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発する声 (58)

 ピュンマが何かやっている。大きさがばらばらの、色合いもばらばらの紙の束をいくつか抱えて、片方の紙から別の紙へ、濃い青インクの万年筆を滑らせて、文面を書き移す作業をしているらしいことは見て取れる。
 空っぽのキッチンで、皆が集まる大きなテーブルに、その様々な紙片を目一杯広げて、あれを手に取りこれを手に取りしながら、時々手にした紙面の上に小さくメモらしき文字を書き入れたり、矢印や線を走らせたり、あるいは右肩に小さな数字を書き置いたり。
 書き移されている元の字も、書き移した後の文字も、両方ともジェロニモには文字とさえ見えず、どうやら左側ではなく右側から文章の始まるらしいそれを、右利きのピュンマがすらすらと万年筆を滑らせる様も、まるで手品のようだ。
 脳内翻訳機を使って、読もうと思えば苦もないそれを、けれどそうするのは、何か必死の作業に没頭しているピュンマに失礼な気がしたから、ジェロニモはあえて何をしているとも何を書いているとも訊かず、作業の隙間を見計らって、左側からそっと淹れ立てのコーヒーを差し出すだけだ。
 ピュンマが卒業した大学で、何か必要だと求められた書類か文献か、そんなものなのかもしれない。まともな教育を受けたことのないジェロニモにはよく分からないけれど、大学で様々なことを学んだピュンマは、今も同じように大学に関わり、独学で学ぶことも続けている。卒業証書をもらった後も勉強は続くのだ。
 動物保護法を、政府のためにまとめるグループに関わった後で、ピュンマは政治学にも興味を持ち、けれどアメリカやヨーロッパの、すでにあれこれの思想とそれぞれの言語と文化によってねじ曲げられた理論は、ピュンマに言わせればピュンマの国が求めるそれではなく、そうなれば自分たちが独自に自分たちの理想のためにきちんとした理論を組み上げなければならないのだと、そう熱弁をふるったのはいつのことだったか。
 口にしたことは必ずやり遂げる男だから、こつこつと独学で、本を読み知識を集め消化し、少しずつ少しずつ、細部にも気をつけなから、その理論とやらの形を整えてゆく。その間に、めまぐるしく変わる自国の状況に時々は絶望もしながら、それでも形あるものが残れば、受け入れるでも変えてしまうでも、後で好きにできると、辛抱強く前へ進んでいる。
 希望を捨てないと言うことが、ピュンマの希望のひとつだった。
 近頃ピュンマが一心不乱なのも、その作業のひとつだろうと、特に口出しもせず質問もせず、政治の類いにははるか昔に興味を失ったジェロニモ自身は、根を詰めるピュンマの日々の顔色だけを心配して、今日はコーヒーと一緒に、すぐにつまめるサンドイッチを作り、ついでに小さく切ったリンゴは、手が汚れない──触わる紙を汚してしまうから──ように小さなフォークをつけるかと、考えるのはそんなことだ。


 夕べあまり眠らなかったらしいピュンマは、近頃少し細くなったあごに薄く髭を残したまま、午後は部屋から出て来ない。
 昼食は皆で一緒に済ませて、その時すでに口数が少なかったのを気にしていたジェロニモは、今日は休みのつもりで部屋で昼寝かと、できるだけ邪魔をしないように足音さえ忍ばせていたけれど、それでも午後も遅くまで気配ひとつないのに、ついには心配の堪忍袋の緒が切れ、様子を見にピュンマの部屋のある2階へ上がって行った。
 昼間のギルモア邸はいつも静かだ。皆仕事に出て、あるいはイワンの散歩に出掛けて、ギルモア博士は書斎で読書か論文の執筆作業だ。
 ようするにピュンマがいなければ、自分も世話する誰もいずに手持ち無沙汰と言うことなのだと、ジェロニモは自分のことをちょっとだけ反省し、ともかくも静かにピュンマの部屋のドアをノックした。
 返事はない。けれどドアの前に立つと、中ではピュンマが話している声が聞こえる。誰かと電話中だろうかと思ってから、いやこの部屋には電話はないと思い直す。
 ああ、コンピューターか、とジェロニモは思った。他の国の誰かと話をしているのかもしれない。そう言えば、聞こえる言葉はピュンマの村の言葉だ。
 いつもなら、絶対に邪魔をする気にはならないのに、今日はなぜか、昼食の時に見た、ピュンマの疲れて険しく眉を寄せた表情がひどく気になって、せめてひと言だけでも声を掛けたいと思ったジェロニモは、もう一度小さく──さっきよりは少し大きく──ドアを叩き、それからまず細くドアを開けた。
