Something Blue (5&青いけもの)

 確かに空気が揺れた。風ではない。干している洗濯物はそよりとも動かず、ただジェロニモの背中にだけ、空気の動く波が伝わって来る。
 肩から横顔分だけ振り向いて、他には誰の姿もない裏庭へさらりと目をやり、ジェロニモは誰ともになくうなずいて、空のバスケットを取り上げると、そのまま自分の家の裏口へ向かう。
 ゆっくりと踏み出す、芝生と雑草の生え混じった地面をわずかに蹴る素足の、その足音に重なる、もっと柔らかな四つ足の気配が、次第にはっきりとジェロニモを追い駆けて一緒について来る。
 裏口のドアを引いて開け、先に入るようにと道を開けると、表情は相変わらず剣呑な青いけものが、そこに眉でもあるかのように顔をちょっとしかめて、人間くさく肩をすくめると、のそりのそり家の中へ入って行った。
 用心深く水平に保たれている青い尾と少し距離を取って、ジェロニモは後を追った。
 ドアを閉めた時、青いけものは少し警戒するように足を止めてジェロニモを振り返り、窺うように天井近くにあるジェロニモの瞳を見上げ、けれどまた肩をすくめる仕草をして、それだけは充分にけものの所作で、ふんふんとビニールタイル敷きの床の匂いを嗅ぐ。
 そこは台所で、キッチンのサイズはひとり暮らしには充分だったし、小さなテーブルを椅子を置く余裕さえある。
 そこまでは行かずに、ジェロニモは左手にあるドアから、洗濯機を置いている物置へ入った。青いけものも、ジェロニモの後に続く。
 着ていたタンクトップのシャツを脱ぎ、そのまま洗濯機へ放り込む。もう中にはすでに水と他の洗濯物が入っていて、ジェロニモは黙ったままつまみを回して洗濯を始めた。
 ごとんごとんと、どこもかしこも四角い機械は大きな音を立てて中に入れられた衣服を洗い始め、青いけものはその音に少し驚いたように体を引き、物置の入り口まで後ずさる。
 洗濯機がきちんと動いていることを確かめてから、ようやく離れるために体を回したジェロニモに、青いけものは初めて声を掛けた。
 ──わたしがつけた傷だな。消さなかったのか。
 左の鎖骨の下と、背中の肩甲骨を渡るように走る3本の線は、確かにこの青いけものにひどく引き裂かれた痕だった。その鋭い爪は、今はきちんと引っ込められて、床を蹴る時にかつかつと言う音も聞こえない。
 ──おまえなら、消すのは簡単だったろう。
 ジェロニモは、彼を真似たわけではなかったけれど、ただ肩をすくめてそれに応えた。
 消すことはできた。けれど消さなかった。理由は、特に語るほどのことではない。語ることはしなくても、青いけものにはすでに伝わっているはずだった。
 物置を出て台所へ戻る時に、裏口から庭を見ると、相変わらずの晴天に、今はお誂え向きに風が出て来たようだった。ほんとうに洗濯日和だ。ジェロニモは、ドアの上部についたガラス越しに見える庭へ向かって、ふた拍足を止めて薄く微笑んだ。
 ジェロニモはここにひとりきりで住んでいるし、両隣りの家は少し離れているから、ほとんど外の音は聞こえない。滅多と車も通らない。車道も、ろくに舗装されておらず、トラックが通ればもうもうと砂煙を上げる、ただの泥道だ。
 まるで打ち捨てられたようなこの場所に、なぜか青いけものの姿はしっくりと馴染んでいて、毛色の異様ささえなければ、コヨーテか何かが腹を空かせてふらふらしていると、そう思うだけだろう。
 変わらず元気にしていたかと、青いけものがジェロニモを見上げた。肩をすくめかけてから、ジェロニモはとりあえずそれにうなずいた。
 一度は殺し合った相手と、こうして、自分の家の中で向き合っていると言うのは、奇妙ではあるけれど、ジェロニモにとっても青いけものにとっても、それほど不思議なことではない。よくあることではなかったけれど、それでも、敵意も殺意もなく互いのそばにいて、互いの様子を気遣う気配すら漂うのは、それは悪いことではないのだろう。
 スープに使う皿を出して水を満たし、それをテーブルの足元へ置く。皿とジェロニモを交互に眺めてから、青いけものは床にぺたりと腹をつけ、半ば寝そべりながら皿の中へ長い舌を差し入れた。
 ぴちゃりぴちゃりと水を飲む音を背中で聞きながら、ジェロニモは自分のためにコーヒーを淹れる。サンドイッチでも作ろうかと考えていたけれど、軽く焼いたパンにラズベリーのジャムだけを塗って、コーヒーと一緒に抱えてテーブルについた。
 「今日は良い天気だ。」
 それが、とても良いことだと言いたげにジェロニモが言う。唇の端についたパンのかけらを親指の先で拭って、その陰から青いけものを見下ろすと、まるでにやりと笑ったように、深く裂けた口辺が軽く上がる。長い紅い舌が、彼の獰猛さをはっきりと示して、けれど今は水を飲むために口の中からのんびりと伸びている。
 日光も風も雨も、何もかも、与えられたものだとジェロニモは考えている。だから、当然と思わずに感謝すべきだと思って、今日の天気はもしかするとこの青いけもののおかげかもしれないと、ふと思った。
 それはさほどばかげた考えでもなく、彼がどこからやって来て、そして彼が一体何者なのかを考えれば、ジェロニモの捧げる感謝は、端から彼の元へ運ばれるべきものなのかもしれない。
 地球と言う星が、わかりやすい形に具現化したもの、そう思う通り、彼の毛色は鮮やかで清々しい青をして、そして見ているだけで心がすべて吸い込まれそうに、ただひたすらに深い。
