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名前を呼ばれたような気がして、ゆっくりとまぶたを持ち上げると、目の前いっぱいに、白い天井が広がっていた。
無機質な静けさに、一度、大きく瞬きをする。
人の気配が、やわらかくその静寂を破った。
「目が覚めたか。」
聞き慣れた声の方へ---左側へ---瞳を動かすと、部屋の白さとは違う、もう少しぬくもりのある皓い人影が、ほんの少しぼやけて、視界の端に引っ掛かった。
銀色の髪と、水色の瞳、穏やかな表情で、ハインリヒが、上から覗き込んで来る。
「呼ぶ声が、聞こえた。」
夢でも、気のせいでもなかったのかと思いながら、ジェロニモは、まだ少しぼんやりした声でそう言った。
地下の研究室のベッドは、固くて冷たい。シーツをかぶった体は、ここに横たわっている時は、腕がなかったり、足がなかったり、あるいは、首から下が、ほとんどなかったりもする。
両手足が、まったく動かせないことに気づいてから、ジェロニモは、あごを引いて、自分の体を見下ろそうとした。
山のように盛り上がった体すべてを、そこから見渡すことはできず、感覚がないことが、つまり手足の存在のないことだとは限らない機械の体を、ほんの一瞬だけ忌々しく思う。
「後は、皮膚をかぶせるだけだとさ。もっとも、きちんと動くかどうか、試した後だってことだが。」
ようやく、爆発のショックを、全身に思い出す。
イワンとフランソワーズをかばうために、ミサイルに向かって飛び込んだのだ。止めるつもりで、可能なら、そのまま投げ返してしまうつもりで、抱き止めて、そして、そこで爆発した。
手足は吹き飛んだろう。胸や腹の装甲も、ひどく傷ついたのかもしれない。ギルモア博士が必死になっているところを想像して、ジェロニモは、直ったらきちんと礼を言おうと、覚えておくために唇を動かした。
そうしてから、唇が、思ったよりも滑らかに動かないことに気づいて、目は見えるけれど、顔も、頬や耳の辺りがえぐれているのだろうかと、自分を見下ろすハインリヒの表情をうかがった。
「ギルモア博士は?」
さっきよりもはっきりした声で訊く。ハインリヒは、いつもの薄い笑みを浮かべて、軽く肩をすくめて見せた。
「ちょっと寝かせてくれって上に行ってから半日だな。そろそろ目を覚ます頃だ。」
いつもとまったく変わらないハインリヒの調子に、正視できないほどひどい有様というわけではなさそうだ---今は、少なくとも---と見当をつけて、そうなれば、動けるようになるのはいつだろうかと、心が急く。
何もかも、後はギルモア博士次第ということになれば、おそらく、不眠不休でここまで直したに違いないと容易に想像できるだけに、無理は言いたくはなかった。
まあ、仕方がない。
この部屋の、無愛想なほど真っ白な天井や壁に、描いてみたい絵のことでも想像していれば、こうやって、ただ横たわってギルモア博士の訪れを待つのも、そう悪くはないに違いない。
状況を正しく把握して、腹を据えてしまえば、勝手に落ち着いてくる。
そういうことだと、わずかにうなずいて、ジェロニモはやっと、真っ直ぐにハインリヒの方へ顔を向けた。
ハインリヒが、鉛色の右の掌に、皿を乗せているのに、そうしてやっと気づく。
「上は、どんちゃん騒ぎの真っ最中だ。」
真っ白い天井を、左手の人差し指で示して、ハインリヒが、少しだけ唇を曲げて見せる。
「おまえさんひとり、のけ者ってわけじゃないんだが、まさかここで騒ぐわけにはいかんしな。」
言いながら、ジェロニモの視界に向けて軽く傾けた皿の上に、小さな餃子とローストビーフ、ゆでてつぶして塩と牛乳で味をつけたポテト、バターの匂いのするコーンがひと盛り、空腹の感覚はなかったけれど、見た瞬間に、ごく自然に、口の中で舌が動いた。
ハインリヒが皿を持ち換えて、フォークの先に、まずは餃子を取ってくれる。
大きく口を開けて、舌の上に、柔らかな皮がまだ温かい。
口の中に広がる味と匂いに、ジェロニモは目を細めた。
次はローストビーフ、それからポテトとコーンを一緒に、目を閉じて、ゆっくりと噛んで、ハインリヒが差し出すフォークの先を眺めながら、ジェロニモは、今は動かない手足のことを忘れかけていた。
こぼしたりしないように、ひと口は少なく、ささやかな食事は、けれど胃だけではなく全身を満たしてくれる。