 そこから顔を差し入れると、真正面に、机に着いたピュンマの背中が見える。背を丸めて、頭にはヘッドフォンを乗せて、体の陰から見えるのは確かにノートパソコンで、やはり誰かとコンピューター越しに話をしているのだと思ったジェロニモは、さらに気配を忍ばせてドアを開け、そっと部屋の中へ足を踏み入れた。
 ピュンマは、目の前のモニタに向かってやや声を張り上げるようにして、近づけば手には何かの書類を持ち、どうやらそこに書かれた文面を読み上げているのだとわかる。
 モニタには細い棒が色違いで何本が立ち、ピュンマが喋るたびに、高さを始終変えて動いているのがジェロニモにも見えた。
 「ピュンマ。」
 2歩後ろから声を掛けた。ピュンマの背は動かない。ヘッドフォンのせいで、多分他の音は遮断されているのだろう。驚かせないように注意して、ジェロニモはそっとピュンマの肩へ手を乗せた。
 「うわあっ!!」
 ジェロニモの気遣いはまったく役に立たず、侵入者の気配など微塵も感じていなかったピュンマは、突然肩に触れられて、文字通り椅子から転げ落ちそうに驚いた。
 慌ててヘッドフォンを外しながら、誰だと確かめるために振り向いて、全身で狼狽を表した後で、そこに立っているがジェロニモだとわかるとすっと体から力を抜いた。そして一瞬後には、書類を持ったままの腕を振り上げながら、
 「おどかさないでくれよっ!」
 いつもの冷静沈着はどこへやら、ほとんど激昂と言ってもいいような語調の荒さで、ジェロニモに食って掛かる。
 「すまない。静か過ぎ、心配して見に来た。」
 ピュンマは突然はっとしたように後ろに振り返り、コンピューターのマウスを操作して、モニタ上で動き続けていた色違いの棒たちが動き続けていたのを止めた。
 「・・・やり直しだ。」
 落胆したようにぼそりと言う背中が、さっきとは打って変わって、悄然と丸まる。
 自分のせいだと咄嗟に思って、謝ろうと爪先を滑らせ掛けると、ピュンマはくるりとジェロニモの方へ振り返り、うんざりしたような表情を隠しもせずに、
 「すまないけど、ひとりにしてくれ。終わったら下に行くよ。」
 ピュンマのその表情が、何やら大失敗したらしい自分に向けられたものか、それともやり直しと言う作業に向けられたものか、どちらか訊く前に、ピュンマはジェロニモに背を向けて、また椅子に坐り直してしまった。
 「・・・後で。」
 「ああ、後で。」
 ヘッドフォンを頭に乗せ直しながら、ピュンマが一応ジェロニモにそう答えてくれた。
 ジェロニモは、入って来た時よりもいっそう足音を消して、同じように静かに階下へ降りてゆく。大きな肩がしょんぼりと丸まったままだった。


 午後は結局そのまま終わり、夕食の時間に合わせて皆が帰って来ると、ギルモア邸は途端に騒がしくなる。その騒がしさに紛れるように、いつの間にかピュンマも疲れた顔のまま姿を現し、けれど特に声を掛ける間もないまま、フランソワーズと張大人が準備した夕食を、ジェロニモが手伝って、見た目だけは和気藹々の食卓になった。
 食事が終わると、ピュンマは現れた時と同じほどひっそりとまた姿を消し、部屋へこもったのだろうと思ったジェロニモは、もうコーヒーを差し入れることもせず、いつものように張大人と一緒に台所をきれいにして、三々五々適当に自室へ引き上げてゆく皆の背を見送って、最後に残ったコーヒーに、やれやれと手を着けようとしたところだった。
 「まだコーヒー残ってるかい。」
 疲れた声だったけれど、少なくとも不機嫌ではなさそうだった。
 すっかり香りの飛んでしまった、しかも注げばマグには半分くらいしかないそのコーヒーを片手に、ジェロニモは黙ったまま首を振る。
 「そうか・・・。」
 一応は笑みを浮かべて、コーヒーはもしかして自分に声を掛けるための口実だろうかと思いながら、ジェロニモは空になったコーヒーポットをシンクにそっと置き、
 「何か淹れる。」
 いつもより、意識して優しい声でピュンマにそう言うと、
 「ああ、頼むよ。」
 どこか肩の荷を降ろしたような、ややほっとした声音でピュンマはひらひらと片手を振り、さっさとリビングの方へ行ってしまった。
 ピュンマが行ってしまうと、ジェロニモはさてどうするかと素早く思案する。コーヒーなら間違いないけれど、何となくそれは最初から除外して、ジェロニモはコーヒーのポットを洗いながらピュンマのために考え続けた。
