勲章 (6&5)



 日曜の夜は、いつもよりも早仕舞いする。
 何か特別のことでもない限り、客の数も少なく、始終のんびりと過ごして、心はすでに、翌週に飛んでしまっていることも多い。
 翌日のための仕込みを早目に始めたせいで、自分の分を片付けてしまったグレートは、すでに店から姿を消してしまっている。
 けれど張大人はまだ、店で、もうひとり人を待っていた。
 閉店と札のかかった、けれどまだ鍵は開いたままのドアから、のそりと大きな体が入って来た時、張大人は厨房で、普通よりも小さな餃子を作っていた。
 「ジェロニモ、来たアルね。」
 店の中を見渡せる、厨房との仕切りを切り取った、カウンターの部分から顔を出して、思わず声が上がる。
 いつも無表情の大男は、軽くあごを引いただけのあいさつをして、足音もさせずに厨房へ入って来た。
 もう、明かりが残っているのは厨房だけで、店の外から見ても、人がいるとも思えないに違いなかった。
 広々とした厨房に、それでも、天井に頭をぶつけないように、軽く肩を丸めて、その場を半分ほど、軽々と埋めて、ジェロニモが、張大人の傍へ立った。
 「換気扇、あっちアル。道具いるなら、裏の方へあるヨ。」
 餃子の具の油で汚れた手を止め、前に腕を伸ばしたままで、換気扇の所在と、裏口の方へ首を振って見せると、ジェロニモは黙ったままで、携えていた小さな---そう見えるだけ---道具箱を、張大人の目線の高さに上げて見せる。
 ここにも、一通り必要なものが揃っているけれど、使い慣れた自分の持ち物の方が良いのはもちろんで、ことにジェロニモの場合は、人のものは使いたがらないだろうと、そう合点して、張大人はただうなずいて見せた。
 ジェロニモは、知らない人が見れば、喋れないのかと思うほど無口なまま、またのそりと肩を回し、張大人が示した裏口の方へ、道具箱をその場に置いて、静かに姿を消した。
 何か準備がいるのだろうと、その背に声をかけることもせず、張大人はまた、餃子作りに心を戻す。
 戻って来たジェロニモは、上着を脱いで、シャツの袖をまくり上げ、たたまれたダンボールを抱えていて、それを、裏口近くの床に敷くと、厨房の中心近くにある、火力の強い、大きなレンジの上にかぶさるように天井から降りている、換気扇の覆いの中に、顔と手を突っ込んだ。
 料理の店で、しかも油を強い火で調理するなら、換気扇の汚れ具合など、想像すらしたくなくなるのに、一月とかからない。
 張大人は、滅多と知らない人間を厨房に入れることはせず、換気扇の掃除も、グレートと交代でやっていたのだけれど、ついにグレートが音を上げ、
 「腐っても役者だぜ、こんな手の荒れる汚れ仕事なんかやってられるか!」
 癇癪を起こしたのが、つい先月のことだった。
 かと言って、時間も手間もかかる換気扇の掃除を、店の切り盛りで忙しい張大人が、ひとりでするのにも限界があり、グレートさえ嫌がる汚れ仕事を、フランソワーズに頼むのも気が引けた。
 ジョーなら、頼めばいやとは言わないとわかっていたけれど、意外と、張大人の、こと店に関する癇症ぶりを今ひとつ理解していないように見えて、してもらった後で、あれやこれやと注文をつけるのが億劫で、頼めないまま、日だけがいたずらに過ぎて行った。
 ある日、ギルモア邸で、いつもの大盤振る舞いの後、これもまたいつものように、洗い物を黙って手伝ってくれるジェロニモに、返事のないのを承知で、他愛もない店の愚痴のついでに、汚れた換気扇のことを口にした。
 いつもの、一方的なおしゃべりの、その断片に過ぎなかったのに、その時だけジェロニモが、ぼそりと反応した。
 おれ、やる。
 皿を洗う手を止めずに、前を向いたままそう言われ、張大人は、最初は冗談かと思ったけれど、冗談どころか、ほとんど何も言葉にはしないこの男が、つまらない思いつきで、そんなことを口にするわけもなかった。
 考えれば、張大人の、料理や店に関する気の入れようを、この、無口な大男は、いちばんきちんと理解しているような気がして、いつだって、料理の後片付けを、張大人の気に入るまできっちりとしてくれることを、秘かに感謝していたから、ジェロニモなら、きちんと言った通りに仕事をしてくれるだろうと思えた。
 手が汚れて、荒れるネ。
 誰もが嫌がるその理由を、一応ぽつりと伝えたけれど、ジェロニモは一向に、口調も表情も変えず、これもまた、ぼそりと言い返して来た。
 汚れる、洗う。荒れる、治す。それだけ。
 大きな手と太い指は、とてもそんな風には見えないのに、ひどく繊細に動く。器用というのとは、少し違う。どんなものに触れる時も、気遣いを忘れないような、そんな感じがする。常にいとしさを込めて、常に敬うことを忘れずに、ものに触れる。
 それは、張大人にも何となくわかる、この世界の成り立ちに対する態度でもあった。
 ジェロニモは、解体して外した換気扇を、部品ごとに並べて、床のダンボールの上に置き、まずは、覆い本体の方からきれいにし始めた。
