海の精霊 (85)



 いつもはジェロニモの方が先に起き出すのに、目を覚ますと、隣りにピュンマの姿はなかった。
 床に脱ぎ散らかした服はそのまま、シャワーを使った気配だけ残っていて、着替えのために、自分の部屋へ戻ったのだろうかと、ジェロニモが、ぐるりと部屋の中を見渡した。
 どこへ行ったのだろうかと、数瞬考えてから、ジェロニモは、乾いた、大きなタオルを1枚手に取って、音を立てずに部屋を出る。
 着替えのために、脱ぎ散らかされた床の服を拾い上げて持って行こうかと思ったのだけれど、他人に触れられるのは、ピュンマがいやがるかもしれないと思って、ジェロニモはそのまま歩き出した。
 どこへいるかと、考えをめぐらせて、けれどどうしてかそこしかないと、前へ進む爪先を見下ろして思う。
 朝早い。人目はない。気兼ねなく水飛沫を上げて精一杯泳ぐには、悪い時間ではない。水はまだ冷たいかもしれないけれど、ピュンマにはそんなことは関係ない。
 早起きのイルカが、ピュンマと一緒に泳ごうと必死になっている様が、まるで目の前のことのように、鮮やかに脳裏に浮かんだ。
 顔だけ洗って、Tシャツをとりあえず着けた寝起きの姿で、靴も靴下もなく、ギルモア邸の外へ出る。ゆっくり歩いても、すぐに砂浜に着く。さりさりと、砂粒が足裏をくすぐって、目を凝らせば、ふた回り小さな足跡が、ジェロニモがこれから進む方向へ、ざくざくと続いていた。
 やっぱりと、自分の予想が当たったことにひとり笑いをこぼし、ジェロニモは、砂の上を、いっそう足音を消して、ゆっくりと1歩1歩前へ進む。
 足跡は、途中で波打ち際へ消えて、そこから一体どれほど先へ進んだのか、目にはもう見えなくなってしまう。けれどジェロニモには、目には見えないものが見える。波打ち際を、寄せる波と遊びながら先へ進むピュンマの姿を、細めた目の先に眺めて、ジェロニモは、けれど水には入らずに、その傍をゆっくりと追ってゆく。
 ピュンマの姿が水の中へ消え、そこまで行ってから、ジェロニモは、やっと海の方へ顔を向けた。
 ばしゃんと、水の跳ねる音がする。寄せる音とは違う、誰かが、何かが、水を切って、叩く音が聞こえる。もっと目を細めて、もうすっかり明るくなっている空と海の境の辺りへ、求めるものを探すために、すうっと視線を流した。
 また、ばしゃんと音がして、今度は、水飛沫が、ずっと沖の方に見えた。
 いた、と思って、水飛沫に向かってうっすらと微笑んでいた。
 水は冷たい。風も冷たい。早朝の空気はくっきりと澄んでいて、じわじわと太陽にぬくめられながら、けれどまだ、きりきりと膚を刺す。
 どれほど深く潜ったのだろう。どれほど長く水の中にいるのだろう。どれほど遠くまで泳いだのだろう。海は、どこまでも広く、どこまでも深い。人ひとり飲み込んでも、波紋さえ見せずに、平然と、同じ波を岸に向かって送るだけだ。
 海の一部になるというのは、一体どんな気分なのだろうかと、また海に潜って泳いでいるらしいピュンマのことを思う。
 海に潜り、海に溶け込み、呼吸さえ忘れたように、海とひとつになって、海の一部になって、ピュンマは何を考えているのだろう。すきまもなく膚を覆う海水に包まれて、地上の光の届かない深海で、土の匂いを忘れてしまうことも、あるのだろうか。
 地上に戻りたくないと、そう思ったことがあるかと、そう言えば尋ねたことはない。あると、そうピュンマが答えるのが、怖かったので。
 ここにいるジェロニモに、気づいていたのか、気がつけば、水をかいてこちらへやってくるピュンマの姿が見えた。振り上げた腕と一緒に水飛沫が上がる。それが見る見るうちに波打ち際へ近づいて、背の高さほどの深さの辺りで、ピュンマがジェロニモに向かって手を振った。
 それに特に応えもしないまま、こちらへやって来るピュンマを、ジェロニモは黙って待っている。
 水の中を歩いて、寄せる波に飲まれるように、ピュンマが近づいてくる。水を滴らせて、その水がきらきらと光を集めて、ピュンマの全身をまぶしく覆い、ジェロニモは、とても美しいものを見る時のように、すっと優しく目を細めた。
 「おはよう。」
 ピュンマが、額を手の甲で拭って、ジェロニモににっこりと笑いかけた。
 何ひとつ身に着けていないピュンマは、ジェロニモが差し出したタオルで顔と頭を拭ってから、それをくるりと腰に巻いた。
 「水、冷たい。」
 「先週ほどじゃないよ。」
 長い間水につかっていたせいの冷気が、漂う早朝の空気と混ざって、うっすらと陽炎を生む。潮の匂いが鼻先に立って、ジェロニモはゆっくりと瞬きをした。
 濡れて光るピュンマの黒い膚は、ひと刷け青みを帯びて、それはきっと海の蒼なのだろうと、すっかり海と同化して、色さえ移ってしまっているのかと、そんなことを考える。
 まだ、水の滴る耳の後ろや首筋や胸元や、まぶしいほど明るくなる陽の光よりももっと、ピュンマは眩しかった。
 精霊は、さまざまな姿形をしている。土や樹や草や花や、どの精霊とも、ジェロニモは自由に話ができた。
 けれど、海の精霊のことは知らないと、ずっと思っていた。精霊の声も、海の底までは届かないのだろうかと、光さえ突き通せないぶ厚い深海の闇に目を凝らして、見知らぬ世界の中で、かすかな不安に駆られたこともある。
 そうして今、濡れた姿で目の前に立っているピュンマを眺めながら、ジェロニモは、ピュンマ自身がその精霊なのだと、唐突に思いついていた。
 海の色を映して青みを刷いた、漆黒の膚の彼こそ、海そのものだと、切り取った闇のような姿をしたピュンマが、海に溶け込んで泳ぐ様を思い出しながら、とてつもなく大きな安堵が胸を満たすのに、聞こえないように、そっと息を吐き出す。
 ジェロニモは、知らないうちに、ひとりで微笑んでいた。
 「・・・シャワー、浴びる。」
 一緒に、という部分は言わずに、ピュンマの方へ手を差し出した。
 まだ朝は早い。人目はない。波打ち際に足跡を残しても、波が全部さらって消してくれるだろう。
 ピュンマがにっこりと笑って、ジェロニモの手を取った。
 「熱いコーヒーが飲みたいな。」
 うなずいて、そうして、ふたり肩を並べて歩き出す。手を繋いで、寄せる波が、当たるか当たらないかのぎりぎりの砂の上に、並んだ、少し歩幅の違う足跡を残しながら。
 ピュンマの膚が、朝の光の中で、とてもきれいに、きらきらと輝いていた。


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