深慮 (7&5)

 厨房の、ちょっと大掛かりな掃除には、必ずジェロニモがやって来る。動かせるものは全部ひとりで動かしてしまうし、体の大きさにも関わらず仕事は丁寧で細やかで静かだ。店のこととなると目くじら立てる張大人の眼鏡にかなって、今ではその時だけ雇うこともある厨房掃除のプロたちよりも張大人に頼りにされていた。
 最初の頃は、他から人手を頼む余裕などなく、全部張大人とグレートで、ちょこちょこやっていたのだけれど、油や生ものの汚れはひどく手間を食うし、普段からなるべく汚さないようにしていても、目の届かないところはどうしても出て来る。
 店が忙しくなれば、張大人は掃除などに時間を割いていられなくなるし、グレートはそもそも厨房の仕事になど縁はなく、指先や手を傷める仕事は、役者にはご法度なのだ。
 そんなわけで、懐ろ具合に余裕が出るとすぐ、張大人は厨房の定期的な掃除に人を雇い始め、何しろ自分の城に踏み込ませるのだからそれでも信用できる人間に巡り会うのにはずいぶんと掛かり、結局は遠慮のない口もきける、気の置けないジェロニモに、最終的には白羽の矢が立つことになった。
 今日も、まだ明るいうちは冷蔵庫の中や外をぴかぴかにして、空になった時を見計らってシンクも磨き、調理台は店が閉まってしまってから、そしてその後は床に這いつくばるようにして、厨房の隅々まで磨き立てる。
 あれこれ、厨房には不似合いな金属や薬品の匂いが立つのに、これもジェロニモがきれいにした換気扇が、ずっと回りっ放しだ。
 「おまえさんも物好きだよなあ、別に張大人に恩があるわけでもなし、こんな汚れ仕事毎回安請け合いしちまうなんて。」
 最後の客が去った後で、汚れた皿をまとめて持ち込みながら、グレートが軽口を叩く。今もジェロニモは、厨房の片隅に坐り込んで、今はろくに見えないような汚れを落としているらしかった。
 グレートに応えて、大きな肩が軽く上下する。別に、と言う意味だ。グレートのこんな物言いはいつものことなので、ジェロニモはいちいち真剣には取り合わない。張大人がいるところで言われても、別におべんちゃらで張大人へむやみに謙ったような返事をすることもなく、できる人間がやればいいことだと、平たい声でそう短く言うだけだ。
 グレートも、特にジェロニモからの興味深い反応など期待はせずに、疲れたなあとひとりぼやきながら、たった今下げて来たばかりの汚れた皿を、シンクに入れる前に料理の跡をこすり落としておこうと、それ用の大きなポリバケツの方へくるりと爪先の向きを変えた。
 これも、べったりと手の汚れる作業だ。最後の客は油っこいものが好きなのか、いかにも食欲をそそる風の料理ばかり注文して、満足そうに去って行った。あの顔を見れるなら、汚れた皿を片付けるのもそれほど苦にはならないなあと、ちょっとぼんやりした頭の片隅で考えていた。
 エビチリソースの残りを掌でぬぐい取っていると、何だか腰の辺りに風にでも巻かれたような感触があって、何だとうつむくと、前掛けがずれているのが目に入った。後ろで結んだ紐がゆるんだかと思っていたら、ゆっくりではあったけれど、前掛けはずるずるとそのまま滑り落ち始め、受け止めなければと思って、空いた方の手を伸ばした時に、そこがチリソースでべったりと汚れているのに気づいた。
 主にはウェイターのグレートの服装は、仕事中はできるだけきれいなままに保つと言うのが信条で、もう店は閉まっていて、後はこの皿を洗う──明日に回したっていい──だけなのだとしても、ずり落ちてゆく前掛けを、べったりと赤い油で汚すと言うのは業腹が先だった。
 とは言え、前掛けが床に落ちてしまうのも許せない。何とか足首の辺りで受け止められないかと念じていると、グレートの声にこちらを向いたジェロニモが、ポリパケツ越しに、この未曾有の惨事──と、グレートは思った──に目を止めたのか、すくりと立ち上がってさっさとこちらへやって来る。もう膝に届こうとしていた前掛けを、グレートの後ろに回ってそこで引き止めて、けれどすぐにつけ直すとか紐を結び直すこともせず、何をしているのか、汚れた手と汚れた皿を体の前からなるべく離して慌てているグレートの後ろで、シンクの水が流れる音が聞こえた。
 片手ずつ、手を洗っているのだと気づいて、洗って濡れた手から水分を落とすのにさらに10秒ずつ、グレートは何も言わずに、同じ姿勢のままジェロニモの助けを待った。
 ジェロニモは、何だかやりにくそうにグレートの方へ軽くかがみ込み、前掛けの紐を、この厨房をきれいにする時と同じほどの丁寧さと静かさで、きちんと結び直してくれた。
 「皿、おれ洗う。置いて行く。」
 グレートがありがとうと言う前に、また背中からそう静かに言って、ジェロニモは元の位置へ足早に戻ってゆく。
 慌てた拍子に、皿を床に落としたりしなくてよかったと、グレートは思う。せっかくジェロニモがきれいにしてくれた床で皿を割ってかけらを散らばしたり、残っていたソースで汚したりする羽目にならなくてよかったと、ちょっとの間胸を撫で──という気分だけだ。手はまだ汚れたままだったから──下ろした。
 「手を洗うついでだ、皿もきれいにして行くさ。」
 また、片隅で丸まったジェロニモの背中に言うともなくそう言って、グレートは蛇口──これもジェロニモがピカピカにしてくれた──にチリソースがついたりしないように気をつけながら、まずは自分の手を石鹸で洗う。泡がつるりと油を流し取って、輝くシンクの中を流れてゆくのを眺めて、ちょっとだけ胸の中が熱くなった。
 ジェロニモが結び直してくれた前掛けの紐は、固くてグレートにはほどけず、申し訳なさそうにそれにもそれにも手を貸してくれたジェロニモと、肩を並べて店を出て、ふたりの頭上には青白い月がきれいにまん丸な夜だった。

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