雪 (85)
もう、夏は終わって、海には誰もいない。
冷たい海水の中に、普通の人間ではない体を沈めて、そうすることが、ピュンマには訓練だったので。
お世辞にも、きれいな海とは言い難いけれど、音も人気もなくなる海の中が、ピュンマは好きだった。
潜り、水の色と、光の届かない闇の境を見極めながら、ついには、空気の泡さえ見当たらない深さへ、生身の人間には不可能な深さへ、沈んでゆく。
自分ひとりしか、ここにはこれないのだと思うと、深い孤独と静かな安堵が、いつも、人工の肺を満たしてゆく。
そんな深さへ、今は潜れないことを残念に思いながら、いつかまた、生きた人間の到達したことすらない深海へ、沈んで行ってみたいと思う。
かすかな光の色を振り仰ぎ、吐いた呼吸の泡を追って、ピュンマは、強く水を蹴った。
飛び立つ鳥のように、伸ばした体を、水面から突き出して、ぶるぶると頭を振る。
水飛沫越しに、肩から振り向いて砂浜の方を見ると、服を脱ぎ捨てて来た辺りに、小さな人影らしき、ぽつんとした点が見える。
けれど、この距離から、人影に見えるということは、その人物が、ひどく大きな体をしていることを示していて、ピュンマは、ふっと苦笑いをもらすと、勢いよく、砂浜の方へ戻り始めた。
泳ぐ自分の姿を見せたくて---そちらへ向かっていると、知らせたくて---、わざと潜らずに、普通に泳いでゆく。
普通に泳げば、いつもより時間がかかるのに、あちら側から、水面にちらちらと見える自分の姿を、向こうも楽しんでいるのだろうと思って、水をかく腕を、大きく振り上げる。
上半身が、水面から出る深さに来ると、泳ぐのをやめ、ピュンマは、水の中をゆっくりと歩いた。
滴る水を散らしながら、見つめる砂浜には、泳ぐ気があってここに来たわけではなさそうなジェロニモが、いつもの無表情で、たたずんでいる。
その手には、大きなタオルがあった。
水からすっかり上がり、砂に、足を埋めながら、ジェロニモに笑いかけた。
「夕食の時間。」
自分に向かって差し出される手から、タオルを受け取って、ありがとうと短く言うと、ピュンマはそれで、短いちぢれた髪をごしごしと拭いた。
「遅れるとまた、張大人に怒られるな。」
くすりと笑っても、まだジェロニモは、にこりともしない。
別に、怒っているわけではないと知っているから、ピュンマはその笑顔を、そのまま海の方へ振り向けた。
「もう、夏も終わりだね。水が、ずいぶん冷たい。」
肩をタオルで覆って、ぼそりとピュンマは言った。
「キミも、泳げばいいのに。」
からかうように言うと、またにこりともせず、ジェロニモも、海の方へ視線を移す。
「・・・海のこと、よく知らない。海の声、聞こえる。でも、海のこと、よく知らない。」
「ボクも、海とは縁がなかったんだけどね。」
肩をすくめて見せた。
アメリカの地図を思い描きながら、ジェロニモが生まれた辺りが、海から遠いことを、改めて思い出す。
海を見ないまま、一生を終えてしまう人は、いくらでもいる。
他の誰かが知らないことを、知ってしまうことは、けれど必ずしも幸福ではないのだと、ちらりと思う。
人の、たどり着くことのできない、深海の風景を思った。
「・・・海に、深く潜ると、雪が降ってるのが見える。そっちの雪の方が、今は馴染みが深い・・・」
そう言ってから、ピュンマは、ジェロニモを振り仰いだ。
浅黒い膚に、彫り込まれた白い線が走る。引き結んだ唇と、滅多と笑いにゆるむことのない頬の線は、彼自身がまるで、彼の敬愛する精霊、そのもののようだった。
表情の変化の見えにくい、互いの膚の色の濃さを交互に見比べて、ピュンマは、わからないように、うっすらと笑みを浮かべる。
「キミは、雪が好きかい、ジェロニモ?」
否定の意味ではなく、軽く首を振って、ジェロニモがぶっきらぼうに答えた。
「雪、あまり見たこと、ない。」
「ボクも、あんまりよくは知らない。白くて、きれいだけど・・・」
暗くなり始めた砂浜には、ふたり以外の人影はなく、ふたりはまだ、帰る素振りを見せないまま、そこで立ったまま、ぽつりぽつりと言葉を交わす。
水に濡れた体は、まだ少し湿っていて、潮のせいで、膚はべたついていた。
紫に、今は色を変えた空と、境もなく混じり合い始めた、海の色を、ふたり並んで眺めながら、どうしてかまだ、立ち去れずにいる。
「・・・キミの誕生日に、いつか、どこかに、雪を見に行こう。」
ジェロニモが、静かに、けれど驚きを隠せずに、ピュンマの方へ、見開いた目を向けた。
ちょうど、世界の大半がお祭り騒ぎになる、クリスマスが、ジェロニモの誕生日だ。北の方なら、もう、11月には雪が降り始める。雪を求めて、世界のどこかをさまようのも、ふたりには不可能なことではなかった。
「どこか、誰もいない、ふたりきりの場所で、キミの誕生日に、雪を見よう。」
今こうして、ふたりきりで、闇に紛れる海を眺めているように、地上を覆い尽くす、白い雪を、その上に、膚の色を際立たせながら、一緒に眺めたいと、ピュンマは思った。
ジェロニモは、目を伏せて、それには答えず、大きな体をかがめて、砂の上に脱ぎ捨てられたままの、ピュンマの服を、ゆっくりと取り上げた。
そうしたのは、きっと顔を隠すためだったのだろうと思って、また、ピュンマはくすりと笑う。
「戻る。みんな待ってる。夕食、遅れる。」
そう言って、そのままあちらに体を振り向けたジェロニモに、ピュンマは素直に従った。
足早に、揃わない肩を並べて、ジェロニモの、靴に包まれた爪先に、素足の爪先を揃える。
砂に埋まる足跡の深さが違うのを、下目に見ながら、ピュンマは、そっとジェロニモの方へ手を伸ばした。
大きな手を探り、太い人差し指を、そっと握る。
握り返しては来ないけれど、振り払うことはもちろんせず、ふたりで、誰もいない、夜に近くなる砂浜を、いつの間にか、腕が触れ合うほど近くに、寄り添って、歩いてゆく。
戻る