海の樹 (1&85)



 暑くて溶けそうだと、機械の体では、冗談にもなりそうにない。
 フランソワーズが、行儀が悪いからと、あまり気の進まない風に、けれどイワンの立っての頼みで、昼間はずっとおしめだけの裸でいる。
 けれど、それでもあせもがひどくて、白くて柔らかな、イワンの生身の肌は、いくら冷たいシャワーを浴びても赤みが取れず、必死にベビーパウダーをはたくフランソワーズを嘲笑うように、痒がって、イワンはよく泣いた。
 「海に連れて行くよ。」
 ピュンマの提案だった。
 「風邪を引かないかしら。溺れたら怖いわ。」
 「ボクが一緒だし、ジェロニモも一緒に行くよ。」
 勝手にそう言われたジェロニモは、少しだけ憮然とした表情を浮かべて、けれどすぐに、フランソワーズに向かってうなずいた。
 「赤ん坊用の、網のついた小さな浮き輪があるんだ。それに入って、ボクたちが傍にいる限りは、滅多なことは起こらないよ。」
 泣き続けのイワンの世話に、すっかり疲れていたフランソワーズは、寝不足気味の重そうなまぶたで、そうねと、ようやくうなずいた。


 イワンの、小さな浮き輪を引っ張って、あまり深いところまでは行かずに、ピュンマは体を浮かせてイワンを振り返った。
 水着代わりのオムツだけで、イワンはいつもと同じようにおしゃぶりをくわえて、浮き輪の内側の網の中に坐り、ぬるい海水が、ぱちゃぱちゃと体に当たるのを楽しんでいる。
 ---気持チイイネ。
 「あせもには、塩水がいいんだってさ。直接塩をすり込んでもいいらしいけど、そんなことをしたら、フランソワーズが、卒倒しそうだしね。」
 ---キミタチガ、ボクヲイジメテルッテ思ウカモネ。
 浮き輪の縁に両腕を重ねて乗せて、そこにあごを軽く乗せ、ピュンマは頭から滴ってくる海水を、目を細めて避けた。
 「フランソワーズは、キミの優しいママだからね。」
 ---少シ過保護ダケドネ。
 はははと、ピュンマが声を立てて笑った。
 腕を伸ばして、イワンの小さな肩に海水を掛けながら、ピュンマは、その肩越しに、波打ち際の方を見た。
 小さなバスケット---に見えるのは、距離のせいなのか、ジェロニモの体の大きさのせいなのか---の傍に坐って、こちらを眺めているジェロニモに、見えるはずもないと思いながら、挨拶代わりに、軽くあごを振って見せる。やはりジェロニモは何の反応も返さないまま、ただこちらに、目を凝らしているようだった。
 バスケットには、イワンのミルクと、果物が少しと、ピュンマとジェロニモのために、冷たい飲み物と、別に見張り番が必要なほどの荷物ではなかった。
 それでもジェロニモは、律儀にその傍に坐って、波打ち際から、ふたりを眺めている。
 「フランソワーズがママなら、キミのパパは誰だろうね。」
 まだ、ジェロニモから視線をそらさずに、ピュンマは訊いた。
 イワンが、坐った足元の水を、手でぱちゃぱちゃと弾きながら、ひどく大人めいた仕草で肩をすくめる。
 「・・・やっぱり、ジェロニモかい。」
 いつも、イワンを直に抱いているか、イワンの寝ている揺りかごを抱えているジェロニモの姿を思い浮かべながら、ピュンマはそう言った。
 珍しく即答はせずに、まるで焦らすように、イワンが手元に視線を落として、跳ねる海水に、夢中になっている振りをする。
 答えたくないのなら、話題を変えようと、ピュンマが思い始めた頃、ようやくイワンが、ゆっくりと答えた。
 ---少シ違ウ。
 あまり適切な答え方ではないなと、イワンには珍しい、曖昧な答えに、ピュンマはうっすらと眉を寄せる。
 ---ジェロニモハ、イツモ静カダ。ダカラ、一緒ニイテモ、ボクノ思念ガ乱サレナイ。
 「さしずめ、ジェットやグレート辺りは、一緒にいるにはうるさすぎるってとこかい?」
 笑いながらそう言うと、イワンも少しだけ笑った。
 フランソワーズが、目の前にいたジェットを素通りして、当たり前のようにジェロニモにイワンを手渡した時の、ジェットの憤りの激しさを、ふたりは一緒に思い出していた。
 ジェットに抱かせるのは、不安なのよ。
 落ッコトシチャイソウダシネ。
 あっさりとそう言ったふたりに向かって、憤慨するジェットを、イワンを片手に抱いたまま、あの場でなだめたのもジェロニモだった。
 父親というのとは、少し違うと、ピュンマも思った。
 大きく枝を伸ばし、葉を広げた、樹。
 根元へ立てば、雨を遮って、あるいは、優しい木陰をつくる。触れる幹は、ひんやりと、けれどあたたかく、あれは、大地に深く根を下ろした、樹だ。
 海では決して見つからない、大地にそびえ立つ、樹だ。
 ピュンマはまた、波打ち際に、視線を投げた。
 イワンも、それを追って、肩越しにジェロニモを眺める。
 ---ジェロニモハ、海ニ入ラナイノ?
 「少しばかり、体が重すぎるんだよ。荷物番もいるしね。」
 水に入るなら、少しばかり、内側の調整の必要な体だった。
 もぐもぐとおしゃぶりを動かして、イワンがまた、水で遊び始める。
 飽きずに、イワンの首や肩に海水をかけて、ピュンマはそれきり、何も言わなかった。
 首にかかった水が、次第にイワンの頬を濡らし始め、そろそろ、一度水から上がろうかと、ピュンマが思ったのを、イワンが読み取ったように、ぽつりと言う。
 ---ジェロニモハ、キミガ好キダヨ。
 一拍置いて、まるで、息継ぎでもするように、ひゅうっと息を吸い込んで、ピュンマはあっさりと返した。
 「知ってるよ。」
 不安を読み取られてしまったことを、少しばかり恥じて、けれどそれを面には出さないだけの平静さを保って、ピュンマはにっこりと笑う。
 「キミのことだって、好きに決まってるさ、イワン。」
 イワンの白い肌は、傷つきやすくて、感情の表れやすい、壊れもののようだと、ピュンマは目を細める。
 こんな白い肌で、ジェロニモの前で、頬を赤らめることでもすれば、もう少し物事はわかりやすくなるのだろうか。それとも、ジェロニモの肌が、白かったら。
 ピュンマは、心の中で首を振った。
 白い肌でなかったからこそ。だからこそ。
 樹が、そのまま人の形を取ったような、波打ち際に坐って、静かにふたりを待っている、大男の方を見やって、それから、ピュンマはイワンの頭を、濡れた手で撫でた。
 「ジェロニモのところへ、戻ろう。」
 水から上がろうという意味と、それとは別のもうひとつの意味が、そこにこもっているのを、イワンは読み取ったのかどうか、ピュンマを見上げて、ほんの少し考え込むように、前髪の奥で瞳を動かす。
 「行こう。」
 今度は、素直にうなずいたイワンと一緒に、ピュンマは、波打ち際に向かって泳ぎ出した。
 こちらに向かってくるふたりを見て、ジェロニモが砂の上から立ち上がる。その大きな姿に向かって、ふたりは一緒に手を振っていた。


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