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赤い手袋

 買い物の帰り道、私有地を背の低い柵で隔てた未舗装の道の端に、赤い小さな点を見つけた。
 最初はまさか血か何かかと思ったその鮮やかな赤は、近づけば小さな子どもの手袋の片割れだと分かり、ジェロニモは思わず微笑んで、少し足を早めてその赤へ近寄って行った。
 首を折って肩をやや丸めて、自分の靴の先をただ覗き込むように、そうやって見下ろす小さな赤い手袋は、親指だけが分かれている、丸い形をしていた。
 泥と埃をかぶり、それでも赤は鮮やかなまま、一体誰がいつ落としたものか、替えがあるから、どこかで落としたと気づいた親が、わざわざ探しには来なかったのか。あるいは滅多とは来ない場所で、探しにも来れないのか。
 ジェロニモはとうとう地面に片膝を折り、体全部を赤い手袋へ近づけた。小さな小さな手袋だ。色がこんな赤でなければ、地面の色に混じって、目に止まりもしないだろう。
 冬の終わり、春の気配を、少し早く感じ取り過ぎてひとつぽつんと先に咲いてしまった花を見つけたように、いじらしさと不憫さの両方を同時に感じて、ジェロニモはその手袋をそこにそのままにしておくのに、ひどく心が咎めた。
 ついにそっと手を伸ばし、指先につまんで拾い上げる。幸いに乾いた地面から抵抗もなく持ち上がり、少し洗えば新品同様の元通りになるだろうとジェロニモは思う。
 それでも、このまま勝手に持ち帰る気にはならず、指先にたっぷり数十秒見つめた後で、ジェロニモはその手袋を、傍らの柵の上に乗せた。
 ここなら埃は浴びても泥だらけにはならない。大人の目線に近づいて、万が一持ち主の子の親が探しに来れば、多少は目に止まりやすいだろう。
 この赤い手袋のもう片方を右手──落し物の方は左手だった──にはめて、左手には別の片方だけ残った手袋をつけている、3つか4つくらいの幼児を想像して、ジェロニモはひとりその場でくすりと笑った。
 まだ手袋を見つめたまま、ふっとイワンのことを考える。あの小さな手用に、手袋でも編もうかと、唐突に思いついて、冬の散歩には帽子もいると、それも一緒に思いついた。
 同じ形で、できればフランソワーズにも。イワンを散歩に連れ出す時のために、フランソワーズにはマフラーも追加しよう。どこででも手に入るものだったけれど、元気かと尋ねるために、イワンの世話への感謝を示すために、わざわざ送るのも悪くはない考えだと、胸の中で自画自賛した。
 この手袋の主は、数ヶ月もすれば、この手袋が入らないほど成長してしまうのかもしれない。しっかり歩けるようになって、走り出せば大人も急には追いつけなくなって、背も手足も伸び、言葉の数も増えて、先週は着れたシャツの首が入らないと、親たちが楽しく愚痴を言い交わすのだ。
 出会って以来、ほとんど変化の見られないイワンの姿を思い出しながら、ジェロニモはようやく手袋から視線を引き剥がし、自分の家へ向かって再び歩き出した。
 おかげで、と口に出してしまっている。覚えている大きさで手袋を編んでも、きっと大丈夫だ。口元を、苦笑のようなただの微笑のような、かすかな笑みでゆるめて、ジェロニモは自分の足元へ視線を流す。一緒にいれば、抱いているか床に這っているか、床にいる時は、絶対に蹴らないように一緒に坐ることにしている。ほとんどジェロニモの片手に収まりそうな、イワンの小さな体。小さいままの体。あの小さな頭の中に何が詰まっているのか、知ることは恐らく不可能だ。
 季節が巡る。春の次に夏が来て、秋を迎えて冬を過ごす。その後にまたやって来る春に、人たちは少しずつ年を取って、子どもたちは伸びた手足を持て余すように、甲高い声を立てて駆けてゆく。
 けれどイワンとジェロニモと仲間たちは、その時間の流れから外れたこちら側へ佇み、幾度冬と春を迎えても、一向に変わらないまま、機械の体に時折は感謝もしながら、一体これからまたどれだけの時間を過ごすのだろう。
 イワンが、自分の足で歩けるようになるのはいつのことだろう。それとも歩けるようになっても、効率が悪いと、テレキネシスで移動し続けるのか。その頃には揺りかごも、大きく作り直さなければならないだろうか。
 少なくとも、イワンが歩き出せるようになる頃にも、自分たちは今と変わらない姿でイワンの傍にあり続けるだろう。イワンをひとりきりにはしないですむ。
 ひとりぼっちになったイワンと、あの、取り残された手袋の片方がぴったりと重なって、ジェロニモは思わず足を止め、今来た道を肩越しに振り返る。まだかすかに見える赤に目を細め、瞳を凝らし、イワンに編む手袋は、あんな風に失くしてしまったりしないように、両手分を編み紐で繋ごうと決める。イワンの、ふっくらとした赤ん坊の手。小さな小さな、爪がきちんとあることすら信じられないような、可愛らしい手。
 その手が、ぎゅっとジェロニモの、差し出した指先を握る。その感触が、確かに今あった。
 ジェロニモは歩きながら自分の手を眺めて、手袋と帽子と、フランソワーズにはマフラーもつけて、編み上がったら直に届けに行こうかと思った。冬の終わりに間に合うだろうか。ジェロニモの編んだそれを身に着けたイワンと一緒に散歩に出て、あるいは見上げる木々には、もう春の芽吹きが見えるだろうか。
 この冬に間に合わなくても、また冬はやって来る。何度冬を過ぎても、イワンはまた同じ手袋を使える。
 何色にしようか。家にある毛糸は、どんな色があったか。フランソワーズには何色がいいだろうか。
 フランソワーズに編むなら、ジョーとギルモア博士にも編まないと不公平かもしれない。それなら、張大人とグレートにも。そうしたらもう、他の仲間全部にも編んで、いっそひとりひとり届けに行こうか。
 イワンを連れて。イワンと一緒に、仲間に会いに。編んだ冬の支度を届けにと、それを口実にして、イワンと世界のあちこちを回ろうか。
 楽しい想像だった。ギルモア邸の裏庭の森や、駅までの道をゆっくりと散歩するだけではなくて、様々な町をイワンと一緒に巡る。イワンを抱いて、訪れた町のあちこちを歩く。親子には決して見えないふたりは、親子よりももっと近しい空気を抱えて、多彩な段階の冬と春の中を一緒に行ったり来たりする。あの恐ろしいほどの合理主義者は、そんなことは無駄だと、舌っ足らずなのに生意気な口調で言うだろうか。
 無駄だと言い返されるならそれでもいい。考えるだけならそれでも良かった。
 とりあえず、家に着いたら毛糸を全部出そう。それから色を決めて、ほんとうに仲間皆に編むのかどうか、じっくり考えよう
 ジェロニモの歩みは相変わらずゆっくりだった。まるで、乳母車を押しているように、わずかに背を傾け、視線を、それならイワンがいるだろう辺りへ落として、ジェロニモはひとり歩き続けている。
 赤い手袋が柵の上から姿を消したのは、それから雨の降った夜の直前の昼間だったけれど、誰が拾って行ったものか、誰も知らないままだ。

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