裏庭の草むしりをする。夏の雑草は、ちょっと油断するとすぐ足首まで埋まるほど伸びる。伸び切ってしまえば、庭で遊ぶ動物たちの、よい日陰になるのだけれど、さすがにそこまで放っておくわけにも行かない。
伸びた雑草にも風情があると言うのは日本独特の感覚──雑草を、花に数えてしまうのもだ──で、もったいないなあと言うジョーを振り切って庭に出たのはハインリヒだった。
来年の夏まで何も生えそうにない勢いで、徹底的に草を抜いてゆく。まさに根ごそぎと言った風に、ジョーでなくてもちょっと雑草に同情してしまいそうな念の入れようだった。これはドイツ人と言うものの特性か、あるいはハインリヒ個人の性格なのか、一心不乱のその仕事ぶりは、見事としか言いようがない。
ハインリヒが抜いた草を、その後をのっそり追い駆けて、ジェロニモが束ねてまとめてゆく。時々交じる、小さな色の淡い花に目を止めて、ハインリヒの働きに賞賛を向けつつも、その花の運命のはかなさは不憫だと思って、それでも心を鬼にして、すべて雑草にして捨てるためにまとめておく。
じりじりと地面を焼く陽射しの、傾きが影を次第に長くして、ふたりはそうしてその午後の半分以上を、裏庭で草を抜いて過ごした。2、3度、フランソワーズが作ってくれた手製のレモネードで喉を潤し、それでも15分以上は手を休めずに、ふたりは黙々と働いた。
驚くほどすっきりした裏庭を後にして、どうだと言わんばかりの笑顔を浮かべたハインリヒへ、ジェロニモは素直に微笑を返し、泥に汚れた手足を洗うためにシャワーへ向かう。
なぜかハインリヒは、ジェロニモの部屋へ一緒について来る。ジェロニモの部屋のバスルームは、ジェロニモに合わせて他よりも少し広い。だからだろうと思えば、そうとも思えた。
洗面台へ肩を並べて、わざと一緒に手を差し出して、同じ蛇口の下でぶつかり合いながら手を洗う。石鹸をつけ、手首の少し上まで丹念に泡を広げ、流れる水で洗い落とす泥と泡で、ふたりの触れ合う手がするりと滑る。
そんなつもりがなかったと言えば嘘になる。手の洗う続きの振りで、気がつけば一緒にシャワーの下だ。
よく見ると、ハインリヒの肌はうっすら焼けていた。人工皮膚も、きちんと日焼けする。元々浅黒いジェロニモのそれよりもいっそう露わに、ハインリヒの白い皮膚は、今はシャワーの熱さのせいではなく濃く赤みが差して、まくり上げていた袖の分まで、きっちり陽射しの跡を残している。
さっきまでは、ひとりきりで流していた汗を、今はふたりで一緒に流す。湯に流されてゆく汗が、それでも確かにそこで混じり合って、互いの体を洗いながら、時折手指が不埒に動いた。
掌よりも手の甲の方が焼けて、喉よりもうなじの方が赤みが強くて、着ていた服の形をはっきりと表すハインリヒのその跡を、ジェロニモはゆっくりと自分の唇でなぞって行った。
足首の、わずかに直にさらされていた細帯のような部分は、掌の中に包み込んでしまう。そうやって足に触れれば、膝が持ち上がって開く。白いままのハインリヒの腹や腰の辺りが、今はひどくまぶしく見えた。ジェロニモは思わず目を細めて、それから、バスタブの底へハインリヒの背中を押しつけるようにして、自分の胸を重ねて行った。
いくらジェロニモの背丈に合わせてはいても、ふたりには狭い浴槽の中で、濡れたプラスティックの表面と体がふたつ、水で滑り続ける。汗がそこにこっそりと混じる。息が重なる合間に、ハインリヒの日焼けした膚が、いつもよりも熱くジェロニモの皮膚をこすってゆく。
その、赤みの増した皮膚に、ジェロニモは疼くように欲情している。
自分が知らない間に、陽射しに焼かれたハインリヒの膚。服の隙間を逃さずに、剥き出しの肌を焼いて、着ていた服の形をはっきりと見せて、裸を触れ合わせているのに、何かがふたりの間に忍び込んだままのように、ジェロニモは今日の陽射しに嫉妬していた。
まるで、ハインリヒをひそかに盗まれたような心持ちで、だから、そろそろ夕食に皆が集まる時間だと言うのに、こんなところでこんな風に、ハインリヒと抱き合わずにいられない。
一緒に草を抜いて、泥に汚れた手指。爪の間に入り込んで、頑固に洗い流させてはくれなかった泥の、それよりもいっそう確かにハインリヒの皮膚の上に、名残りを置いて行った、今日のあの強い陽射し。自分の触れ方とは違うやり方で、ハインリヒに跡を残した、夏の太陽の光。
だから、ちょうどシャツの襟の形に残るその赤みの上へ、ジェロニモはやわらかく噛みついた。
いつもなら、服では覆えないところへはそんな風に触れたりは絶対にしないのに、今はそうせずにはいられずに、ジェロニモはそこへぎりぎりと歯を立てて、ハインリヒの膚をより赤くする。
