誰かが言う。
 誰が? どうして? そんなことは誰にもわからない。
 俺たちなんざ、連中にしてみたら、野良犬以下だからな。
 酔っただみ声で、大人たちが言う。
 目障りだ、邪魔だって、それだけで充分だろうさ。
 彼が消えたことは、猫や犬が姿を消したと、同じほど些細なことのようだった。
 ジェロニモは、ひとりで、不安の中、彼の行方を思って、悲しんだ。死んでいるはずがない。そんなはずはない。きっとどこかにいる。何か理由があって、戻って来れないだけだ。
 そうに違いないと、思い込む根拠はどこにもなかったけれど、生まれた時から傍にいた誰かが、先に逝ってしまうということは、身を引きちぎられるほど、信じがたく、受け入れがたいことだった。
 探してくれ。見つけてくれ。待っていると、伝えてくれ。
 風の中に、叫ぶ。どこにいる? 何をしている? 帰って来い。早く、一刻も早く。
 会いたい。
 雨の降る日、濡れながら、空を見上げた。降り落ちてくる水滴に向かって、心の中で叫び続けた。
 さらったのか? どうして? どこへ連れて行ったんだ? 教えてくれ。
 雨は何も答えてはくれず、ただ、ジェロニモの頬を濡らし続けた。
 人々は、彼のことを忘れ、彼の家族も、増えると同じ速さで減り続けた。
 そうして、ジェロニモは、髪の毛を剃り落とし、顔に白い線を刻み、少年の日々に自ら別れを告げて、生まれ育った場所を、自らの意志で後にした。
 あの雨の日、彼も歩いたかもしれない道を歩いて、ジェロニモは、これから行く先に、彼の足跡を見つけるかもしれないと、わずかな希望を抱いて、前だけを見つめていた。
 あれから、どれほど時間が流れたのだろう。
 雨を眺めている。雨の中に、彼がいるような気がして、そこから目が離せない。
 骨だけになって、一体どれほどの間、彼はそこで、ひとりきり横たわっていたのだろう。
 どんなふうに死んだのか、殺されたのか、尋ねることはしなかった。知りたくはなかった。
 あの日、雨の中を去っていた彼の、まだ薄く小さな背中を思い出す。同じほど、自分の背中も頼りなかったのだ。
 壊さないように気をつけながら、拳をつくって、窓枠を叩いた。
 ガラスに映る顔は、怒りと悲しみをない混ぜにして、ガラスを流れる水滴は、まだ流していない涙のように、その上を伝ってゆく。
 そうして、その向こうに、彼が立っている。こちらを眺めて、動かずにいる。
 彼の、大人になった姿を想像することは、ジェロニモにはできなかった。彼は、あまりにも早く消えてしまいすぎたのだ。
 雨が、彼をさらったのだ。
 何が起こったのか、今はもう、誰にもわからない。雨だけが、知っている。多分。
 錆びつくことはあっても、腐ることのない、骨にはなれない、自分の体のことを思う。
 何もかもが、こんなにも変わってしまった。
 彼はもう、永遠にはかない少年の姿のまま、ジェロニモはもう、永遠に老いることもないまま。
 彼の骨は、白くて、乾いていて、ひどく清潔で、泥にまみれていても、彼が彼であることを失わないまま。
 失うことすら、許されないまま。
 雨の中で、彼が微笑んだ。
 やっと、地上に出れたことを、まるでうれしがっているかのように。
 唇が動いていたけれど、声は聞こえない。雨の音にまぎれているのだと思って、窓ガラスに、額をくっつけるように、彼の口元に目を凝らす。
 またな。
 あの日と同じだ。
 彼の、ひどくきゃしゃな背中が、くるりとこちらを向いて、それから、裸足のかかとを見せて、雨の中を去ってゆく。
 濡れた草を踏む足音も、ぱしゃりと髪を叩く水音も、すべてが、雨音にまぎれながら、はっきり聞こえたような気がした。
 雨の中に、彼の姿が消えてゆく。
 息を大きく吸い込んで、止めて、吐き出しながら、耐えた。
 声を上げることも、涙を流すことも。
 雨が、激しさを増す。ジェロニモは、ふらりと窓から離れ、それから、雨音に打たれたように、がくんと、頭を大きく揺らした。
 床を蹴って、体を回す。部屋を早足に横切って、引きちぎるように裏庭へ続く扉を開け、少し伸びかけた芝生の上に、両膝を折った。
 濡れた地面に拳を打ちつけ、身を震わせて、ジェロニモは声を上げて泣き出した。
 雨の中、雨に打たれて、全身を地面に叩きつけるように、体の内側を絞り上げるように、ジェロニモは泣いた。
 ジェロニモの、頬に刻んだ白い線は、誇りを示すためのものだったけれど、今はまるで、涙そのもののように見えた。
 何度も何度も、両腕を雨空に向かって振り上げ、濡れた地面に振り下ろし、雨のせいだと、心の中で叫びながら、雨にずぶ濡れになりながら、けれど空から降るのは、今は涙なのだと、自分が、雨そのものになってしまったように感じながら、ジェロニモは泣き続けていた。
 彼の姿はもう、どこにもない。
 あの日のように、かき消えた彼の気配を雨の中に探しながら、そこにはひとりきり、濡れた肩を震わせ続ける、ジェロニモがいるだけだった。


戻る