わがまま (85)



 ぐっすりと、寝入っているのだとばかり思っていたベッドの隣人が、いきなり起き出したので、ジェロニモは、肩から振り返って、どうしたと小声で訊いた。
 体を起こして、ぼんやりとした視線を宙にさまよわせた後、隣人は、闇よりもひと色薄い、濃い茶色の瞳をジェロニモに向けて、
 「クッキーが食べたい。」
 そう、ぼそりと、けれどはっきりと言った。
 寝ぼけているのだろうかと、向けていた背中を回して、そっと彼の方へ寝返りを打つ。そうして、いつもは彼がそうするように、彼の細く見える---だけ---肩を、自分の胸に引き寄せようとした。
 「キミの焼いたクッキーが食べたい。」
 引き寄せる腕を拒んで、腕を振って、また彼が言った。
 ジェロニモは、2、3度素早く瞬きをしてから、さっきまで向いていた方へ、また肩から首を回して振り返る。そこにある時計は、午前3時を指そうとしていた。
 それを見ていた彼も、時間のことは素直に受け取ったのか、桃色の厚い唇をへの字に曲げて、下唇を前に突き出す。
 「今食べたい。」
 声が次第にはっきりしている。寝ぼけているわけではなさそうだと察して、ジェロニモはけれど、ベッドから体を起こすことはしなかった。
 「今、無理。物音、みんな起こす。」
 諭すように、小声で、きっぱりと言うと、またいっそう彼の唇がとがる。
 「明日、作る。」
 もう寝ようと、伸ばした腕に言わせて、ベッドに横たわらせようとするけれど、彼はまだ納得せずに、体を起こしたままでいる。
 頑固なのはとっくに知っているけれど、こんなふうに我を張るのは見たことがないなと、少しだけ意外に思って、彼の肩に掛けたままの手に、ほんの少し力を込めた。
 おととい焼いたクッキーは、みんなに振る舞って、もうない。だから、彼が食べたいと言えば、今から起きて、キッチンで材料を揃えるところから始めなければならない。いくら彼のためとは言え、午前3時にクッキー作りを始める道理はなかった。
 それを、彼がわからないはずはもちろんなく、一体どうしたのだろうかと、ジェロニモは、こちらをじっと見つめている彼を、じっと見つめ返した。
 何か、夢でも見たのかもしれないと、思って、もう一度、抱き寄せるために肩を引いた。
 体は倒さずに、けれど今度は素直に腕を取られて、彼は、そっとジェロニモの肘の辺りを撫でた。
 「今は、だめ?」
 まだ執拗に、彼が訊く。だめだと、首を振って見せて、また彼の腕を引く。唇が、また少しとがって、彼が尋ねるように首を振るのに、ジェロニモはまた首を振り返した。
 「じゃあ、明日?」
 まるで子どものように、らしくもない必死な様で、重ねて訊く。ジェロニモは、ベッドから軽く首を起こして、うなずいて見せた。
 「ほんとに?」
 ほんとに、と言ったままを口移しにして、またうなずく。
 「じゃあいいや。」
 やっと、唇がにっと笑った。
 引き寄せていた腕が、するりと動いて、頬に伸びる。裸の胸に、裸の胸が重なって来て、頭を抱え込まれる。
 眠る前の儀式のようなものだと思って、自分よりもはるかに小さな背中に、静かに腕を回した。
 唇が外れると、親指が濡れたそこを撫でて、黒々と吸い込まれそうな瞳が、まつ毛の触れそうな近さで瞬いていた。
 「もしかすると、クッキーを焼く方が、静かかもしれないね。」
 どういう意味だと、眉根を寄せた時には、彼の唇が喉を滑っていた。
 胸に下りた掌が、厚い筋肉の盛り上がりをなぞって、その後を唇が追い駆けてゆく。
 「・・・ナッツか、レーズンか、チョコレートチップか、どれがいいかな。」
 小声で言う息がかかって、思わず息を止めると、歯列を割るように指先が入り込んで来て、それから、唇が胸の上で止まって、弾くように動く。
 差し入れられた指先を噛まないように、けれどそうすると、声がもれる。
 舌に乗っていた指が、唇の外へ滑り出る。あごを伝って、喉と鎖骨を撫でて、彼の体が、もっと下へ下がる。
 笑う声が、下から聞こえた。
 「みんなが、起きちゃうよ。」
 からかうように言って、唇と舌が動いて、生暖かく包み込まれた。
 いつもより、もっと巧みに、丁寧に動く舌先が、耐えようとする声を許さない。
 彼の、形のいい頭を、脚の間に抱え込んで、背中を丸めて、ジェロニモは、クッキーのことは、単なる口実だったのだろうかと、気をそらすために考えた。
 滅多と、彼の言うことに異を唱えないジェロニモの、Noに対する意趣返しなのだろうと思いながら、深く飲み込まれてまた、耐え切れずに声をこぼす。
 顔を上げて、唇を舐めて、彼が、にやっと笑った。
 確かに、素直にキッチンでかたこと音を立てた方が、静かだったかもしれないと、心の中でこっそり思ってから、ジェロニモは体をずり上げてくる彼を抱き止めて、声を殺すことをあきらめた。


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