流した汗はひとりきりのものだった。今流す汗は、ふたり一緒のそれだ。重ねた皮膚に熱さを行き来させて、そうしてまるで、ハインリヒの皮膚の赤みを自分のそれの上へ移すように、ジェロニモは少しだけ荒っぽく、ハインリヒの皮膚をこすり上げた。
ふたりで、一緒に。他の誰とでも、何とでもなく。隙間なく合わせた肌の間に、入り込める何もあるはずがない。揺すぶり上げるハインリヒの膚に、次第に血の色が上がってゆく。日焼けともう見極めもつかずに、ハインリヒの全身が赤く染まる。その赤へ、ジェロニモはまた歯を立てる。
そこも焼かれて少しかさついた唇が、それでも水に濡れて湿り、ざりりと音を立てそうに重なって、滑る。滑りながら、舌が触れる。陽射しなど届くはずもない喉の奥で、触れ合ったままの舌の根で、音にならない声が漏れた。漏れた声はそして、水と一緒に流れ去ってゆく。
日焼けの見えないジェロニモの首筋に、ハインリヒの薄赤い腕が巻きついて、どくどくどくどく、脈が触れ合って重なって、また滑る。
重なる膚の熱さは、まだ消えないままだった。
top ▲
近頃、どうもコーヒーが美味くない。別に淹れ方を変えたわけでもなく、使う道具や豆が変わったわけでもなく、もしかして水に何かあったかと思ったけれど、他の料理の味に特に変化はなく、理由に思い当たらず、その美味くないコーヒーを飲みながら、ハインリヒは首を傾げるばかりだ。
外で飲むコーヒーは、元々味など期待はしないので失望することもないけれど、自分で丁寧に淹れたコーヒーの味と香りが期待外れなのは、思った以上に落胆が大きい。
これ以上がっかりしたくなくて、今日は紅茶にした。ハインリヒにとっては、紅茶は水のようなもので、さすがに水分を取るために飲むわけではないけれど、いちいち味がどうのと言うこだわりはコーヒーほどではない。期待しなければ失望もない、そう思って、いつも通りに、マグにティーバッグを直接放り込むぞんざいさで、熱い紅茶を淹れた。
そうして確かに、失望はそれほどはしなかった。それほどは。
何かが足りない。何も変わったはずのない紅茶に、何かが決定的に欠けている。淹れ立ての、まだ火傷しそうに熱いそれをできるだけ音を立てずにすすりながら、ハインリヒは、近頃飲むコーヒーや紅茶に、足りない何かのことを考え始めた。
いちばん最近、コーヒーか紅茶を美味いと思ったのはいつだったろう。記憶をたどって、人工脳の奥まで手を突っ込むイメージで、必死で味や香りのことを思い出そうとした。
仕事で出掛けた先の街の、小さなカフェも食堂も見当たらず、結局肩を縮めながら入ったいかにも洒落たレストランの、食後の紅茶だったか。あれは確かに、悪くはなかった。けれどやっぱり、深くはうなずき切れない香りだった。
あれはどうだ、荷物を下ろした先で満面の笑みと一緒に差し出された、近頃入れた最新のコーヒーメーカーがどうのと言う、あのコーヒー。いや、あれは機械で淹れたと言われたら及第点だったけれど、それだけだ。
それならと、もっと記憶を遡って、世界で多分いちばん食べ物にうるさい──意外なことに、この点は確実に中国人以上だ──日本で飲んだコーヒーのことを思い出す。注文した後に、1杯ずつ淹れてくれるドリップのコーヒー、コーヒーだけではなく、店の家具も雰囲気も、そして道具の置き方も、何もかもが多分そこでコーヒーを飲むと言う行為に含まれるのだと思われるこだわり方。いかにも日本だなと思って、舌の奥に香りの記憶をたぐり寄せて、それすら、それでも何かが足りないと思われた。
そのまま、日本で飲んだコーヒーのあれこれを思い出すうち、自然に、ギルモア邸で飲んだコーヒーの記憶へ進み、そうして、コーヒーと一緒に、仲間たちの顔もそれぞれ浮かんで来る。
ああそうだ、あそこでは滅多とひとりになることがなく、必ず誰かが傍にいたのだ。サイボーグであることを隠す必要のない、この世で9人きりの仲間たち。ギルモア邸にいる時は、コーヒーや紅茶の記憶に、必ず誰かの姿がくっついて来る。仲間たちの顔をひとつびとつ手繰り寄せる間、次第に、思い出す味が、どこかに近づいて来た。
それなのかと、今飲んでいる紅茶の、どこか物足りなさの感じられる味の、その理由を探るように、ハインリヒはミルクの入った薄茶色の表面に、じっと目を凝らした。
いや、とまた首を振る自分がいる。
仲間と一緒だと言うだけではない。甦らせた記憶を、まるで掌の上に取り出して眺めるように、ハインリヒは切り取った記憶の断片の隅々を、子細に検証する。
ギルモア邸では、いつも誰かと一緒だった。そしてあそこでは、ハインリヒは滅多と自分でコーヒーや紅茶を淹れることがない。欲しいと思った時には、もう目の前に差し出されているからだ。ハインリヒの、好みの熱さで、好みの濃さで、好みのミルクの分量で。それを差し出す指先の大きさが、不意にハインリヒの記憶の視界をいっぱいに塞いで来る。