フォークを差し出しながら、常にない楽しそうな笑みを、消そうとしないハインリヒにつられて、ジェロニモも、いつの間にか微笑んでいた。
ジェロニモに、最後のひと口を差し出してしまうと、ハインリヒは、空になった皿を、背後にある引き出しつきの台の上に置いた。そこから、今度は小さなグラスを取り上げて、またジェロニモの顔の近くに運んでくる。
丸みを帯びた、けれど鋭い香りで、グラスの中身が白ワインだと知れる。ジェロニモは軽く首を振って、ハインリヒの勧めを断った。
ハインリヒは、にやっと笑って、軽くグラスを振って見せた。
「せっかくのクリスマスだ、ひと口くらいいいだろう?」
「クリスマス・・・」
口移しに繰り返して、そうしてから、酒の類いは、普段一切口にしないと知っていて、ハインリヒが、けれど少しばかり食い下がって来る理由に思い当たる。たくさんの人たちにとってとても特別な日なのだと、そして、ハインリヒにとっても特別な日なのだと思って、ジェロニモは、嫌な気分ではなく、どうしようかと、珍しく逡巡した。
「ああ、クリスマスだ・・・」
いつもよりもずっと柔らかい声で、ハインリヒがまた繰り返した。
はっきりとは答えないで、ジェロニモはただ、そんなハインリヒを黙って見返した。
少しだけ唇を引きしめて、ハインリヒがグラスを持ち上げる。
軽くあごを持ち上げて、ワインを飲む喉が、ゆっくりと動くのが見えた。
鉛色の手が、透明で薄いグラスを持って、その中で、淡い黄金が揺れている。かすかに泡立つワインの表面と同じに、ハインリヒの唇も、濡れて光った。
その唇が、ゆっくりと落ちてくる。丸いワインの匂いと、どこか似ている、酸味のある果物の香りは、ハインリヒの髪からに違いなかった。
似ている、けれど違う香りが、ふわりと顔の辺りを覆った。
額と頬にはハインリヒの髪が、唇には、ハインリヒの濡れた暖かな唇が、ジェロニモは、普段間近に見ることなどないハインリヒの目元の線を、じっと凝視していた。
湿った唇からも、わずかにこちらに通ってくる呼吸にも、ワインの味と香りが混じっていて、甘いのはワインなのだと思いながら、また元通りに体を持ち上げるハインリヒから目を離さずに、ジェロニモは、思わず自分の唇の合わせ目を、舌の先で探る。
たった今、ハインリヒが触れて行った唇に、今は触れるために腕も動かせず、そうとは表には出さずに焦れて、視線だけで、ハインリヒを追っている。
「メリークリスマス。」
青みがかった唇が動く。それに合わせて、ジェロニモも、まだぬくもり---ワインのか、ハインリヒの体温かはわからない---残る唇を動かした。
「・・・メリークリスマス。」
ドイツ語の響きの交ざるハインリヒのそれよりも、さらにぎこちなく。
乾杯の仕草をした後で、ハインリヒが残っていたワインを一気に空けてしまうと、微笑みだけはそのままで、空の皿も取り上げると、くるりとドアに向かって肩を回した。
役目が終わって、ここから立ち去る背中を見送るために、そちらに向けた顔は動かさず、ほんの少しだけ、今ここにまたひとりで取り残される淋しさをあらわにしてしまわないように口元を引き締めて、ジェロニモは、名残り惜しげに、まだ残るワインの匂いに、自分で唇を湿す。
ドアを開けて、ちょうど、中と外の境に立って、ハインリヒが、横顔だけでこちらに振り向いて、不意にいたずらっぽく笑う。
それから、と肩をすくめた。
「ハッピーバースディ。」
伝えたかったのは、むしろそちらの方だったのだと、声音が告げていた。
ジェロニモは、頬の辺りの引きつれを気にしながら、大きく目を見開いた。
クリスマスを祝うことも、生まれた日を祝うことも、ジェロニモにはない習慣だったけれど、そうやって口にされることを、今はひどく嬉しいと感じていた。
ありがとうと、返す前に、ドアは、ハインリヒの背中を消して、静かに閉じられてしまった。
顔の位置を元に戻して、また、真っ白い天井を見上げ、ジェロニモは、数瞬、そこに穏やかな、けれど強い視線を当てて、それからゆっくりと目を閉じた。
まぶたの裏の薄闇の中で、唇の辺りに残るワインの香りを反芻しながら、今は動かない体を空気に同化させ、夢を見るために、眠りに落ちてゆく。
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