煙が目にしみる
そう申し合わせたわけでもないのに、偶然のように、3人は、ギルモア邸の裏の、断崖の近くで行き合った。
それぞれ、好きな銘柄の煙草をたずさえて。
波の砕ける音が聞こえ、空はそろそろ、赤みを増しつつあった。
ハインリヒがまず、自分の煙草に火をつけ、グレートが、ジッポの、甘い香りのするその青い炎に向かって、失敬、と言いながら、自分の煙草を差し出した。
ジェットが、少し遅れて、くしゃくしゃになった煙草の箱を取り出し、またこれも、くしゃりと情けない姿の煙草を、一本取り出す。
匂いのきつい、ハインリヒのドイツ煙草に、少しだけ顔をしかめ、安っぽいプラスチックのライターを鳴らすと、ガスが切れているのか、一向に火はつかない。
ハインリヒは、見かねて、ほら、と自分の煙草の先を差し出した。
煙草の先をくっつけて、鼻先をこすり合わせるようにしながら、火を移す。じじっと小さな音がして、ジェットの煙草にも、ようやく火がついた。
グレートは、浅く指先に煙草を挟む。指先で唇に触れるように、煙草を吸う。フィルターからは、少なくとも2cm手前で吸うのをやめる。
ジェットは、親指と中指で煙草を持ち、遠くへ声を飛ばす時と似た仕草で、煙草を吸った。フィルターぎりぎりまで吸うのは、なかなか好きな銘柄が手に入らない腹いせらしかった。
ハインリヒは、煙草を指に深く挟み、煙草を吸う口元を、いつも掌で覆うようにする。どこまで吸うかは、その時の気分によるらしかった。吸い殻を、すぐにあちこちに放り投げるジェットと違って、いつも足元で、丹念に火元を踏み消す。
誰も何も言わず、色の変わる空を、それぞれが吐き出す煙越しに見上げていた。
見上げる空は、どれも同じだ。
誰が見上げようと、どこから見上げようと、見上げる空は、みな同じだ。
それでも、人はそれぞれ、違う空を見る。瞳に映る空は同じでも、心に映る空は違う。
雲の形や空の色に、人は、さまざまな思考を反映させる。
広い宇宙に通じてゆく、この巨大な空の下で、人々は呼吸をし、ものを考え、そして頭上の空に、己れの姿を映す。
空は永遠であっても、人は永遠ではない。宇宙の、ほんの瞬きの間に、その一生を終える。
それぞれの仕草で煙草を吸いながら、3人は、燃えるような緋色を、それぞれ、色の違う瞳に映していた。
人は永遠ではない。けれど、彼らは、限りなく永遠に近く、機械の体を生きている。
時には、救済のために、時には、破壊のために、時には、慰撫のために、それぞれの能力を使う。
疎ましい力でもあれば、素晴らしい力でもある。
人並みではないからこそ、人並みにあこがれる。その憧れだけが、今は彼らに許されるすべてだったので。
生身ゆえの限界を、彼らは恋う。失ってしまったからこそ、もう、取り戻せないからこそ、恋い焦がれる。
暖かな、年とともに老いを刻む膚を、伸び、そしていずれは縮み始める骨を、傷つけば流れる、赤い血を、故障や破損のための修理ではなく、病気のために治療の必要な体を、彼らは憶えていて、懐かしがる。
そうとは、口にせず。
得たものと、失ったものと、どちらがどれだけ多いのか、もう、繰り返し指を折って、数えたこと。眠れぬ夜に、眠りさえもう必要はない体をかすかに憎みながら、星の数を数えるように、また指を折る。
空の緋色が、瑠璃色を交えて、明るい紺青に変わる。
3人は、飽きもせず、空の色を見上げていた。
世界の中に取り残されて、絶望にも似た孤独を分け合いながら、じっと時間の狭間に佇んでいる。
この世に、9人きりの仲間だった。
空は、この空の色は、世界が終わるその日まで、変わることはないのだろうか。昨日の次は今日、今日の次は明日だと、そう信じる根拠とでも言うように、常に変わらないその色は、これからもずっと、このままなのだろうか。
決して老いることのない、サイボーグの彼らと、同じように。
雲が、流れてゆく。それを3人は、視線で追う。
グレートは、2本目の煙草を、断崖の向こうへ、放り投げた。
