鱗 (85)
夕食だと呼びに行くと、珍しくピュンマは、ギルモア博士に改造された例の鱗の肌のまま、波打ち際に坐って、海の方を眺めていた。
人目のない辺りだとは言え、それでもまだ明るい時間だ。充分に肌を焼いてくれる強さを保ったままの日差しを、掌をかざしてよけながら、ジェロニモは、そこにできた小さな影の下で、声を掛ける前に、ピュンマに向かって目を細めた。
ずっと、音を立てて砂に足が埋まる。3歩進んだところで、ピュンマがこちらを振り向いた。
表情に、体を見られたという驚きはもうなく、足音でジェロニモだと気づいていたのか、ピュンマの目元には、うっすらと微笑すら浮かんでいる。
「もう、そんな時間かな・・・。」
問いという響きでもなく、ピュンマがあごを軽くのせた肩を、ほんの少しすくめる。こちらに顔だけで振り向いたピュンマの、ふっくらとした頬が、光を集めて白く輝いている。
いい眺めだと、ジェロニモは、日の眩しさにあごを引いたふりをして、じっとピュンマに目を凝らす。
ピュンマは、まだ立ち上がろうとはせずに、また海の方へ顔の位置を戻して、後ろで体を支えていた両手で、今度は胸の前に膝を抱き寄せる姿勢になった。
ジェロニモは、邪魔はしないように、いっそう足音を消して、ピュンマのそのすぐそばへ、静かに立った。
海を見るピュンマを見下ろして、それから、視線の先を探って、ゆっくりと瞳を動かす。日の長い夏の夕方、それでももうすぐ辺りは、次第に明るさを失ってゆく。
ジェロニモは、何気ない様子で、ピュンマを見守っていた。
「・・・帰らないとね。」
言いながらけれど、まだ立ち上がる様子はない。先を急がせることもせず、ジェロニモは、それには何も言葉を返さない。
ふと気がつくと、ピュンマの指先が、膝を抱え込んだ腕の、肘の辺りをずっと引っかいている。何をしているのだろうかと、そこへ視線を当てると、爪の先で、どうやら皮膚を剥がすような、そんな仕草らしいと気がついた。
「・・・なにをしている・・・?」
とがめるつもりはなかったけれど、少し低い声で、ジェロニモは訊いた。
え、とピュンマがこちらを振り仰いで、それから、ジェロニモの視線の先をたどって、肘から外した指先を、少し空ろに見つめた。
「はがれないんだ、やっぱり。痛くはないけど。」
全身を覆う銀色の鱗を、無駄と知りつつ剥がそうとしていたのかと、ジェロニモは掛けられる言葉を見つけられずに、押し黙る。
「ボクは痛くはないけどでも、きっと魚たちは、痛いんだろうな。006が料理してるのを思い出して、ちょっと、可哀想になったんだ。」
指先を見つめたままで、ようやくピュンマが、その場に立ち上がる。
ジェロニモと向き合うと、ピュンマは携えてきたタオルを腕に引っ掛け、そして、ついさっき爪でいじっていた肘を、よく見て、というようにジェロニモの方へ突き出してくる。
「ほら、全然、浮いたりもしない。ぴったりすきまもなくて、爪なんかじゃ、とてもはがせない。」
簡単に剥がれたりしたら困るじゃないかと、ふたり同時に思ったけれど、同じ表情で、ふたりは同時に、互いから視線をそらした。
今度は、砂の上で戸惑ったように動いている足の爪先を見下ろして、けれど上目に互いをうかがってから、ピュンマが、下を向いたままで、ぼそりと言った。
「キミなら、はがせるかもしれないけど、でも多分、きっと、痛い。」
痛いということが重要なのではないのだと、きちんとこちらに伝えようとして、けれど戸惑いを含んで、言葉が揺れる。
少し細くなった語尾に、ジェロニモは、沈黙で返事を返すことにして、それから、そっとピュンマの頬に指先を伸ばした。
促されて顔を上げたピュンマが、少しだけ切なそうに微笑んでから、桃色の唇をわずかに動かす。
「・・・帰ろう。みんなが、待ってる。」
夕食のためにと、それだけではない意味を、単純な物言いのその中に、痛みを呼び起こすほど深く込めて、そうして、ふたりは、ようやくギルモア邸の方へ足を向けた。
肩を並べて歩き出して、ジェロニモは、さり気なくピュンマの肩に腕を回した。こちらに顔を傾けてくるピュンマの、重みを受け止めながら、鱗に触れた掌にゆっくりと力を込める。
風や波にさらわれてゆく砂の上に、伸びた影が奇妙な形に、ふたつとは見極められずに、ふたりの後を追ってくる。
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