 心配するような、大きな物騒な物音もなく、金具や金属を磨く音が、かすかに聞こえるだけだった。
 つんと鼻を刺す刺激臭が、普段使う専用の洗剤とは違い、張大人は振り返って、今度は床に坐り込み、換気扇の羽をきれいにし始めたジェロニモに尋ねた。
 「何アルね? ヘンな匂いアルよ。」
 汚れた布を動かす手を止めず、手元に目線を落としたままで、ジェロニモが低く答えた。
 「ガソリン。」
 「ひゃあ、ガソリン? そんなのできれいになるネ? でも手に悪そうネ!」
 ジェロニモが、無表情なままで首を振った。
 「ちゃんと、きれいになる。」
 手が荒れることについては、何も言わない。
 力仕事や汚れ仕事ばかりしているジェロニモには、手が荒れることは、さして重要なことではないのかもしれない。
 張大人の手にも、切り傷ややけどの跡がたくさんある。料理人の勲章と思いはしても、恥じたことはない。
 仕事で荒れた手は、ジェロニモのような男にとっては、同じように勲章なのかもしれないと思った。
 ちらちらと、仕事ぶりを観察していると、小さな部品のひとつびとつまで、丁寧に磨いているのが見え、黙々と、冷たい床に坐って手を動かしているジェロニモの、奇妙に真剣な横顔を、張大人はひどく好ましいと思う。
 張大人は、包み終わった餃子を皿に並べて、汚れたボールや他の食器を、熱い湯で洗った。
 カウンターの上をきれいに拭いて、予備にある、小さなコンロで、小ぶりの鍋に湯を沸かす。
 ジェロニモは、磨いた部品を取り上げて、換気扇の羽を、元通りにし始めていた。
 ジェロニモの傍へ行って、すっかりぴかぴかになった換気扇を見上げ、手の汚れを拭っているジェロニモににっこり笑いかけて、
 「スイッチ入れるネ?」
 ジェロニモが、こっくりとうなずいた。
 ぶーんと音を立てて羽が回ると、かすかにガソリンの匂いが立ったけれど、それもじきに消える。
 気になっていた、調理油の匂いはすっかり消えていて、張大人は腰に両手を当てて、満足そうにうなずいた。
 「ほんとに助かったアルね。これでしばらく大丈夫ヨ。」
 ふたりでそろって、換気扇を眺めて、それからジェロニモが、床に散らばった道具やダンボールを片づけ始める。
 また裏に消えたジェロニモの背を見送ってから、張大人は、沸いた湯に、できたばかりの餃子を放り込んだ。
 小さな餃子に火が通るのに、大した時間はかからない。
 ジェロニモがまた、来た時と同じ姿で、すっかり身支度を整えてから厨房に戻って来た時には、皿に茹で立ての餃子が並び、醤油とゴマ油とたっぷりのニンニクの入ったタレが、うまそうな匂いを立てていた。
 「お礼はまた今度ネ。今夜はこれだけアル。」
 少しだけすまなそうに言うと、ジェロニモが、驚いたようにあごを引き、湯気を立てている餃子に向かって、少しだけ目を細めた。
 口元が、珍しくほころぶ。
 それを見て、張大人もにっこりと笑った。
 厨房の中央にある調理台に寄りかかり、皿から、直接指で餃子をつまみ上げて、ぽいと口に放り込む。
 熱いはずのそれに、顔をしかめることもせず、もぐもぐと咀嚼して、濡れた指も舐めて、普段にない行儀の悪い仕草のまま、張大人を見下ろして、また微笑む。
 ジェロニモは、そこに立って、自分を見上げている張大人を、いきなり抱え上げると、その調理台の上に坐らせた。
 ひゃあと声を上げて、けれどそうすると、ジェロニモと目線が近くなることに気づいて、張大人は、ああそうかと、坐って、垂れた足をぶらぶらさせる。
 皿の上には、フォークと太い中国箸が出してあった。
 ジェロニモは、タレの入った小さな器を持ち上げ、フォークを使って、餃子を崩さないように、細心の注意を払いながら、きれいに皿を空にして行った。
 言葉にしなくても、美味いと思っていることが、表情と仕草に現れていて、張大人は、満足げに、ジェロニモの、白い刺青の入った、浅黒い膚を眺めていた。
 「今度、もっとたくさん作るネ。」
 調理台の上に坐ると、普段は遠くて見えない、ジェロニモの、今はよく動く口元が見える。
 料理は、美味いと言って食べてくれる誰かがいることが、何よりの喜びなのだと思いながら、小さなひき肉のかけらを、唇の端に見つけて、張大人は、思わずそこに手を伸ばしていた。
 指先で、それを取ってやると、ジェロニモが瞳だけ動かしてこちらを見て、それからまた、薄く微笑む。
 「今度、みんなで、一緒に作る。一緒に食べる。」
 「そうアルね、今度また、みんな集まるネ。」
 空になった皿の上に、フォークを静かに置いて、ジェロニモが、手の甲で濡れた口元を拭った。
 太い大きな指は、見るからに固そうに見えて、張大人は、感謝を込めて、その手に向かって、微笑みかけた。


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