永遠に続く命に、未来はないのだと、サイボーグになって、彼らは初めて知った。
昨日と今日、過去と現在はある。けれど、明日と呼べる未来は、ない。
未来は、限りある命に約束されたものだから。
昨日と今日を繋いで、彼らは生きている。明日のない今日を、生き続けている。
未来を夢見ることを許されている、生身の人間たちのために、彼らは今日を闘い続ける。
それが、選んだわけではなくても、機械の体を持ってしまった彼らに許された、唯一の人生だったから。
闇の中でも見える目を持つゆえに、闇では盲同然になる、普通の人々を、手を引いて導いてゆくことになる。もっと明るい場所へ、連れ出すために。
望んだことではなかった。望んだわけではなかった。ただ、そうなってしまった。ただ、起こってしまっただけのこと。
それでも、今は、後戻りもかなわない。もう、こんなに遠くまで来てしまっている。
過去だけが、長々と連なる、機械の体に閉じ込められた人生には、気の遠くなるほどの、絶望と失望と、抱くことのかなわない希望が、満ちている。
希望は、未来ではない。眠りが運んでくる、ささやかな夢でしかない。
それでも、永い孤独を癒すのに、夢は必要だった。
空の色が、闇色に変わり始める。夜が近い。今日が、そろそろ終わろうとしていた。
不意に、草を踏みしだいて、近づいてくる足音に、3人は同時に振り返った。
ジェロニモが、イワンを抱いて、そこに立っていた。
------タバコナンテ、カラダニワルイモノ、マダスッテルノカイ。
イワンが、3人の頭の中に、笑いを交えて話しかけてきた。
「うるせえな、これくらいの楽しみ、残しといてもいいだろう。」
ジェットが、肩を揺すって、イワンをにらんだ。
「今さら、心配するような体でもなし。」
グレートが、混ぜっ返すように言う。
3人はまた、視線を空に返し、後から来たふたりも、それにならった。
ハインリヒが、薄闇の中で、音を立てて、煙草にまた火をつけた。
ジェロニモが、不意に、重い口を開く。
「空、おれたち、見てる。おれたち、いつも、見てる。」
振り返り、イワンも、自分を抱く彼を見上げ、みなで、ジェロニモの、また引き結ばれてしまった唇の辺りを見る。
ジェロニモにだけ見えるはずの、空の精霊が、ふとその時、みなの視界の端を、かすめて行ったように、思えた。
理由もなく、みなで黙り込んだ後、グレートが、芝居がかった口調で、その沈黙を破った。
「"不幸な時代の重荷は、我々が負わねばならぬ"(リア王)。」
ジェットが、グレートを見て、同意とも反対とも取れる仕草で、肩をすくめる。
ハインリヒが、海の方を向いたまま、ふふっと笑いをもらした。
「どうやら、そうらしいな。」
またそれきり口を閉じ、次第に濃くなる闇の中で、ハインリヒの口元からこぼれる、煙草の煙だけが、かすかに白い。
------カエロウ、モウ、ユウショクノジカンダ。ボク、オナカスイチャッタ。
イワンがそう言うと、続けて、ジェロニモも言った。
「006、みんな呼んで来い、言った。ジョーとフランソワーズ、待ってる。008、ハインリヒ、探してた。」
ジェロニモが、また重々しく言ったのに応えて、そろってきびすを返す。
ハインリヒだけがまだ、海を見つめていた。
ジェットが振り返り、その背に、声を掛けようとして、ふとやめる。
頬に、光るものが見えたような、気がしたので。
------アンタ、まさか泣いてるのか。
通信装置で、おそるおそる訊いた。
他の連中はもう、ふたりを残して、去ろうとしていた。
「まさか。煙が、目にしみただけさ。」
そう、声に出して答えてから、ハインリヒは、煙草を足元に捨てた。一瞬、草の上の赤い火を、じっと、惜しむように見つめてから、丁寧に踏み潰した。
背中を回し、また止めて、空と海の、今は境もわからない辺りを、もう一度眺める。
それから、ゆっくりと、先を行く仲間の後を追う。
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