ジェロニモ。
久しく会わない仲間の名を、ハインリヒは思わず声に出してつぶやいていた。
淡い笑顔と一緒に差し出される、コーヒーや紅茶。ありがとうと言うと、笑顔がもっと深くなる。
ふと、あの笑顔が見たくて、コーヒーや紅茶を飲みたいと思うのかもしれないと、ハインリヒは思った。
ああ、そうか。足りないのはそれか。大事な誰かが、自分のために淹れてくれた、コーヒーや紅茶。それを受け取って味わうハインリヒの歓びを、自分の喜びにしているあかしの、あの笑顔。
コーヒーや紅茶であることには変わりはない。けれど、あの笑顔の代わりはない。
電話をしようかと、ハインリヒは頭の後ろで思いつく。ジェロニモに電話をして、他愛もない話をしながら、自分で丁寧にコーヒーを淹れて、これはジェロニモが淹れてくれたコーヒーだとわざと錯覚しながら、ジェロニモの声と一緒にコーヒーを飲む。ひと口飲んだ後に、ありがとうと、受話器に向かって言う自分の姿が、当たり前のように浮かんだ。
なにがだと、ジェロニモは聞き返すだろう。ありがとうとは、一体何のことだと、きっと訝しがるだろう。
どう説明しようか。コーヒーを飲むのに、ジェロニモの声が必要なのだと、そう言ってしまおうか。それとも適当にはぐらかして、何も言わずに済ませようか。
恐ろしく馬鹿馬鹿しい自分の思いつきを、けれど下らないと一蹴することはできず、振り返って部屋の中に時計を探して、ハインリヒは時差を数えた。ジェロニモの邪魔にはならない時間はいつだろうかと、朝と夜の真逆の彼の暮らしを思い浮かべて、互いの間の遠さを、わずかの間悲しんだ。
どこで飲もうと、コーヒーはコーヒーだ。けれど特別な誰かは、それをとても特別なコーヒーに変えてしまう。その特別なコーヒーに一歩でも近づくために、ハインリヒは、ジェロニモに電話をする時間をもう計り始めていた。電話をする口実が必要ない程度には親(ちか)しい、自分たちのことには感謝しながら。
おまえさんの淹れたコーヒーが飲みたい。
頭の中でだけならすらすら言える台詞を、まるでプロポーズみたいだなと思って、けれどそれを舌の上に乗せることはおろか、声に出すこともできずに、ハインリヒは知らず薄赤い頬を、飲んでいる紅茶の表面にうっすら映している。
top ▲
少し、風のある日だった。裏庭から続く小さな森の樹たちが、ざわざわと葉ずれの音を途切れなく立てて、それでも空気に湿りもない、陽射しの気持ちの良い日だった。
午後の半ば、最後に見掛けた時にはリビングのソファに寝そべって本を読んでいたハインリヒのために、ジェロニモは紅茶でも淹れようかとキッチンへ行き、そしてハインリヒがまだそこにいることを確かめようとして、空っぽの、しおりの挟まった本だけが残されたソファを見つける。
本はぽんとソファの上に放り出され、クッションはまた頭の形が残っているように、ハインリヒが去ったのはたった今だと知れて、ジェロニモは本を取り上げながら指先にハインリヒの体温を探って、どこへ行ったのかと、くるりと頭を回した。
裏庭に、ハインリヒの姿が見えた。大きな窓ガラスに全身を嵌め込んで、一体何をしているのか、こちらに見えるのは後姿だけだ。よく見れば、素足のまま芝生を踏んでいる。首や肩の辺りに余裕のある白いシャツが、ふわふわと風に揺れていた。
空を軽く仰ぎ、次の瞬間には足元を見下ろし、ちらりと見えた横顔には確かに笑みが浮かんでいて、珍しくひどくリラックスしているその様子に、ジェロニモは自然とハインリヒの笑みを写したように、自分も微笑んでいる。
紅茶はどうだと、声を掛けるつもりで1歩足を前へ踏み出し、それから、ふと動きを止めて、ジェロニモはそこからじっとハインリヒの姿に見入った。
カーテンを引かない窓の枠は、まるで絵のための額縁のようで、その中でハインリヒが、ゆったりと手足や首を伸ばして、今は革手袋もないマシンガンの右手すら露わにして、シャツと一緒に揺れる銀色の髪が、陽射しを集めて輝いているのを、ジェロニモは息を飲んで眺めている。
放っておけば、そのまま踊り出しでもしそうに、風と陽射しを存分に味わい、楽しみ、機械の体で、ハインリヒは確かに自然と一体になって、ただそこに在った。
複雑に金属片の組み合わされたかかとの丸みが、芝生を踏み、これも珍しい色褪せたジーンズの少しすり切れ掛けた裾のほつれも、その絵の中にあるべき色と線を添えて、時々上がったり下がったりする広い肩の線が、風の揺らす空気の動きと見事に一致しているように見えた。