 何をしに来たのかはわからない。けれど、なぜか自分に親しみを感じて、ここに自分に会いにやって来たのだとジェロニモにはわかる。ジェロニモが青いけものに感じているのも、同じ類いの親(ちか)しさだ。
 距離も時間も隔たった古い友人のように、ひとりと1頭は、安っぽく手早く建てられた古い小さな家の中で、これと言って口もきかず、ただ一緒にいる。
 青いけものを水を飲むのを止めて、体をねじってジェロニモを見上げた。尖った鼻先を持ち上げて、それから、ゆっくりと裂けた口が開いた。
 ──なぜ、わたしのつけた傷を消さなかった。
 知っているくせに、また訊く。ジェロニモに、きちんと言わせたいからだ。
 あの鋭い爪は、人工皮膚を裂いただけではなく、その下の装甲にもひどく食い込んだ傷を残していた。手当てをしたギルモア博士が驚き、そして皮膚も装甲もそっくり取り替えると言われた時に、皮膚の爪跡はそのまま残してくれと、ジェロニモは頼むことを忘れなかった。
 改造された後も、皮膚についた傷はできるだけ残して、それは、自分に起こったすべてを、忘れないようにするためだった。青いけものがつけた傷も、そのひとつだ。絶対に、忘れないように。互いに、何かを守ろうとして戦った。守ろうとしているものは、結局のところは同じものなのだと悟って、勝てずにひどく傷ついたジェロニモにとどめは刺さず、青いけものが砂煙の中に姿を消したあの時のことを、絶対に忘れないように。あのひとつびとつを、決して忘れないように。
 許されたのではない。ただ、猶予を与えられただけだと、きちんと憶えているように。ジェロニモの背中に残る爪痕は、そのしるしだ。
 ゆっくりと、頭の中で言葉を選んでいるジェロニモの心を読んで、また青いけものがにやりと笑う。
 ああ、憶えているとも。忘れるものか。彼に向かって、ジェロニモは心の中でつぶやいた。
 おれたちは、いつか許されるのだろうか。
 考えた途端に、ふん、と青いけものが口の端を下げた。
 それを見て、ジェロニモは自分も相も変わらず傲慢な人間たちのひとりだと唐突に思い出して、祈るためか、あるいは謝意を示すためか、どちらかそれとも両方か、思わずぎゅっと目を閉じて頭を垂れる。
 何に対してと、具体的にはわからず、それでも多分、自分は今目の前の青いけものに対して敬意と感謝を示そうとしているのだと思って、頭の中で地面に深く伏せ、彼よりも低い位置に頭を置こうとする自分をイメージした。
 彼が触れている、そして彼そのものである地面に、口づける。そうするしか、この深い、自分の存在自体を恥じる気持ちを表すことはできない気がした。
 もう、ほんとうにそうする他ないと、ジェロニモが床に膝を落とそうと椅子を後ろに引いた時、台所のさらに奥の方からブザーの音が聞こえた。洗濯機が、仕事を終えた合図だった。
 どこか淋しげにジェロニモを見上げ、青いけものはそれを潮にのそりと立ち上がり、ゆっくりと裏口へ向かって歩き出す。
 「もう、行くのか。」
 声が、思わず引き止めるような響きを帯びた。
 青いけものは一度足を止めジェロニモを振り返ったけれど、そのまままたドアの方へ足を出す。ジェロニモは彼の後を追い、手前で半歩彼を追い越すと、外へ向かってドアを開けた。
 青いけものは、足を止めずに開かれたドアをすり抜け、さくさくと草を踏んで、風にそよいで触れ合って音を出す木々の枝を、どこかうっとりとした表情で見上げた。
 そして、ちょっとからかうように、同じように風に揺れるジェロニモの洗濯物を眺めてから、鼻先をジェロニモの方へ向ける。
 ──明日は雨だ。
 低い声が言う。
 「そうか・・・。」
 ジェロニモは、薄い笑みを浮かべて、それでも別れの切なさを隠せない。
 まるで慰めるように、青いけものはジェロニモの方へ近寄って、ジェロニモの掌に自分の鼻先を差し出した。
 ほんものの動物のように、青いけものの鼻先は濡れて冷たく、ジェロニモは、他の生きものにもそうするように、地面に膝を折り目線を揃え、両手で青いけものの耳の辺りを包み込み、そして優しく力強くその青い毛並みを撫でた。
 「・・・また。」
 ジェロニモが言うと、青いけものはそれがくせのように、ジェロニモに撫でられながらまたちょっと肩をすくめる。
 ──わたしはどこにでもいる。わたしはいつもおまえたちを見ている。わたしはいつも、いかなる時も、おまえとともに在る。
 言うなり、青いけものはするりとジェロニモの手から抜け出し、光の速さで飛びすさって、木の陰に姿を隠したと思ったら、もう消えていた。地面を蹴った後に、ちぎれた草がまだ舞う間に、彼はもうその青い姿を消していた。
 次はいつ、こんな風に姿を現してくれるのだろうかと、ジェロニモは考えている。
 我々に、まだ時間は与えられているのだろうか。いつか青いけものに、永遠の別れを告げられる時が来るのだろうか。
 いろんなことを、誰にとも定かではないまま祈りながら、ジェロニモは地面に膝を折ったそのままの姿勢で、青いけものが残した足跡にそっと掌を乗せる。そのまま空を仰いで、風の声を聞こうとした。
 青いけものは、明日は雨だと言ったけれど、今はまだきれいに晴れている。美しい空に向かって微笑んでから、洗濯の続きのために、ジェロニモはようやく地面から立ち上がった。

* 2001年アニメ第29話「青いけもの」より
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