14 - Genderswapped / 性転換
ふたりとも酔っていた。酒の量はそれほどでもなかったけれど、面倒な事件の後で、体よりも気持ちの方が疲れていたから、うだうだと他愛もない話をしながら、いつまでも酒が途切れない。突然、グレートがぼそりと言う。
「・・・おまえさんが女でなくて良かったな、つくづく。」
いつもならぎょろりとむいた目が、今は酔いでちょっととろんと焦点が定まらず、まぶたも重そうだ。ハインリヒは口元へ運んだグラスの位置はそのまま、そこから、あ?と硬い声を出した。
「一体何の話だグレート。」
「いや別に。」
ごくっと飲み込んだ酒で上下する喉仏を、ハインリヒはじっと眺めて、
「俺が女だったら、冷笑家の皮肉屋どころじゃ済まなかったって話だろう。」
女ってヤツは、とその後に付け加えて、ハインリヒは言った通りに皮肉笑いに唇の端を曲げて見せる。
グレートが、ほとんど見えない眉を丸く上げて、ハインリヒを見当違いを笑い飛ばさずに、説明のために言い継いだ。
「"弱きもの、汝の名は女なり"(ハムレット)、いや、おれが言ってるのはそういうことじゃない。おまえさんが女だったら、おれはこうして心安らかに、一緒に酒なんぞ飲んでられなかったろうって話さ。」
グレートの酔いのせいか、それとも自分自身の酔いのせいか、ハインリヒは話が見えずに、眉の間をはっきりと寄せた。
「昔は酔っ払うたびに失敗ばかりやらかしたが、おまえさん相手じゃ、やらかしようもない。」
「──酔った挙句の過ちってヤツは趣味じゃない。」
にべもなくハインリヒが切って捨てる。グレートは、気を悪くした風もなく、へらへら声を立てて笑った。
男であれ女であれ、身持ちの悪いハインリヒと言うのが想像できないグレートは、酔った勢いで口説いて、拒まれた上で念押しにひっぱたかれる自分を想像して、ひとり楽しくなって笑い続けた。自分を張り倒すその右手は、生身で、そして指の細くて長い、女の手だった。
「おまえさんが男だから、おれは安心して酔っ払って、こうしてロクでもない面(つら)もさらせるってもんさ。」
「なるほど、じゃあ逆に、あんたが女だったらどうだグレート。」
今度は、グレートが頓狂な声を出す番だった。
「おれが、おんなぁ?」
なるほど、舞台で女形として、女を演じたことはある。女の振りをする男を演じたこともある。少なくとも舞台の上で、観客を騙し通すことはできる。けれど、女を演じることと、女として振る舞うことは別だ。女である自分を想像したことのないグレートは、一気に酔いも醒めた表情で、ハインリヒに向かって大きく目を見開いた。
「あんたは他人の心の機微に敏感だからな。その点じゃ、俺よりずっと女向きだ。ついでに言えば、口の上手さもだ。」
「おいおい、その台詞、フランソワーズには内緒にしとけよ死神どの。」
ハインリヒの反撃に、すっかり立場の逆になったグレートは、真顔でたしなめるようにそう言って、ハインリヒのにやにや顔にむっと唇の端を下げる。
女だったらと、言い出した真意に、ふたりは気づかない振りをして、酔いのせいの戯れ言に会話を引き戻すために、気の毒な仲間の数を増やすことにする。
「──見てくれだけだったら、女にしたら良さそうなのはピュンマだな。」
両手の中にグラスを抱え込むようにして、ハインリヒが言った。グレートは、話の矛先が自分からそれたのにこれ幸いと飛びついて、
「いい趣味だ。」
芝居の話でもしているような真面目な表情で、ハインリヒの意見に同意した。
「ピュンマが女だったら、おれたちは気もそぞろで作戦どころじゃないな。」
黒人女性の、美事な曲線を思い浮かべて、グレートは反射的に鼻の下を伸ばす。うなずきながら、けれどハインリヒがちょっと目元を険しくしたのを、グレートはすっかり見逃してしまった。
「ようするに、女じゃなくて幸いだったってことだ。」
際限なく落ちて行きそうな話を、ハインリヒがそこで引き止める。グレートは素直に、ちょっと遠い目をして、そうだなと相槌を打った。
女である必要はなかった。女であれば、物事はもう少し分かりやすく、容易ではあったかもしれない。それでもふたりは女ではなかったし、厳密な意味では、男ですらないとも言える。そのことを障害だとは思わないようにしている普段の気持ちを、わずかに進んだ酔いの中に取り戻して、ふたりは一緒に黙り込んだ。
"私が熱愛する男でありかつ女の君よ。"(ソネット集20番)
うっかり、口にしそうになって、グレートは唇を引き締める。シェイクスピアに紛らわして、本音を吐いてしまうのはまずい。酔ってはいても、さすがにやり過ぎだ。
唇が開かないように、グレートはグラスの縁を歯で噛んで、それから、ハインリヒに右手で殴られる痛みを想像した。マシンガンで蜂の巣でもいい。ハインリヒにされることなら、大抵のことは悦びになるに違いないと、酔いを言い訳にして、内心にひとりごちた。
その手がマシンガンだろうと、真っ白い指の細い薄い手だろうと、どちらでもいい。ハインリヒなら、何でもいい。素面の時にもしばしば考えることを、グレートは考え続けている。
光るものは必ずしも金ではないとシェイクスピアは言うけれど、グレートにとっては、ハインリヒは頭上に輝く太陽以上の存在だった。
女だったら──過ちも起こせるのに。
さっき思い浮かべた、女のピュンマの曲線などすっかり脳裏から消え失せて、グレートはグラスに触れているハインリヒの唇の線を、横目にこっそり追った。ハインリヒに直に触れている、酒とグラスに軽く嫉妬して、嫉妬の痛みが酒をより味わい深くすることを自虐的に歓びながら、今は酒よりも胸の疼きの方に酔いが偏ってゆく。
また夜が、何事もなく終わりに近づこうとしていた。