完璧な瞬間を捉えた写真か絵のように、ジェロニモはそれを自分の目に焼き付けようとするように、窓ガラスへ顔をこすりつけそうに、ただ見入っている。
この男も、こんな油断した姿を時には見せるのかと、貴重な宝石でも与えられたように、庭へ降り注ぐ陽射しと一体化したハインリヒの、ジェロニモの一心な視線には一向に気づかない背中の揺れを眺め続けた。
いい気持ちだと、つぶやいたのかどうか、唇が動いたらしいのがわずかに見て取れ、そうしながら、ハインリヒは両腕を上げて、空へ向かって胸を大きく反らすような仕草をする。後ろへ体が傾き、そこから少しだけ伸びた後ろ髪が、体から離れて風に揺れる。そんなひとつびとつをつぶさに眺めて、ジェロニモは、知らず息を止めていた。
自分が、どれだけこの男のことが好きなのか、改めて考えている。いとおしいのだと、わざわざ口にすることもなく、それでも視線を交し合えば通じ合ってしまう親(ちか)しさが、ふたりの間で言葉を不要にしているのは確かだった。
呼吸さえ忘れて、そうしろと言われれば、ハインリヒと引き換えに永遠に呼吸を諦めてしまえそうに、ジェロニモは庭に立つハインリヒにただ見惚れ、そうして、また恋に落ちていた。
こうして恋に落ち直すのは、もう何度目だろう。ジェロニモは、何度も何度もハインリヒに恋をする。繰り返し繰り返し、新しい恋をひとつずつ重ね、そうして飽きることもなく、ハインリヒに恋し続けているジェロニモだった。
何もいらない。この男さえいてくれれば、他のことは何もいらない。するりと口にできる器用さはなく、そんな如才さとは縁遠いジェロニモは、ただ自分の胸の中でだけそうつぶやいて、それから、ハインリヒから視線を外さないまま、そっと窓から遠ざかった。
本をそっとソファの傍へ置き、自分も裸足になって、裏庭へ続くキッチンのドアを通り抜ける。ドアの開く音でハインリヒがこちらへ振り返り、穏やかな笑みを浮べてジェロニモを手招く。
「いい天気だ。」
うなずいて、それから、ジェロニモはようやく自分もシャツも白いことに気づいてから、ふたりそうして並ぶと、まるで申し合わせたみたいに揃いの姿であることに思い至る。
素足に空手で、ふたりは揃わない肩を並べて、一緒に空を仰いだ。
もう、何度となくこうして降りて来たことのあるギルモア邸の裏庭が、今はなぜか初めての場所のように思えて、ここへわざわざハインリヒと出掛けて来たのだと錯覚しながら、ジェロニモはそっと指先を伸ばし、ハインリヒの人差し指を取る。顔はそちらへ向けず、ジェロニモの仕草に驚いたハインリヒが自分を見上げても、ジェロニモは空ばかりを見ている振りをした。
あの窓からは今、ふたりの姿が1枚絵のように見えるだろうか。そんなことを考えながら、素直に自分に指先を預けたハインリヒへ、ジェロニモはようやく視線を向けて、それが必要以上に熱っぽくならないように気をつけるのに内心必死だった。
「いい、天気だ。」
ハインリヒが言ったそのままを、口移しにする。ハインリヒが、何か冗談でも聞いたように笑みを深くして、何度も何度もうなずいて見せる。
「ほんとうに、いい天気だ。」
ジェロニモの表情と声音から、何か特別な響きでも聞き取ったのか、ハインリヒが重ねて、もう少し丁寧に同じことを言う。
ジェロニモはまた、ハインリヒへ見入った。左手の指先を取ったまま、今度は右手へ手を伸ばし、同じように指先をすくい取る。陽射しを横顔に浴びて、見下ろして見上げて、見つめ合って、ジェロニモはもう何か伝えるための言葉を探すことさえせず、ただ深々とハインリヒを見つめた。
「・・・何だ、どうした。」
こうして見下ろすと、開いた襟から首筋と胸元の線が見える。それもまた、珍しい眺めだった。目を細め、ジェロニモはまた呼吸の止まりそうに思いながら、自分がきちんと息をしていることを確かめるために、何か言葉を滑り出そうとする。何でもいい、思いついたことを、とりあえず口にすればいいと、そう思った。
ハインリヒ、とまず唇が動く。それでも不確かな呼吸のために言葉にはならず、ジェロニモはもう少し喉へ意識を集中させながら、そこを通って行く自分の呼吸の音を、耳の裏側で聞いていた。
「──愛している。」
それは、正確にはジェロニモの語彙ではなかった。ハインリヒの使う、ドイツ語でもなかった。それでも、幾つかの音節でできたその短い言い方──恐らく、世界中のどこでも、これだけは正確に伝わるだろう言い方──を、ジェロニモは驚くほどなめらかに口にして、そうして、ハインリヒの瞳の中に映る自分がひどく落ち着いた表情でいるのとは裏腹に、ハインリヒは一瞬で瞳の色をいっそう淡くして、代わりに、日焼けでもしたように顔を真っ赤にした。
