十二夜



 おやすみ、とハインリヒは言った。
 立ち去る彼と肩を並べ、ジェットが一緒に姿を消す。
 ちらりと視線を投げると、ハインリヒの肩に、ジェットの長い腕が回るのが見えた。


 夜ももう遅い。
 夏の夜は、更けるのが遅く、夏の朝は、あっという間にやって来る。
 まぶたを差す朝日は容赦がなく、寝過ごすなどもってのほかとばかり、ゆるやかな眠りを貪りたい恋人たちを、不躾な明るさの中へ引きずり出す。
 それを知ってか知らずか、恋人たちは秘やかに夜の帳の中へ滑り込んで、一瞬の間さえ惜しんで、夜を、秘められた熱で満たす。
 夏の暑さとは異なる熱で、互いを封じ込めようとする。朝になれば、引き裂かれてしまう、ふたつの異なる肉体だったから。


 夜の暗さに引きずられたように、気持ちも沈んでゆく時間。
 グレートは、ウイスキーのボトルと、お気に入りのグラスを持って、裏庭へ出た。
 星空と月。ひとり酒に適した季節ではないけれど、気分が落ち込むのはやりきれない。
 長椅子に身を横たえ、グラスを酒で満たす。
 酔いが、深い眠りを運んでくれることを期待して、杯を重ねるつもりでいた。


 胸を痛めるのは、微かな嫉妬。きりきりと胸を絞り、けれど、なければ人生を味気なくする、救いようのない気持ち。
 これは恋だ。
 恋と嫉妬は、まるで体のつながった双子のようなもの。どちらも一緒に、そこにある。嫉妬のない恋は退屈で、恋のない嫉妬は醜いだけ。
 胸の痛みを、グレートは、掌に乗せたマーブルのように、玩ぶ。
 痛み。甘やかな、それ。
 愛しい恋人は------いや、想いも通じぬ相手を、恋人とは呼べぬ。おもいびと、と呼ぼう。
 彼は、誰かの胸で憩っている。この夜の片隅で。
 どんなふうに、愛を紡ぐのだろう。荒々しく? 激しく? それとも静かに? 言葉は? 無言のまま? 
 赤毛の青年を、胸に抱くのか、それともあのひょろ高い肢体に、包まれて眠るのか。
 どちらにせよ、ワガハイには関わりのない話。


  "音楽が恋の糧であるなら、つづけてくれ。食傷するまで聞けば、さすがの恋も飽きがきて、その食欲も病みおとろえ、やがては消えるかもしれぬ"(十二夜)。
 森が近いこの家の裏庭は、夏の夜は存外騒がしい。
 夜のいきものが、動き回る音を立て、虫が鳴く。
 それに重なるように、観客のいない夜に向かって、ふと浮かんだ台詞をつぶやく。
 夏の夜の空気は湿って重たく、息苦しく胸を締めつける。
 大気よりも重く、ため息をふりこぼした。
 この恋は、少しばかり勝手が違う。
 何しろ相手が、女ではない。人間ですら、ない。
 全身武器の、サイボーグ。あだ名は死神。
 殺気と冷笑をまとって、破壊と流血を運んでくる。
 愛する芸術とは、正反対のもの。それでも彼は、まるで彼自身が神そのものであるかのように、輝いている。時には、神々しく。
 だから、魅かれたのか。

 
 ジェットが空を飛ぶたびに、グレートは天使を連想する。見えない白い大きな羽を広げて、空を飛ぶ。
 天使と死神の、奇妙な組み合わせ。
 ふたりの瞳に、互いしか映っていないことに気づいたのは、一体いつだったろう。
 恋する者の敏感さで、グレートは、即座にそれを悟った。
 ふたりの間の、小さな仕草、他愛のない言葉のやりとり、視線の行方、指先の表情、そんなものすべてが、恋としか呼べない気持ちを、明らかにしていた。
 赤毛の青年は、愛しげに、グレートのおもいびとを見つめ、おもいびとは、赤毛の青年に、はにかみを含んだほほえみを返す。お得意の、冷笑ではなく。
 嫉妬、とまたグレートは思った。
 酔わなければ、やり過ごせない痛み。眠りを妨げる、醜い胸のうずき。
 望むことすら馬鹿らしい想いだとしても、恋は止められない。身内でふくれあがる想いを、だから持て余して、こうして酒を飲んでいる。
 酒に酔えば、恋の酔いを、忘れられるから。

 
 せつない、とがらにもなく言ってみた。
 それでも、こんなに甘く酔えるのは、恋のせいだ。
 つらさに陶酔できるのも、恋の効果だ。
 誰も愛せずに時を過ごすなら、片恋に胸を焦がす方が、世界がまだましに見える。
 それでも、痛みは、痛い。
 重なる、ふたつの体。人工皮膚に覆われた、薄い胸と、鋼鉄の体。硝煙の匂いの消えることのない指先で、彼が、赤い髪をすく。愛しげに、おそらく。
 生身ではない、普通の恋の許されない体で、それでもふたりは、この夜のどこかで、愛を紡いでいる。必死に。明日のないことを、心の片隅で、いつも予感しながら。
 ワガハイは、そのかやの外。もう一方の世界の端で、背中を向けて酒を飲む。


 おもいびと。"君を夏の日に喩えようか いいや、君の方が美しく、穏やかだ"(ソネット集)。
 ハインリヒ。名を呼ぶと、怪しく舌がもつれた。
 グラスを、月に向かってかかげる。まるで、乾杯のように。
 レモンの形の、オレンジ色の月。歪んで見えたのは、涙のせいだったのだろうか。
 部屋に戻る気には、まだなれなかった。微かな気配さえ、感じるのが怖かったので。
 "気疲れでもつれた心の糸をすっきりと解きほぐしてくれる安眠"(マクベス)。
 グラスを地面に置くと、グレートは胸の前に両手を組み、ゆっくりと目を閉じた。
 酔いにゆったりと漂いながら、彼の夢を見るかもしれないと思った。


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