 明日の朝のために、コーヒーメーカーをいつものようにぴかぴかにした後、自然にそうなったように冷蔵庫に手が伸び、まずはミルクを小さな鍋にゆっくりと温め始める。同時に、湯も沸かして、それから大き目のマグに、ココアを取り出した。
 少量の湯でココアを練る。丁寧にしっかりと、なめらかになって溶けたチョコレートに見えるようになるくらいまで練る。それからまた少温まったミルクを少量注いでからもう少し練って、同時に砂糖も入れた。今夜は少し多めだ。コーヒーには砂糖もミルクも入れないピュンマだけれど、今夜は甘いものの方がいいと、ジェロニモは珍しくひとりでそう決めた。
 味も香りもすべて失せている自分の分のコーヒーと、ピュンマのために淹れた甘いココアを片手ずつに持って、ジェロニモはリビングへ行く。テレビもつけず、ピュンマは3人掛けのソファに全身を伸ばして、もう半分眠り掛けている様子だった。
 ジェロニモはわずかに隙間のあるソファの真ん中辺りの端へ腰を引っ掛け、わざとソファを少しだけ揺らす。ピュンマが目をはっきり開けて、ああ、と小さく声をこぼした。
 「いい匂いだな。」
 今日初めて、ピュンマがジェロニモに向かって微笑む。ゆっくりと言うよりはのろのろと体を起こして、ジェロニモの方へ手を伸ばして来るのに、ジェロニモは自分に向かって開くピュンマの掌に、持って来たばかりのココアのマグをそっと添えた。
 ジェロニモ同様、手を使う汚れ仕事をよくするピュンマ──ゲリラ戦の塹壕堀りや隠れ家の穴掘りは、ずいぶんな肉体労働だ──のそこの皮膚は厚く、生身のまま再現されたサイボーグの掌には、淹れ立てのココアの温度などどうと言うこともない。
 紫がかった茶色の、その甘い匂いに、ピュンマの表情がいっそうほころぶ。近づける唇の色が、そう言えばそのココアそっくりだった。その眺めに視線を奪われて、ジェロニモはふと照れながら自分のコーヒーに口をつける。
 「何してた。」
 じきに日付の変わるこんな時間に、これもやっと交わす、今日初めてのまともな会話だ。ピュンマは両手に抱えたマグを口元から離さず、
 「声を、録音してたんだ。」
 ココアで濡れた唇を、鮮やかな桃色の舌先がぺろりと拭う。
 「声?」
 「ああ、文字がないから、声で聞くんだ。僕が読んで、録音して、それを聞かせる。大人にも、子どもにも。色んなことをね。僕らの村のこと、国のこと、隣りの国のこと、大学のことや戦争のことや、他の国のこともだ。密猟禁止のことも、動物保護法のことももちろん。それから、僕らの使う言葉に文字がまだないこともね。」
 まだ、と言うところで、ピュンマの声が少し重くなった。
 「いろんな文献を集めて、僕らの言葉に直して、それを読んで、録音して、聞き直して、また録音し直して、文章や言葉を変えて、繰り返しだ。もう自分の声を聞くのなんかこりごりだよ。」
 やり直しと言っていたのはそういうことだったのかと、やっと合点が行って、なるほど確かに、想像しただけでうんざりするような作業のように、ジェロニモにも思えた。
 文字がないのはジェロニモの部族の言葉もそうだ。何かを伝えて後に残そうとすれば、何もかも口伝えにするしかない。それでも今は、こうやって言葉を永遠に音として記録しておける手段があるだけましなのかもしれない。とは言え、手段があると言うことと、誰かがそれを実際にやると言うことはまったく別物だ。こうやって、考えたことを実行するピュンマの、相変わらずの情熱に感嘆しながら、こんなココアくらいでは足りなかったなと、ジェロニモはひとり胸の内で頭を垂れていた。
 「・・・昼間は、怒鳴ったりして悪かったよ。疲れてたんだ。ごめん。」
 マグで顔を隠さずに、ピュンマがけれどジェロニモの方を見ずに言う。声が、叱られた子どものように小さくなったのを笑って、ジェロニモは、
 「別に、いい。」
 短く返したきり、その話はそこで終わらせた。
 自分が同じことをしなければならないとしたら、そもそも手を着けさえしないだろうとジェロニモは思う。そんなことを考えついて、そしてきちんと実行しているピュンマは、やはり自分とは次元の違う人間なのだと改めて考えて、そうして、甘くしたココアではとても足りないピュンマへの労いと賞賛のために、気がつくとマグを持った手を替えて、空いた方の手を、ピュンマの頭へ伸ばしていた。