この男が、いとしくていとしくて仕方ないのだと、そう伝えることに問題はないにせよ、なぜ今なのか、一体なぜなのかと、ハインリヒの瞳が忙(せわ)しく動いている。ジェロニモは初めて、親が我が子を掴まえて、食べてしまいたいと、そう言う意味を悟った。
俺もだと、さらりと返すはずもない、この男も十分に不器用だ。そしてそれすら、ジェロニモにはいとおしさを増す理由にしかならない。
「今日は、いい天気だ。とても。」
相変わらず見つめ合った──ハインリヒはすっかり落ち着きを失ってはいたけれど──まま、ジェロニモが静かに繰り返す。それでやっとハインリヒは我に返ったように、
「ああ──そうだな。」
天気についてなのか、その前にジェロニモが言ったことに対してなのか、どちらとも曖昧な相槌を打って、ハインリヒはまだ戸惑いを刷いたままだ。ジェロニモはそれを慰めるように淡い微笑みを見せてから、
「後で、一緒に、森に──。」
今度はいつものように、少しぎこちない言い方を取り戻して、ジェロニモがそう言うのを最後まで待たずに、ああ、とハインリヒが少し上ずってうなずいた。
「行こう。森に。おまえさんと、一緒に。」
一緒に、と言った部分に、少し違う響きがこもった。ああ、これがさっきの返事なのだと、ジェロニモは思った。
恋を繰り返しているのは、きっとハインリヒも同じだ。同じように、互いをいとおしく思って、その思いの強さをどうしていいのか分からないまま、時々こうして、自分の恋の深さに驚くのだ。
手を繋いだまま、ふたりは一緒に空を仰いだ。止まない風が、シャツの裾を揺らし続けている。
* Nさまの、"海岸デート54"と、shさまの、"恋人たち"へのオマージュ、と言うことでひとつ。
top ▲
それは、完全にただの偶然だった。遅く起き出したタイミングが一緒だったのも、ほんとうにただの偶然だ。
ジェロニモが、すっかり香りの失せたコーヒーを渋々と言う表情でマグに注いでいるハインリヒへ、ちょっと小さな声でおはようと言った時、まだ少し眠気が残ってぼんやりしていて、こちらを向いたハインリヒがおはようと返し掛けて、そのままの口の形で動きを止め、自分をじっと見つめて来るのにも、それが一体なぜなのか、すぐには分からなかった。
ハインリヒがたった今空にしたコーヒーのポットへ視線を注いで、自分だけならコーヒーは諦めるかと、そんなことをまだどこかはっきりしない頭で考えている。
「──おまえさん・・・。」
ハインリヒが驚いた表情を浮かべ、それから自分の、マグを持った方の腕にまじまじと視線を当て、そうして再びジェロニモを見て、
「──おはよう。」
とやっと返して来る。
ハインリヒの視線を3拍後から追って、ジェロニモは自分の掌を胸に乗せ、それから、ああ、と少し頓狂な声を出した。
「いや、別に、そんなつもりじゃ──」
しどろもどろに、ほんとうにそうなのだと説明する頬が赤く火照って来る。ハインリヒも、それを写したように、目元へ薄く朱色を上げて急いでジェロニモから視線を引き剥がし、わざとらしく忙しそうに、空のポットをシンクへ置いた。
「別に、そんなつもりも何も・・・。」
ハインリヒも、ジェロニモ以上にばつが悪そうに、もうあちらへ視線を放ってジェロニモの方をちらとも見ないようにしている。
「俺だって、別に──ただの偶然だ。」
きっぱり言うくせに、声がどこか甘く震えている。その声の調子が、時々一緒に過ごす夜だけに聞ける、とても特別な響きを思い出させて、ジェロニモは今度は別の理由で頬を赤くした。
「もちろん、ただの、偶然だ。」
ハインリヒへ同意を示すつもりで言ってから、言えば言うほど言い訳がましくなるのに、ジェロニモはもうどうしていいか分からずに、それきり口を結んで、うろうろと用もないカウンターの上へ視線を這わせる。
今日のハインリヒは、デニムのシャツに散々洗われて色の褪せたジーンズと言う、珍しい出で立ちで、一方のジェロニモは、下ろしたばかりのベージュのカーゴパンツ──折り目で手が切れそうだ──に、まだ生地にしっかりと艶のある紺色のタートルネックのセーターと言う、まるで互いに服を交換したような格好で、ご丁寧に、常にジェロニモがそうしているように、ハインリヒのデニムシャツの袖は、肘に向かって3度折られていた。
何か深い思いつきがあって選んだ服では決してなかったし、この服を手に入れた時にハインリヒのことを考えたかどうかジェロニモは思い出せず、それでもさっきの半ば寝呆けた頭の片隅で、何となくハインリヒのいつもの姿を思い浮かべていたことは確かだろうと思えた。
一方のハインリヒは、何か今日は汚れ仕事か何かがあって選んだ服装だろうし、いつもならそれを引き受けるジェロニモと、似たような格好になるのも無理はなかった。
