散歩 (1&5)



 イワンを連れて、散歩に出る。
 ジョーとふたりで、ゆっくり出掛ければいいとか、そんなことは一言も言わずに、けれどついでだから買い物もして来るとは言って、フランソワーズがうれしそうに渡したメモを持って、ジェロニモは、外へ出た。
 大きなジェロニモが、窮屈そうにやや背を丸めて、ベビーカーを押して歩く姿は、どこへ行っても人の目には奇異に映るのか---もっとも、ジェロニモ自身、どこへ行っても人の視線を浴びるのだけれど---、時折、自分たちを振り返って行く人たちを、イワンが訝しげに、ベビーカーの中から目で追う。
 そろそろ夏も終わりだ。この間まで、外へ出るたびに、陽を浴びすぎて真っ赤にならないように、イワンのやわらかな皮膚に、必死で日焼け止めのクリームを塗っていたフランソワーズが、やっと少しだけ息を抜ける季節が近づいている。
 洗濯物が早く乾くのはありがたいけど。
 額の汗を拭いながら、フランソワーズが真っ白な太陽を見上げて、そう言ったのを、ジェロニモは何度も聞いた。
 その洗濯物というのが、実はイワンのおむつだけを指しているわけではないのだと、知っているのは、フランソワーズの家事の手伝いをするハインリヒやジェロニモだけかもしれない。
 近いうちに、張大人とハインリヒとピュンマに相談して、フランソワーズをねぎらうために、ひとりででもジョーとふたりででも、旅行にでも行ったらどうだろうと持ちかけてみようかと、歩きながらそんなことを考えている。
 ---イイ天気ダネ。
 まるで、かすかにそよぐ風を、もっと感じるためのように、イワンが指先を宙に上げる。
 いい天気、とイワンが言ったそのままを、短く繰り返して、ジェロニモは、ほんの少しだけ、ベビーカーの進む速度をゆるめた。
 平らに見える舗道は、それでもひびや歪みがあって、わずかにベビーカーの車輪に引っ掛かる。なるべくイワンに、そんな振動が伝わらないように、舗道のでこぼこを避けて進む。
 イワンの重さなら、羽毛ほどにも感じないジェロニモにとっては、イワンを抱いて運んだ方が楽なような気がするのだけれど、赤ん坊には赤ん坊の目線の高さがあって、そこにだけとどまることにはまた問題があるだろうと思えるにせよ、自分たちの目線にばかりイワンを合わせるのは、あまり良いことではないような気がすると、ジェロニモは、口にはせずに思っている。
 イワンには、イワンが経験すべき世界があるのだと、他の人間たちと、滅多と合うことのない自分の目線の高さの世界を、ジェロニモはぐるりと見渡した。
 そうして、ベビーカーの中のイワンを見下ろして、運ぶというのは、何だか荷物みたいな言い方だなと、ほんの少しだけ反省した。
 買い物が終わったら、帰りは別の道を通ろうと、イワンの喜びそうな場所を思い浮かべていて、ふと、狭い歩道の上の、動く黒い線に気づく。
 ベビーカーの車輪がそこへ引っ掛かる前に、押すのをやめて、ジェロニモはその線へ近づいた。
 子どもが、食べていたアイスクリームをうっかり落としてしまったのだろうか。ぎらぎらした黒いアスファルトの上に、とろりと溶けた白いかたまりと、そこへ群がる蟻たちと、腰を折ると、濃い甘い匂いが、鼻先をかすめた。
 蟻たちは、ジェロニモの大きな影にも、そのわりには静かな足音にも、一向に驚く様子もなく、一心不乱に溶けたアイスクリームに群がって、一体どこに巣があるのか、歩道を下りた車道の端を、まるで黒く流れる水のように、うねうねと歩いてゆく。
 ジェロニモは、空を見上げて、しばらくは雨の降りそうにないその色に、少しだけ安堵して、また足元の蟻たちを見下ろした。
 ---ドウシタノ?
 上にかぶったひさしのせいで、こちらが見えないイワンが、急に立ち止まってベビーカーから離れてしまったジェロニモに、テレパシーで話しかけてくる。
 「アリ、食料運んでる。」
 ベビーカーを覗き込んで答えると、イワンが、ああそう、と興味もなさそうな表情を浮かべた。
 ジェロニモは、イワンをベビーカーの中から抱き上げて、いつもそうするように片手におさめると、もう一方の手で、軽々と空になったベビーカーを持ち上げた。
 ---ドウスルノ?
 「あちら側へ行く。」
 軽くあごをしゃくって、蟻のうごめく黒い線を示して、ジェロニモは、それから、その線を慎重に大きくまたいだ。
 足元に視線を当てて、前と後ろと、両方へ視線を動かして、爪先やかかとに、蟻の姿のないことを確認して、黒い線を後ろに眺めてから、ジェロニモはやっとベビーカーを地面に戻した。
 ベビーカーの中に戻されながら、イワンが不思議そうにおしゃぶりを動かして、上目にジェロニモを眺める。
 ---アリダネ。
 ん、とうなずくと、イワンが肩をすくめた。わざわざ無駄なことをと、そう思っているのだと隠さない仕草だったけれど、ジェロニモはそれに気づかないふりをして、イワンをまた、丁寧にベビーカーの中に寝かせた。
 もう一度振り返って、蟻の群れが、何事にも煩わされずに、黙々と働き続けているのを確かめて、ジェロニモはまた、ベビーカーを押して歩き始めた。
 そろそろ、買い物のための店へ近づいた頃、イワンが不意に、ジェロニモに話しかけた。
 ---じぇろにも。
 ---なんだ?
 人通りの多い道だったので、脳内通信装置で応えながら、前に注意したままイワンを見下ろす。
 イワンは、やけに大人びた仕草で、また肩をすくめて見せてから、まるで秘密を打ち明けるように、小さな声---テレパシー---で言った。
 ---ふらんそわーずモ、キットキミト同ジヨウニ、蟻ヲ踏マナカッタト思ウ。
 とても重要なことを打ち明けられたように、ジェロニモは眉を上げて、それから、ひどく真剣な眼差しをイワンに注いだ。
 必死な様で、ああやって様々なものを運ぶ蟻たちと、いつもイワンを、その胸に抱いているフランソワーズと、何かが似通っているような気がして、けれどそれをうまく説明はできず、イワンに、今自分が思っていることが伝わるだろうかと、ジェロニモはまた目を細めた。
 イワンはそれ以上は何も言わず、一度だけもぐもぐとおしゃぶりを動かして、照れ隠しのように眠ったふりをし始める。
 買い物が終わったら、帰り道は、イワンを抱いて、空のベビーカーを押して帰ろうと、ジェロニモはそう決めて、またベビーカーを押した。


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