 他の誰とも手触りの違う、ピュンマの固く巻いた髪。土の色に良く似たピュンマのそれは、大地にしっかりと根を張った、たくましい植物のようだ。色は似ていても自分のそれは根無し草かもしれないと、少しだけ淋しく感じながら、だからこそこのピュンマの靭さに魅かれるのだと改めて思って、ジェロニモは大きな掌でピュンマの頭をゆっくりと撫でた。
 ピュンマは肩をすくめ、けれどやや首を伸ばして、驚きと照れを刷いた表情をジェロニモに見せながら、またココアをひと口飲んだ。
 「ジェロニモ。」
 また頭を撫で続けているジェロニモに向かって、ピュンマが少しだけ声の調子を変える。
 「なんだ。」
 まだ手はそこに乗せたまま、けれど撫でる動きは止めて、ジェロニモは返事をした。
 「君に、頼みがあるんだ。」
 「たのみ?」
 ピュンマが自分に頼み? 一体何だ、とピュンマから思わず手が離れ、何か手の足りない力仕事でもあるのかと、ちょっとだけ身構える。
 「・・・いや、その・・・フランスの小説家が、恋人に宛てたって言う詩みたいなものがあるんだ。」
 フランスと聞いてまずフランソワーズが浮かんだけれど、実はピュンマのフランス語の方が発音はやや古くて美しい。ジェロニモもフランス語は、フランソワーズと天気の話くらいはできる程度に知識があった。
 「それを、フランス語と、英語に訳したのと、君の言葉にしたのを、読んで録音させてくれないか。」
 話の流れは理解できたけれど、自分が何かを朗読すると言う光景がうまく実体を結ばず、ジェロニモはそれに向かって思わず目を細めた。その仕草を、不興と取ったらしいピュンマが、慌てたように言ったことを半分ほど取り消そうとする。
 「いや、君がいやならフランス語だけでもいいんだ。いや英語でもどっちでもいい!」
 英語ならそれこそグレートの方が、とちらりと思ってからようやく、ジェロニモは、ピュンマが言っているのは自分の声のことなのだと思い至って、朗読も詩も、それは単なる口実でしかないと言う、ピュンマと言う男にしては筋の通らない可愛らしい話だと、頬の赤くなる思いがした。
 けれど、むしろその方が、ジェロニモにとっては受け入れやすい話だった。
 「・・・やってもいい。」
 「フランス語で?」
 問い詰めるように言うピュンマに、ジェロニモは黙ってうなずいた。目線は床の上だ。
 「英語も?」
 またうなずく。
 「君の部族の言葉でも?」
 今度は、首を折る前に1拍だけ考えた。そしてまた、黙ったままうなずいた。
 「・・・じゃあ、明日かあさってか、準備しておくよ。」
 ジェロニモの気が変わらないうちにと思うのか、ピュンマはやけに早口でそう言う。後は、またココアを、両手に抱えて飲む仕草が不意に稚なじみて、よく見なければわからないけれど、表情から察するにはにかんでいるのだと、ジェロニモは思った。お互い、肌の色が違えば、赤らめた頬がよく見えるのだろう。そう思うジェロニモも、頬と首筋の辺りが熱いのを持て余すように、傾けたコーヒーのマグで口元を隠すのが精一杯だ。
 距離があれば、手紙のやり取りくらいしか思いつかないジェロニモだったけれど、互いに文字のない言葉を母語にして、書いて交わすのはいつも英語だ。声なら、確かに互いの言葉をそのまま聞くことができる。電話もまだきちんと通じてはいない場所にいることも多いピュンマには、事前に録音したジェロニモの声も慰めになるのだろうか。
 ピュンマのためにジェロニモの声を録音したら、今度はいつか、ピュンマが手紙の返事を録音して聞かせて欲しいと、ジェロニモは思った。ピュンマが、自分の言葉で語る声。フランス語でも英語でもなく、脳内翻訳機ですでに訳されてしまった後の声ではなく、ピュンマが発するそのままの声を、いつでも聞きたい時に聞くために取っておきたいと、ジェロニモは思った。
 その声を、想像の中で耳元へ引き寄せて、ジェロニモはまたひとり頬を赤らめ、ピュンマもまた、照れて肩をすくめたままでいる。
 サイボーグでなければ言葉も通じ合わないふたりは、けれど今だけは交わす言葉も必要はなく、空気さえ発する声で震わせることもせずに、ただ同じ空間に一緒にいた。それだけで今は充分だった。

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* miyabiさまへ捧ぐ。遅くなりましたが、58でリクありがとうございました! 無駄に長くなってすいません。煮るなと焼くなとどうぞお好きにー。