それにしても、同じ日に、まるでそう言い合わせたように、互いのいつもの姿を真似る羽目になると言うのも、何となく冗談と笑い飛ばせない雰囲気だった。
ふたりを見て、あらと驚いた顔をするフランソワーズと、イワンと顔を見合わせてちょっとにやにやするグレートと、肩をすくめてやれやれだとため息をつくピュンマと、悪気なくこのことを指摘するジョーを止めてくれようとするジェットの気遣いと、そして若いモンはいいアルねと、どぎまぎしているギルモア博士に同意を求める張大人と、まるで撮影されたフィルムのように、ジェロニモの目の前に、仲間全員の反応が瞬時に浮かんで行く。
着替えに、部屋に戻ろう、とジェロニモは思った。きっとその方がいい。みんなのためにも。ハインリヒのためにも。そして多分、自分のためにも。
皆に、ふたりのことを吹聴する必要もない。わざわざ隠しているつもりもないけれど、こんな風に、大声で告げるような真似をすることもない。ハインリヒの、決して悪い意味ではない秘密主義を尊重するために、ジェロニモはそのままきびすを返して部屋に戻ろうとした。
「コーヒーがまだじゃないのか。」
回したジェロニモの肩へ向かって、驚くほどの素早さでハインリヒが声を投げて来る。
え、とそこで足を止め、肩越しに振り返ると、明らかに行くなと言う表情で、ハインリヒがジェロニモを見ていた。
「コーヒーなら、後で──」
「コーヒーを飲みに来たんだろう?」
語尾にかぶせるように言って来る。わざわざキッチンへ来たのは、確かにそれが目的だった。けれどポットはさっきハインリヒが空にして、今は飲もうにもそのコーヒーがない。
「おまえさんの好きな濃さで淹れりゃいい。何なら俺が──」
言いながら、ポットを濯ごうとし始めるハインリヒの、どこかちぐはぐな言葉と体の動きに、ジェロニモはやっと不審を感じてその傍へ行った。
「・・・コーヒーより先に、着替えて来るから──」
粗いデニムの生地の肩に掌を置いて、まるで諭すように言う。途端に、ハインリヒが色の淡い眉をはっきりと寄せた。
「──別に、着替えなくても・・・せっかく──」
ふた呼吸分間を空けて、ハインリヒは自分の手元へ視線を落として、言い継いだ。
「せっかく、似合ってるのに。」
ふたり同時に、頬が赤くなる。
ジェロニモは、今は鎖骨の辺りまでよく見えるハインリヒの、ゆるい襟元の、すでに擦り切れ掛けて白くなっている生地の陰に縁取られた首筋へ上がる血の色から、目が離せなかった。
「その色、おまえさんにはいい色だ。」
言った時に、ちらりと瞳が動いた。世辞でもおためごかしでもなく、ちゃんと本気のように、ジェロニモには聞こえた。
「後で俺が着替えたら、そっくりになるな。」
黒のタートルネックのセーターにベージュのスラックス、いつものハインリヒが今のジェロニモと並んだら、確かにまるでお揃いだ。
ジェロニモは思わずくすりと笑う。つられてハインリヒも、やっと緊張を解いたように微笑み、それから普段と同じように見つめ合った後で、唇が穏やかに触れ合った。
キッチンの周囲に他の誰の気配もないことを確かめながら、唇の後には互いの手が互いに触れ、ジェロニモの背中へ回ったハインリヒの左手が、セーターの感触を楽しむように、ちょっと不埒に動き始めた。
ジェロニモの手も、そこへ吸い寄せられるようにハインリヒの顎を包んでから首筋へ降り、ボタンの掛かってないことを言い訳に、肩の方へまで指先が入り込みそうになったところで、ジェロニモも慌てて自分の行儀悪い振る舞いを止める。
ここから先はまずい。ふたりは同時にそう思って、手の動きを止め、互いからちょっとだけ体を離した。そうしても見つめ合ったまま、離れ難くて、両手が空をさまよっている。
ハインリヒは、両手をジーンズのポケットに差し入れた。ジェロニモも、それに倣った。
「・・・後で。」
「ああ、後で・・・。」
言いながら、どちらも立ち去れずに、視線を合わせたまま、体も少しだけ離したままで、結局またゆっくりと近づいた唇が触れ合う。今度は唇だけだ。鼻先をちょっとこすり合わせるように、小鳥同士の挨拶のように、尖らせた唇同士を触れ合わせて、ちょっとだけ滑らせて、ポケットの中の手が、そこから出たくてうずうずしている。それでもふたりは、唇を重ねるだけで我慢して、ようやく、ハインリヒはジェロニモへ向かって伸ばしていた背を、ジェロニモはハインリヒに向かってかがめていた上体を、元の位置に戻した。
「後で。」
「ああ。」
今度はきっぱりと言って、ジェロニモはキッチンを後にする。
