水の記憶 (1&8)



 海へ行きたいなと、イワンが言った。
 ピュンマは、水着に着替え、イワンに、水泳用のおむつを当てて、タオルにくるんだ小さな体を、海へ運んでやった。
 泳ぐことはできなくても、力を使って、水の上に、浮いていることはできる。
 ピュンマが、足の届かない程度の沖へ出て、ふたりで、波の動きを楽しんだ。
 ------ミズノナカハ、ドンナセカイダロウ。
 腕を動かして、イワンの傍から離れて行かないように、体のバランスを取りながら、ピュンマは、銀色の髪の赤ん坊を、じっと見つめた。
 肩をすくめ、もっと沖の方を眺めてから、ふと、思いついたことを口にする。
 「イワン、キミは、赤ん坊の頃のことを、憶えているかい?」
 イワンの、小さな口元が、苦笑に曲がった。
 ------ボクハイマデモアカンボウダヨ。
 今度は、ピュンマが苦笑を浮かべる。
 「わかってるんだろう、ボクの言ってる意味が。」
 少し大きな波が、ふたりの間を縫って、揺れたふたつの体の間が、ほんの少し遠去る。
 長い腕を伸ばし、海水に、ぷかりぷかりと浮いたまま、イワンの小さな体を、そっと抱いた。
 ------テアシヲマルメテ、ネムッテイタ。サマザマナオトガ、キコエタ。
 巻いた腕の中にある、あまりにも頼りない、小さな体からは、どうしてか、ミルクの匂いがしない。
 それは、母親の匂いだから。
 イワンの頭を撫で、頬に頬をすりつけ、決して成長することのない、赤ん坊の姿のままの仲間のことを、ピュンマは、ほんの少し、憐れに思った。
 歪んだ目元を見上げて、イワンが、また苦笑をこぼす。
 こちらの心の動きなど、手に取るようにわかっているのだろうから、下らない同情を、笑われているのだろうと思う。
 この、小さな体に閉じ込められた、つかみどころのない、魂の色は、一体何色だろうかと思って、そう言えば、サイボーグに魂なんてあるんだろうかと、自分の思考の脈絡のなさを、ひとりで嗤う。
 イワンを抱きしめて、ピュンマは、波立つ水面の動きを、静かに目で追った。
 「息を止めて。」
 抱きしめたまま、言った。
 イワンの小さな手が、ピュンマの肩にしがみついた。
 勢いよく跳ねた、黒いしなやかな体が、白い小さな体を抱いて、海の中へ潜る。
 イワンが首を回して、自分を包む水の世界に、じっと目を凝らす。
 空気の泡と、水の圧力と、水の揺れる音に包まれて、ふたりは、どこまでも、水の中を潜る。
 ------アタタカイネ。
 イワンの声が聞こえた。
 ------ああ、暖かいな。
 脳から発する声で応え、ピュンマは、潜る動きを止めた。
 水の動きにつれ、ゆらゆらと、イワンの銀の髪が泳ぐ。
 水の膜のかかった視線を交わして、ふたりで笑ったのは同時だった。
 ------ママハ、ボクヲ、ダイジニシテクレテタ。
 水を足で蹴りながら、ピュンマは、小さな体を、ぎゅっと抱いた。
 「今度は、もっと深く潜ろう。もっともっと、深く。」
 唇からもれた泡が、ごぼりと音を立てて、さっき潜って来た方向へ、ゆっくりと上がってゆく。
 その行方を、あごを上げて、目で追って、行こう、とピュンマは言った。
 ------ウミノナカハ、アタタカイネ。
 こぽりと、イワンの小さな口から、小さな泡があふれて、ピュンマの大きな泡を、ゆっくりと追い上げてゆく。
 酸素に満ちた世界へ戻るために、イワンをしっかりと抱きしめて、ピュンマはまた、思い切り足を蹴った。

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