街に出る予定を繰り上げて、これからもう出掛けてしまおうと玄関へ向かいながら、ジェロニモは知らず自分の胸辺りへ自分で触れている。高い襟にくるまれた首筋が熱い。
もう一方の手はまだポケットの中に入れたまま、指先にハインリヒの膚の感触を甦らせながら、ぎゅっと握る。
今日は良い日になりそうだと、理由もなく思った。
* nalさまに、素敵な絵を戴きました。
top ▲
イワンが、ペンギンになっていた。
「やだ可愛い!」
リビング響く、はしゃいだようなフランソワーズの甲高い声。
普段、むさくるしい男どもに囲まれて、むしろ年齢よりも落ち着いてまるで母親のように振る舞うフランソワーズに似ない、いかにも少女めいたその声だった。
床に坐ったフランソワーズの、その膝近くへちょこんと坐ったイワンは、額に黄色いくちばしを突き出して、頭は丸く黒く覆われてぐるんと瞳がきちんとあり、手も大きな翼めいた形に、そうして這うと、ほんとうに小さなペンギンが腹で氷の上を滑ろうとしているように見える。
足はそれでもちゃんと普通に動けるように、覆われはせずに丸々としたまま着ぐるみの胴体から出て、その中途半端な姿は、確かにひたすらに可愛らしかった。
ハインリヒは、リビングの入り口に立って、ちょっと呆然のそのイワンを眺めて、手を叩いて喜んでいるフランソワーズの横顔には微笑ましさを感じたものの、改造された脳は仲間の誰よりも──そして、恐らく地球上の誰よりも──聡明で大人びたイワンが、一体その自分の姿をどう捉えているものか、想像するだけで背筋に寒気を感じた。
「サイズがぴったりだな、一体どこで見つけたんだそんなもの。」
赤ん坊用の仮装かと、ハロウィンとやらのことを思い出しながら、ハインリヒは床の上のふたりへ声を掛ける。
「ジェロニモが作ってくれたのよ。足まで覆ってしまうと動き難いでしょう? なかなかいいのが見つからなくて。」
ハインリヒは、コーヒーを口に含んでいなくて良かったと思った。たった今注いで来たばかりのコーヒーを右手に見下ろして、ジェロニモがフランソワーズの共犯者と知って、これでは確かにイワンも怒るに怒れまいと、この天才の脳を持つ赤ん坊に、滅多と感じない同情を抱きかけさえする。
「似合うでしょう、前に見たことがあるからって、ジェロニモったら見本もないのに、型紙を自分で作って、すごいでしょう!」
フランソワーズの頼みを断れる人間など、ギルモア邸にはひとりもいない。ことに、ジェロニモとイワンは。
イワンが一体この事態をどう捉えているのか、特に不愉快と言う表情は見せず、もっともこの赤ん坊は自分の腹の底など決して見せはしないし、フランソワーズには常に機嫌のいい姿しか見せないのだから、イワンが今ほんとうに感じていることなど、ハインリヒに分かるはずもない。
それでも、決してご機嫌麗しいと言うわけではないだろうと思って、リビングでコーヒーを飲みながら本を読もうと思っていたハインリヒは、その予定をさらりと変えてこの場からさり気なく立ち去ることにした。
──ボクヲ置イテ行クノ。
背中を回し掛けた途端、鋭くイワンがテレパシーを送って来る。その尖った声のせいで、ぎゅうっとこめかみ辺りをひと回り締め付けられているように感じて、ハインリヒは思わず肩を縮めた。
──勘弁してくれ。フランソワーズが喜んでるんだ、いいじゃないか。
爪先をキッチンへ向かって滑らせながら、ハインリヒは精一杯優しい声でなだめるように、イワンへ応えた。
──責任ノ一端ハ、キミニモアルンダヨ、ハインリヒ。
何だって?と思わず言葉に出しそうになった時、フランソワーズがイワンを抱き上げて頬ずりし始め、写真を撮ろうとかカードも作ろうかしらとか、そんなことを矢継ぎ早に言い始めて、イワンの言葉はそれきり尻切れとんぼになってしまい、ハインリヒはそれを幸いと、それ以上問いを重ねずにほうほうの体で退散してしまった。
たった今出て来たばかりの自分の部屋へ戻る気にはならず、ハインリヒはコーヒーと本を抱えて、とりあえず玄関に向かった。ポーチの階段に坐って、海からの風を浴びながらの読書もいいだろう。日陰ではないのが少々心配だけれど、こういう時に人工皮膚は気が楽だ。
イワンを可愛い可愛いと言い続けているフランソワーズの声を聞きながら、その声を決して妨げはしないように、ハインリヒはそっとドアを後ろ手に締める。
ポーチの階段には、大きな背中の先客がいた。ジェロニモだ。何をしていると声を掛けようとして、潮風に混じる靴クリームの匂いに気づいて、ハインリヒは思わず自分の足元へ視線を落とした。
「ああ、邪魔。」
ハインリヒに気づいた途端、振り返って、ジェロニモが少し慌てたようにそこから立ち上がろうとする。
「いやいい、そのままでいい。」
階段の上に、ブラシや拭き取り用の布やクリームの平たい缶を散らばし、手すりの近くへ大きさの違う革靴を何足か並べて、ジェロニモは靴磨きの真っ最中だ。
ジェロニモは、立ち上がり掛けた腰を元の位置に戻し、それでもあれこれの道具を片寄せて自分ももっと手すり寄りに坐り直し、ハインリヒのために場所を空けてくれた。
「悪いな、俺の方が邪魔だ。」
ジェロニモが、また靴へクリームをすり込み始めて、そんなことはないとハインリヒへ向かって首を振る。
ハインリヒとジェロニモと、肩を並べて坐るにはやはり狭い。ハインリヒはジェロニモより2段上へ腰を下ろし、斜め後ろからジェロニモの作業を見守ることにした。
「あのペンギン、おまえさんの手製だってな。」
本を開かないまま、ハインリヒはちょっとからかうようにそう声を掛けた。
「フランソワーズに頼まれた。」
「ああ、だってな。でなきゃイワンがあんなものおとなしく着るもんか。」
イワンの不幸をちょっと考えたのか、ジェロニモが瞳をまぶたの方へ動かして斜め上の虚空をじろりと見て、どういう意味か、小さく肩をすくめる。
靴の縫い目まで丁寧に、丹念にブラシを掛けているジェロニモの、そのブラシの完全に隠れてしまいそうな大きな手が、あのペンギンの着ぐるみをちくちく縫った──もちろん、ミシンを使ったに違いないにせよ──のだと言うのが奇跡のように思えて、完全に他人事(ひとごと)として、ハインリヒは一連のことを微笑ましく感じた。
「あんなもの、よく縫ったな。小さい方が意外と面倒なんだろう、ああいうのは。」
聞きかじりでそう言うと、ジェロニモは否定はせずに浅くうなずき、そして、
「前見た、普通の大きさ、形もちょっと違う。」
「前って、どこで見たんだ?」
靴磨きを眺めるのをいい加減に切り上げて、ハインリヒは本を開き掛ける。その前にぬるくならない内にひと口と、コーヒーのマグを取り上げた。
「南極。ペンギンに化けた。」
コーヒーを口に含んでいなくて良かったと思ったのは、これで2度目だ。
あの時の話か! やっとイワンの言った、責任の一端とやらの話に合点が行って、ハインリヒはいやな汗をかく。ジェロニモやフランソワーズを大っぴらに恨むわけには行かないイワンの、その矛先がハインリヒに向きかねない。
「・・・あれは、作戦の内だったからな。好きでペンギンになったわけじゃない。」
そう言い訳がましく言いながら、イワンだって好き好んでペンギンの格好をしているわけでないだろうから、ハインリヒの心はいっそうキリキリと痛んだ。
きれいになった1足を、ジェロニモが揃えて階段のいちばん下へ置く。体を起こしながら、聞こえなければいいと言うような音量で、ぼそりとつぶやいたのが、それでもハインリヒにはちゃんと聞こえた。
「・・・フランソワーズ、みんなに着せたがってる。」
「なんだって?」
「・・・お揃い。」
ジェロニモがハインリヒへ横顔を見せ、その時だけははっきりと、ちょっと困ったなと言う表情をそこに浮かべる。それからすぐに顔を靴へうつむかせて、さらにぼそぼそと言い足した。
「おれの手、夏にちょっと悪くなる。冬まで良くならない。」
首を縮めるようにしてそう言うのに、ハインリヒは意図を悟るのに5秒掛かって、まだ飲んでいないコーヒーを持ったまま、
「──そうだな、俺はきっと来年までずっと仕事が忙しくてメンテにも来れそうにないな!」
新たに共犯関係を結んだふたりは、罪悪感たっぷりの視線を交わして、同時に、同じ深さに肩をすくめた。
決まり悪さにいたたまれず、ハインリヒは結局本を開きもしないまま、家の中に戻ろうと立ち上がる。
じゃあなと、そそくさとジェロニモに短く言って、互いに、互いを気の毒そうにもう一度見つめてから、ハインリヒは玄関のドアへ振り向いた。
鼻先に残る靴クリームの匂いを消そうと、やっとコーヒーに口をつける。
──無駄ダヨ、Amazonデキミノさいずヲ見ツケテ送ッテアゲルカラネ。
地獄からのように、またイワンの声が聞こえた。もう駄目だった。今度こそ、霧のように含んだばかりのコーヒーを吹き出して、あらゆることへの罰のように薄いセーターの前をコーヒーまみれにして、ハインリヒは呆然とそこに立ち尽くした。
ジェロニモのサイズは探しても無駄だ。けれどハインリヒの体格なら可能だ。
コーヒーまみれになった自分のセーターを見下ろして、次のメンテナンス──サボると、さっき言ったばかりの──には、ジェロニモ並みの体格にしてはくれないかと、ギルモア博士に頼むことを真剣に考える。
そこに、イワンの哄笑が聞こえて来たような気がしたけれど、海から風が──もしかしたら、南極の方向から──爽やかに吹いているだけだった。
top ▲
戻る